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彼女のプリムラ

(真歩さまへ 相互記念として)

クレアはミネラルタウンに来て以来、愛犬のPの散歩のためほとんど毎朝マザーズヒルを訪れました。早朝となると、たまに木こりのゴッツさんと会うことはあっても、他にこの場所に訪れる者はだれもなく、クレアとPは自由に丘の上を散策することができました。
この日、クレアは丘の中腹へ向かおうと橋を渡っていると、珍しいものを見つけました。それは、今まで見たこともないような大きなムーンドロップ草でした。珍しいのはそれだけでなく、普段マザーズヒルでは大体の野花は丘の中腹までいかないとみつけることはできませんが、なんとこの花はその場所とは程遠い、滝のすぐ脇の岩壁の隙間から生えていたのです。
「P、待って。こんなところに大きなお花が咲いているわ。手を伸ばせば届きそう」
クレアは花を見つけると、どうにも気になってしまい、橋をわたりきると滝へ続く小さな脇の道に踏み込みました。そのときです、クレアは水でぬかるんだ地面に乗ってしまったことで一気に川の中へ滑りおちました。Pはその突然の出来ごとにワンワンと大きな声で鳴きながらクレアの方へ近づきましたが、「こっちへきちゃだめよ」と主人の声をきいてその場にとまりました。クレアは完全に落ちていたわけではなかったのです。
しかしクレアは下半身まで川に落ちた状態で、一人では這い上がってこれそうになく、片腕は川の脇にお情け程度に生える草につかまり、もう片腕は地面につきながら体を支え、水の中の両足でなんとか水流に負けないよう踏ん張っていました。
「うかつだったわ。すぐ先は滝だっていうのに。誰かに助けてもらわないと……。でもこんな朝早くにだれか来るかしら」
クレアはなるべく現状を維持するために大きな声で助けを呼ぶことは避けました。あと少しでも動いたらバランスを崩し、水流にまけてしまいそうだったからです。クレアは困って下唇を噛みしめました。誰か、例えば“あの人”が来てくれたりしないかしら、クレアがそう考えたとき、丘を上ってくる人影がみえました。そして、こちらに気付いたようでした。その人は不思議そうな顔でこちらを見て、少しずつ近づいてきました。やがてクレアの姿を見つけると「クレアさん!」と叫びました。クレアは、声で“誰か”が鍛冶屋で働くグレイだと気付きました。
数分後、クレアが無事に助か出されるころ、クレアもグレイも全身水と泥でひどく汚れていました。
「ほんとにありがとう。ごめんね、そんなに汚しちゃって」
「ああ、いいよ、大丈夫」
クレアとグレイは川と離れた安全な場所に移動し、座りました。Pもクレアのすぐそばに座りました。
「ねぇ、なんでこんな時間にここに居るの?まだ朝の六時くらいでしょう。それに、着替えとか大丈夫?おじいさんに怒られないかしら」
クレアはさっきの今というのに、いつもと変わった様子もなく平静としてグレイに色々と問いかけました。そして始終、にこにこと微笑んでいました。そのことにグレイは目を丸くして「質問したいのはこっちだよ」と呆れた顔でいいました。
「クレアさんさぁ、なんであんなところにいったの?危ないよ」
クレアは、あんなことになった原因であるムーンドロップ草を遠くから見つめました。その花は、いまも何かを誘うようにゆらゆらと風に揺れていました。
何も答えず、ただ遠くを見つめているクレアにグレイは少し苛立ったような様子を見せ、次々と言葉を投げかけました。
「聞いてる?なんであんなところにいったの?しかもこんな朝早くに!おれがたまたま、じじいに言われて丘登りさせられたからよかったものの……、あー、とにかく危ないじゃないか。あんまり心配させないでよ」
「ん、ごめんね。でも人生にスリルはつきものでしょ」
グレイの勢いとは正反対にクレアがけろっと言いのけたその一言に、グレイは言葉をつまらせました。それからクレアは鼻歌を歌いながら、服の汚れを手ではたいたり、髪を気にしたりして、グレイはその姿をただ無言で見ていました。
「なに?」
「いや、クレアさんて変わってるなぁと思って」
「えー?なにが」
「さっきのをスリルって言えるのはすごいなぁって」
「あのときは怖かったけど、過ぎちゃうとそうでもないよ」
「もしかしたら死んでいたんだよ?」
「でも助かったじゃない、あなたが来たから」
クレアはグレイを真っ直ぐに見て笑顔で言いました。それに対してグレイは顔を赤くして返答に困りました。クレアの言葉は彼にとって色々な捉え方ができました。こんなとき、二人の関係がとてもじれったいのです。ただ一言でも、クレアがグレイに対する本当の気持ちを表現すれば、彼もこんなに戸惑うことはないのですが。
グレイの様子に気付いたクレアは、そんな彼をからかうように「これからも私のこと助けてくれるよね?」と悪戯っぽく笑って訊きました。つまりグレイは手玉に取られているのです。ころころと彼女の手のひらの上で転がされているのです。
「助けるよ、たぶん……、これからもずっと」
だからこんな風に言うしかないのです。
クレアは満足そうにうなずくと、「帰りましょう」と言って、グレイの腕を引っ張りました。丘を下りるまで二人はぴったりとくっついていました。
その間グレイの顔が真っ赤になっていたことはいうまでもありません。
後日、ピートがマザーズヒルから泥だらけで帰ってきました。
クレアはピートの手にしているみたこともないくらい大きい黄色い花に、見覚えがありました。
「ふふ、ピート、誰かに助けてもらえた?」
「一人で這い上がったんだよ。こんな花、気にするんじゃなかったな。クレアも気をつけろよ。お前、こういうの興味あるだろ」
クレアが訊ねると、ピートは少し怒ったような顔をして左手に持った大きなムーンドロップ草を睨んでいました。
「大丈夫、わたしには助けてくれるひとがいるから」
クレアは無垢な笑顔でいいました。
ピートは彼女の言葉に怪訝な顔をしましたが、「ああ」とすぐに納得しました。
「あんまりグレイを困らせるなよ」
ピートにそう言われたクレアの顔は、なぜでしょう、それはそれは真っ赤になりました。




真歩さんに相互記念として書かせて頂きました。グレクレということでしたが、こんなんですみません!
真歩さん、リクエストありがとうございました!