Race.1「よーい、どん」

こんにちは。みなさん。
あたしは今回の主人公、早川亜季です。

いきなりですが、みなさん。目の前で猛獣が寝ています。起こさないと家に帰れません。起こしますか?
あたしは起こしたくありません。
でも起こさなければなりません。
早く、行かなきゃいけないところがあるのです。


「切原。切原ってば。」


勇気を振りに振り絞り、猛獣に揺すりをかけます。


「……ん?」


反応あり。
あたしはすぐさま防御態勢をとる。
手の届かない1.5mの間隔を、とる。
なんでこんなに彼を警戒してるかって。
だってついこないだ、別の人が彼を起こしたところ、潰す!って、キレたから。
まぁ、そのときその人は、足で蹴って起こしたんだけど。


「……今、何時?」


びくびくしてるあたしの心情をよそに、猛獣は寝ぼけた顔で時間を尋ねる。


「3時前だよ。」

「3時?………あぁー!」


猛獣はでっっかい声で叫び、
引き続き独り言とは思えないほどのでかい声で話す。


「もう部活始まってんじゃん!やべぇ!真田副部長に怒られる!」


そしてばたばたばたーっと、自分の机の上を片付け始めた。
余談だけど、彼は5時間目から今の今までずぅーっと寝てたらしく、まだ5時間目の英語の教科書が出しっぱだった。


「よし!」


何がよしなんだか、ラケバを背負ってこの場を去ろうとした、けど、


「ちょっと待って!」


あたしは両手で猛獣のラケバを掴む。
くるりと振り返る、彼。その目から、なんか用?って言ってるのがわかった。怖い。


「切原、今日、日直。あたしと。」


ネイティブジャパニーズのくせに片言とは。だって目が怖いんだもん。


「だから?」


へらっと笑って聞き返された。
その無邪気な邪気漂う笑顔が逆に怖いし。


「日誌に今日のこと書かないと。」

「あー、適当に書いといてよ。」

「や、でも先生、絶対切原に書かせろって。」

「…チッ。」


一瞬にして笑顔は崩れ、舌打ち。
あたしのせいじゃないのに。


「じゃあ日誌貸して。」


貸してと言いつつ、あたしから日誌を奪う。
そしてあたしのシャーペンも奪うと、さらさらと書き始めた。


「きょーうーもーいーちーにーちーがーんーばーりーまーしーたー、っと。はい。」


またへらっと笑いながらあたしに日誌を返した。
さっきから、この無邪気な邪気漂う笑顔に寒気がするのはあたしだけ?


「じゃ、おつかれっス!」


その言葉を聞き終える前にあたしは、また再び日誌を書き始めた。
まだ途中だったのよね。
えーっと、今日の3時間目は…、
…ん?

視線を感じ、横を向くと、猛獣がじっとあたしを見ていた。
出ていかなかったっけ。


「なに?」

「あんた、さっきからそれ書いてんの?」

「そーだけど…。」

「遅くねぇ?」


ああ、あたしの一番気にしていることを。
そうだよ、どうせあたしはのろいですよ。基本的に人が5分かかることはあたしには30分。
彼は特に、人よりせっかちだから余計あたしがのろく感じるんだろう。


「なんか、その字の書き方も遅ぇ!」

「…丁寧なだけだもん。」

「てかさ、まだ黒板もきれいにしてないっしょ。いつ部活に行くんスか?」


みなさん。言い忘れてましたが、あたしもテニス部です。彼と一緒です。
ただし、彼とは違ってレギュラーとは程遠い存在。
テニスは大好きだから練習は欠かさず行ってるんだけど、まぁ人よりのんびりしてるせいかしら、あまり上手くなく。


「そんな調子じゃ部活行けねーじゃん。」

「いや、もうすぐ日誌も終わるし…、」


あたしの話を聞いてんだか聞いてないんだか、彼は黒板をきれいにし始めた。
思わず目をごしごし擦ってしまう。
猛獣が、黒板をきれいにしてるなんて…!


