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ハローグッバイ

「クレアくん今年も一年間ご苦労様」
一年の最後の日の夜。年が明けるまでの時間を自宅で静かに過ごしていたクレアに、その夫であるドクターが声をかけた。ぼーっと無心で椅子に腰掛けていたクレアは突然のドクターの声に慌てて立ち上がった。
「あなたこそ、一年間お疲れ様でした」
クレアは目を細めて言った。彼女自身は笑顔のつもりなのだろうが、その顔は他人が見ると悲しそうに見える。二人分のマグを持ったドクターは「お茶でも飲もうよ」とクレアを再び椅子に座るように促して、自分も隣に腰を下ろした。
「無理に元気を出してとは言わないけれど、まだ悲しみは癒えないみたいだね」
ドクターの言葉に静かに頷いたクレアはお茶を一口飲んで「そうねぇ……」としみじみと回想するような遠い目をして、ドクターの方は彼女が話し出すまで何も言わず、椅子の背もたれに片手乗せて静かに待った。
「今年は一生忘れられない年になったわ。来年がもう目の前にきているのに、こんなにも年越しが
ワクワクしないのは始めて。あの子無しでこれからを生きてゆくなんて。 今はなんだかこの先の未来に何の楽しみが持てないのよ」
「そう気を落とさないで。仕方がないんだ、生き物はいつか死んでしまうんだ。命とは儚いものなのさ。そして終わりがないものなんてないんだ。いつか終わりが来る、僕らの命もね」
ハハハと乾いた笑顔のクレアにドクターは寂しげに笑った。
クレアは小さく頷いて、「だから命って大切なのね」と言った。
この年はクレアが牧場を始めて15年目の年だった。
クレアと愛犬のPがミネラルタウンに来たのが15年前、ドクターと結婚したのが10年前、子供が生まれたのが5年前と3年前、それから平和で幸せな日々が何年か続いたが、今年、愛犬のPが寿命で亡くなった。
この15年間のうちで、クレアの牧場で動物が死ぬのは今回が初めてであった。牧場のどの動物も平等に大切な存在だが、クレアにとってPは15年連れ添ったかけがえのない相棒でもあった。Pは15年間いつでもクレアに寄り添い、幸せな時も悲しい時も、子犬のときからふらふらの老犬になって寝たきりになっても、その優しい瞳でクレアを見守り続けたのだった。そんなPが死んでもう半年近くなる。クレアは人前や家族の前ですら平然と元気を装った。しかし、Pを失った日から彼女が本当の意味でかつてのような元気な笑顔をみせることはなくなった。少なくともドクターはそのように感じていた。
「大切なものを失うって怖いことだと思うの。ただ失うだけでなく、大切なものを失う怖さに気が付くでしょう。だったら何も最初から大切にしなければいいんじゃないかって思っちゃう。何かを大切にすること自体が無意味に感じる」
クレアはそう言う間俯いていた。彼女は少し嘘をついていた。だから自分の言葉に小さな悲しみを覚えた。顔を歪めながら、辛そうにしていたが、一方の話を聞いているドクターは淡々と言葉を返紡いでいく。
「いつか失うと分かっても、きみはそれを大切にすることが難しいのかい」
「大切にしたいけど、大切にしても、いつか失くなってしまうのよ」
クレアはドクターの厳しい態度に目に涙を浮かべながら少し強い声で言い返した。
「そうだけど、失くなってしまうから大切にしようってきみは思わない?ぼくはそう思うよ」
ドクターの生命の大切さを訴える、真っ直ぐな瞳と言葉に、弱ったクレアの心は震えて、そして彼女の目からは大粒の涙がポロポロと落ちた。本当はクレアもドクターと同じ気持ちだったのだ。弱った彼女の心が、彼女に嘘を吐かせていた。いま涙によって彼女は我に返ったのだ。
「きっと大切じゃないものなんて無いんだわ。わたしはもっとPを大切にしてあげたかった。あの子のぬくもりを手の平で感じられることだけで幸せなだったの。生きてくれているだけで、よかったの。あの子の命が終わったなんて信じられないの」
「きっとすべてのものに終わりはあるけど、でも過ぎてしまえば永遠さ。きみとPの幸せな思い出はきみの中で一生ものだよ。いま悲しいのは、きみが幸せなだったからさ。悲しみもまた終わりが来る。きみはまた幸せになれるんだ」
ドクターは目尻を下げて優しく微笑むと、クレアの涙を拭ってやった。クレアはただされるがまま、何も返事ができなかったが、悲しみに暮れている自分の人生もまたひとつの大切にすべきものなのだと気が付くと、いま頬をつたう一粒一粒の涙はきっとPへの想いが形を変えて、自分のこころから溢れ出たものなのかもしれないと思った。だから流れている涙さえも大切に感じるのだった。
「さぁ、年が明けるよ。子供達は寝ているし、二人で日の出を見に行こうか」
ドクターがクレアの手を引いて、マザーズヒルの頂きまで連れて行く。ツンと鼻を刺すような冷たい空気と薄暗い道を二人が登っていく。そしてようやく目の前に空が見えて来た時、朝靄の中まるで真赤な海のような景色の中に日が昇ってきた。
「クレアくん、今年もよろしく。来年も再来年も、死んでも尚ぼくらはお互い想い続けよう。そしてもしそれができたとすれば、終わらないものがあるということになる」
クレアはドクターの言葉に永遠を誓うとはこういうことなのだと思った。
「うん、今年もよろしくね」
そう言ってクレアは笑い、夜は明けて新らしい一年の新らしい朝がやってきたのだった。