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冬の到来

町を歩く人々の吐息が白く目に見えるようになり、そして牧場の土に霜が降りたと思うと、やがて町中が銀世界になりました。
そして静かな冬のある日にドクターとエリィは春を待たずに結婚しました。
お花牧場の二人の結婚の報せが来たのは、クレアがドクターと初めて二人きりで歩いたあの日からすぐのことでした。冬の冷たい風が吹き始めたある朝、ピートがポストを覗くとその報せは入っていました。結婚式当日、二人は出来る限りの笑顔を浮かべて、ドクターとエリィの幸福な式に参列しました。
クレアはどうせこの日が来ると分かっていたのだから、ピートのためにも早くにドクターへ想いを告げればよかったと思いました。それが出来なかった今、結婚したばかりで幸せなドクターに「好きでした」と言って少し困らせてやろうとも思いましたが、そうするには彼らはあまりに幸福そうでした。それにそう考える自分が余計にみじめになるようでした。
こうしてクレアは失恋に心を痛め、ピートもまたクレアの痛みを共有しました。
しかしお花牧場の二人がどんな気持ちであろうと、朝日はのぼり毎日は過ぎていきました。
冬を迎えたお花牧場は見た目においても、また日々の内容おいても丸っきり彩りを失くしました。降り続ける雪が牧場の何もかもをただの真っ白な平野にしたのです。
ある日、ピートは殺風景なこの牧場の真ん中で、一人想いを馳せていました。
何もない真っ白な場所に記憶の色を乗せていました。
子供のころに訪れた、美しく楽しかったおじいさんの牧場。
再び訪れたときの主人を無くした荒れ果て牧場。
それと同じ春の風の中でみた、自分たちの希望の牧場。
夏から秋の間少しずつ育て、広げていった自分たちの愛すべき牧場。
しかし、冬とはおそろしいものです。
その記憶を消し去るかのように牧場を真っさらなものにしてしまったのです。今、このお花牧場には色がありません。それは単に雪の所為ではありません。今の牧場はまるで入れ物だけの中身がない、空き箱のような空っぽの状態なのでした。
ピートはこの静かで何も語らない牧場の風景は、自分たちの心を現実に表現しているようだと思いました。
ピートはそんなことを考えて、鼻の頭と頬を赤くしながら牧場を見ていました。
「こんなところにいたら風引いちゃうよ」
ピートはまるで夢でも見ていたかのように、慌てて声のほうへ振り向きました。
そこにはいつものつなぎのしたに厚手のセーターを着込み、首元に赤いマフラーをしたクレアの姿がありました。
「冬の牧場ってなんだか寂しいね」
「こうも殺風景だとね。でもこれからの春の牧場をイメージするには絵が浮かびやすいね」
ピートは笑って言いました。
「ね、何か考えていたの?」
「ちょっとね、一年間を振り返っていたんだ」
二人の春の思い出は実に明るいものでした。だからこそ、クレアは「そっか」と小さく笑い、「また春の頃に戻りたいね」と言いました。
それは二人がいつも思うことでした。しかし、もうあの頃には戻れないことは痛いほどに理解していました。
それから二人の会話はとぎれとぎれに続きました。
「はじめて作ったじゃがいも、そりゃもう小さかったよねぇ」
「ほとんど出荷せず食べてたもんな」
「そういえば、もう街に居た頃の貯金なくなっちゃったわ」
「また貯めればいいよ。へんに冒険しなけりゃすぐに貯まるさ」
「そうかな。まだやっていけるかな」
「いけるだろ〜、なに弱気になってんだよ」
「そう、だね」
クレアは少しの間をおいた後に相槌を打ちました。
それを見てピートはクレアはまだ失恋に傷心しているのだろうかと、「大丈夫?」と心配になり声を掛けました。
クレアはただ頷いただけでした。
春の風はやさしくやわらかい。そしてそれは人を優しくさせました。
いまのクレアには春の風が必要でした。冬の風は傷ついた彼女の心にはどうにも冷たすぎるのです。
「春になる少し前に、花の種をたくさん蒔こう。少しずつ買っておいたんだ。そうすれば、春には牧場は花でいっぱいになるよ」
クレアはふと、ピートの牧場への夢を思い出しました。
ピートはあの春の日の午後、「牧場を花でいっぱいにしたい」と語りました。
「ねぇ、どうしてピートの夢はお花の牧場なの?」
クレアはピートの横にしゃがみ込み、真剣な顔で尋ねました。そしてピートも真剣な顔つきでため息をひとつしてぽつりとぽつりと語り始めました。
「おじいさんの牧場が畑ばっかじゃなくて花も咲いていてきれいだったってのもあるけどさー。花はさ、心に余裕をくれる気がするんだ。いや、逆に余裕をつくるために花を欲するにかもしれないけど……。とにかく花を愛でるには心と時間に余裕がないとできない。花を育てる過程で気を休めてさ、花が咲く頃には心が癒されるんだ。たくさんのきれいな花を見れば、それだけで安らぐ人もいるだろうし、一石何鳥にもなるじゃん」
「それと……」とピートは続けます。
「今はクレアのためにもさ。たぶん、今おれたちには花が必要なんじゃないかな」
クレアは口をぎゅっと横に結んでピートの顔を見ました。
彼女は泣くのを我慢しているようでした。
「だから春は牧場を花でいっぱいにしよう。名前の通りもお花の牧場にするんだ」
ピートがそう言って立ち上がると、Pが小さい尻尾をふりふりやってどこからともなく走ってきました。そして馬小屋からはステップが二人を優しい目で見つめています。Pもステップも春にここへやって来てから大きく育ちました。
クレアは思いました。
自分だけ立ち止っているわけにはいかない。こうしていても、あの春は再び戻ってくることはない。そう、前に進むしかないのだ。
こうしてクレアはピートと牧場のみんなに背を押され前に進もうとしていました。
冬の到来とともにすでにお花牧場には春の訪れが予感されました。牧場に再び色が戻ろうとしているのです。