「時間もったいねーけど手伝うよ。」

「あ、ありがとう。」


ちょっといいとこあんじゃんって、見直した。
でもそもそも彼の仕事でもあるのよね。おかしいな。

猛獣は黒板をきれいに、あたしは日誌の続きをせっせと書く。


「ねぇ。」

「ん?」

「女子ってまだ勝ち残ってんの?」


今男女ともに大会の真っ最中。
立海は男テニが全国二連覇中ですごく強くて。
女子も男子ほどじゃないけどまぁまぁ強い。


「うん。昨日も勝ったから。」

「へぇ。誰が一番強いの?部長?」


あたしはのろいけど、勘は鋭いほうだ。
何となく、奴の話の意図が掴めそう。


「そうだね。高山部長がやっぱ強いよ。」

「次は?」


彼は基本的に女テニと交流を持たない。
丸井先輩とかは三女と仲良しだけど、彼は二女とそんな仲良くない。まぁあたしは同じクラスだからそれなりに話はするけど。

でも仲のいい三女がいるらしい。
それで、噂があった。
猛獣の恋の。


「松浦先輩かな。強いよ。」

「へぇ。」


さっきのへぇとは明らかに違うトーン。
待ち望んだ名前だったはずだから。


「千夏さん、…あ、松浦サン、普段すげーとろいくせに、テニスは上手いんだよな。」


あたしは知ってる。
“とろい”と“のろい”の違い。
どっちも“遅い”ことには変わりないけど、男の子が女の子に“とろい”と言うときは、きっと心の中でもう一言続く。

“守ってやんなきゃ”
そこに愛が込められる。

ちなみにですが、あたしはのろいとしか言われたことがないっス。


「やっぱ噂、本当だったんだ。」


ちょっと猛獣慣れしてきたせいか、チャレンジャーなことを口にしてみた。


「噂…?」


くるりと振り返った彼は、ずいぶん怪訝な顔してる。ちょっと怖い。


「どんな?」

「切原が松浦先輩を好きって。」


一瞬、顔を歪めたけど、すぐに前を向いて再び黒板をきれいにし始めた。


「前な。今はブン太先輩の彼女だから。」


猛獣のくせに、猛獣のかけらもないような寂しい声で言った。
今どんな顔してるんだろ。
奴は表情がコロコロ変わる。
感情が表に出やすいんだろう、笑顔や怒った顔、不機嫌な顔、キレてる顔、などなどすぐ変わる。

今どんな顔してるんだろう。そう思ったあたしはかなりチャレンジャーだ。


「松浦先輩が二股かけてたってのも本当?」

「はぁ!?」


リアクションよく、ものすごい勢いで振り向いた。
顔は、不機嫌な顔→キレてる顔に変わる途中、みたいな。


「丸井先輩と仁王先輩に。」

「ちげーし!誰だよそんなこと言ったの。」

「…噂だからわかんないけど。」


目の前の猛獣は、みるみるうちに目を赤く染めていった。


「早川、」

「は、はい。」

「次千夏さんの悪口言ってるやついたら教えろ。そいつ潰すから。」


そう吐き捨てて、猛獣はラケバを背負って出ていった。
見たら、黒板はもうきれいになってた。やること早いなぁ。あたしも早く日誌終わらせなきゃ。

さっきのことを思い返してみるけど。
あいつは怒ってたのに、ちっとも怖くなかった。
あたしに向けられた赤目も怖いどころか、まるで泣いた後のような寂しい目に感じた。
それであたしは思った。切原は猛獣じゃない。

彼は、うさぎだ。赤目なだけに。
あの赤い目は、泣いた後の目。恋をしていた目。失恋してしまった目。
さびしがってるうさぎ。

我ながらうまいことを思いついたと思って日誌に書きたくなったけど、
そんなことをしたらうさぎでも凶暴化すると思い、やめておいた。

それより早く日誌終わらせなきゃ。
えーっと、今日の4時間目は…。


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