■ ■ ■

また連絡する、その仁王からの連絡がきたのは少し経ってからだった。その日の夜とか次の日にくるのかな、なんて思っていたから、これはもうなかったことになったのかななんて、ずいぶんと自分勝手に落ち込んでいた。


「よっ」


ピンポーンと元気よくインターホンを鳴らして、来たよーと答えると、中のほうからバタバタバターって騒がしい音が聞こえてすぐに仁王が出てきた。
そしていたあたしに、すごくびっくりした顔。


「…駅で待ち合わせしとらんかったか」

「うん。でも早めに着いちゃったから」

「早過ぎじゃろ。俺まだパジャマじゃき」


夕方から飲みにでも行こうって話になってて、待ち合わせは18時だった。でも今現在まだ16時。

確かにあたしも早過ぎではあるけど、それでもこの時間でまだパジャマってどうなの。仁王の言うパジャマ、上下スウェット姿を見つつ笑った。


「とりあえず上がるか?」

「…おっ邪魔しまーす」


前と同じように何の意識もせず、と言うのは無理がある話。だけど、できる限りそう悟られないように、できる限り無邪気を装って上がり込んだ。

ついこないだ来たばかりの部屋。1K6畳、ユニットバスの学生らしいお家。
それまでも何度か上がったことはあったけど、あの夜は特別だった。息苦しかった。


「突っ立っとらんと座ったら」

「はーい」


リビング兼寝室であるメインの部屋に入りぐるりと見渡していると、後ろの廊下兼キッチンから仁王の声がした。見渡すなんてしなくても、仁王の生活空間はこの一間だけ。

ただあたしは違和感を探した。見つけたら見つけたで思うところはありそうだけど、違和感を、部屋の変化を見つけたかった。


「なんか飲む?水かコーヒーか牛乳しかないが」

「んーじゃあコーヒー牛乳で!」

「欲張りじゃな」


ククッと笑いながら、仁王は電気ケトルに水を注いだ。ちょっと前にここへ来たときよりも、ずっと仁王の顔色は良く見える。でもあたしはやっぱりその指に目が行ってしまう。

そしてその違和感に何とも言えない気持ちになりつつ、ほっともする。
仁王の指には、以前していたあの子との指輪はもうないんだと。


「これ観途中?」

「ん?…ああ、他の観たかったら消していいぜよ」

「いや、これの続き観たい」


あたしが来るまで仁王は録画番組を観ていたらしい。画面はその番組のワンシーンで止まっていた。こないだ地上波初放映となった有名な映画だと、右上にテレビ局とともに表示されたタイトルを見てわかった。もうあたしはリアルタイムで観てたやつだけど。

そして違和感を、部屋の変化をついに見つけた。たぶんちょっと前に来たときも、すでにそうだったと思う。
以前であれば、テレビの横の棚に飾ってあったはずの写真。仁王とあの子との写真がなくなってる。


「お待ちどうさん」

「忍びねえな」

「構わんぜよ」


こんな芸人のネタをやり取りできるぐらいには、二人とも自然だ。正直、ここに来るまではちょっと緊張していたけど。でも仁王は男子小学生ではなくいつもの仁王で、あたしもあたしでほっとしたせいかいつものあたしになれてる。


「まだ飲みに行くのは早過ぎるかのう」

「うん。すまんね、早過ぎて」

「いや全然」


ズズッとコーヒーを二人して啜りながら、とりあえず観ていた映画の続きでも観ようかとなった。

あたしは壁際のベッドを背もたれに、仁王は下座で座椅子に座り、静かに映画上映会が始まった。…途中からだけど。観たことがあるといっても内容をはっきり覚えているわけじゃない。ここまでの流れはどんなんだっけと必死で思い返した。

だから、この静かな話さなくてもいい空間が居心地良かった。早めに遊びに来たくせに、話さなくてもいいなんて仁王が聞いたら何だコイツって思われるかも。おまけに間違い探しのように違和感を探しては無粋に喜んで、どうかしてる。


「首疲れないんか?その格好」


ベッドを背もたれに、というか途中からベッドに頭を乗せてダラーンと姿勢悪く半分寝ている格好だったものだから、そう笑いながら仁王に突っ込まれた。
まぁ姿勢の悪さなら仁王も負けてないと思うけどね。あたしと同じようにダラーンと座椅子に座ってるというか、ほぼ寝てるし。


「うーん、ちょっと首痛い。てか後頭部が痺れてきた」

「この椅子使う?」

「やー、大丈夫」

「寝転がってもいいぜよ」


それは床に?ベッドに?床だとしたらテーブルが邪魔になって画面が見えない。仁王が一番わかってるだろう。だとしたらベッドに?それは願い下げだ。


「別に寝込みを襲ったりせんから」


茶化すように笑った仁王に、少しばかり腹が立った。襲う襲わない以前の問題だ。

このベッドは前からあるやつだよね。きっとここで何度もあの子と愛し合ったんでしょ。なのになんて女心のわからないやつなんだと、勝手に苛立つ自分に一番、腹が立つ。

でも、好きな人のベッドに横たわること。例え変態だと思われようとも、それは究極の贅沢だと、個人的には思う。


「…じゃあ、借りちゃおっかなー」


誘惑、煩悩、憧れ、本能、すべてに負け、というかあたしのくだらない意地や嫉妬なんかどうでもよくなり。お言葉に甘えてその贅沢ベッドへと体を沈めた。

仁王の匂いがする。そもそもこの部屋中がそうなんだけど。特にこのベッド、枕からはすごく仁王臭がする。…クサイとかじゃなくてね。超いい匂い、あたしにとって。

いつだったか、高校生のときか。その匂いに気づいた。それから、日常のなんてことないときにでもちょっと体が接近したときは、度々感じていた。友達とこの家に遊びに来たときも感じた。ちょっと前に抱きしめられたときは殊更に感じた。
そして今もそう。あの子はずっとこれを一人占めしてたの。浮気とかなんてもったいないことするんだ。


「なんか寝そうじゃな」


まさかそんな。こんな変態じみたことにドキドキしながら寝られるわけがない。
でも居心地良くて。瞼が重くなっているようにも感じる。この仁王臭にうっとりとろけてる。


「俺もちょっと寝るか」


欠伸をしながら立ち上がった仁王は、テレビを消し電気も消した。夕方でも日が長くなっていて、部屋の中は仄暗い程度。正直きた!と思った。

ドキドキドキドキ、心臓が痛いほどに速くなる。仁王がベッドの横に来て、あたしの頭をぽんぽんと撫でたとき、高鳴りは最高潮となった。


「おやすみ」


でも、仁王はそのあとあたしと一緒のベッドに入ることはなく。その下、床にゴロンと横たわった。……あれ?


「…仁王」

「ん?」


下に向けて顔を覗かせ仁王を見ると。仁王はあたしに背を向けたまま返事をした。

その背中を見つめながら思った。こないだ、仁王が大事だからとあたしは言った。あのとき仁王が本気であたしとやろうと思っていたかはわからない。けど、あたしがその気であればシチュエーション的にも据え膳食わぬ状態だったと思う。

つまり、そもそも一線を引いたのはあたし。そんなことはとっくにわかってる。


「どうした?」


呼んだのになかなか話し出さないことを不思議に思ったのか、仁王はゆっくりとこっちを向いた。

あたしは別に仁王と体の関係を持ちたいんじゃない。友達としていい関係を築いてきたのに、そうなってしまったらきっと何もかも崩れる。

あたしが欲しいのは仁王の気持ちただ一つ。でもそれはきっとまだあの子に向かってる。なのにどうして、こっちに来て欲しいなんて思っちゃうんだろう。そんな形ばかりの葛藤がものすごくカッコ悪くて。

そっと仁王に手を伸ばした。頭でも肩でも背中でも何でもいい、触れたくなった。
そしたら仁王は、あたしの手を掴み、自分の指を絡ませた。

こないだの腕の中もそうだけど、こんなふうに指を絡ませるなんてことも、今までじゃあり得なかったこと。


「なにこれ」

「わからん。手伸ばしてきたからこれかと。違った?」

「…ううん、違わない」


呟いて枕に顔を伏せると、微かに仁王の笑った声が聞こえてきた。

このままグイッと仁王が引っ張れば、あたしはあっさりと仁王の元へ行くだろう。あたしが引っ張ったら、仁王は来てくれる?
少し怖くてできなかった。来なかったら悲しい、ということもあるけど。

やっぱり今はこのままがいいんだと思ったから。あの夜の、大事だと言ったときの仁王のうれしそうな顔と、待ってると伝えた自分の気持ちが、舞い上がった心を落ち着かせてくれる。


「手、上げてて疲れない?」

「そのうち疲れそうじゃな」

「離そうか?」

「んー…」


あたしはちょっと下に向けてるだけだけど、仁王は明らかにうんと伸ばしてるはず。このまま寝ると間違いなく痛くなる。残念だけどそれは酷だから。


「あんま離したくはないのう、俺は」


絡ませた指がさらにぎゅっと締まった。“俺は”離したくない、あたしが離したいと言えば離すつもりはあるってこと。
この手から、仁王の気持ちがほんの少し伝わってきた気がする。


「よーし、じゃあ離さないでね」

「と言ってもそっちが離したら俺の手は落下するぜよ」

「あたしも離さないもん」


負けじとぎゅっとすると、ちょっと指が痛くなった。仁王も痛かったのか、もうちょい緩めで、と笑った。

そのまま二人で奇妙なお昼寝(お夕寝)タイム。でもあたしは眠れなかった。仁王はどうだろう。ずっと目は閉じられていたけど、寝たのかな。
ただ、絡ませた指とお互いの手が離れることはなかった。

その日はなんやかんやで遅くなったから飲みに行くことはなく、近くのお蕎麦屋さんでご飯を済ませた。それだけでも結局は幸せだったあたしは、純粋かバカかのどちらかだろう。
予定と違うけど案外幸せ
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