行かないで
『来週頭から天気が崩れる模様で、県内では今週いっぱいが見頃となり……』
テレビの中いっぱいに広がる桜の景色に釘付けだったけど、そろそろ時間だと気づいて電源を切った。
桜なんて小さい頃からたくさん見てきた。ざっくりときれいだな、ぐらいしか感想は持てない。そもそも見られる期間も短いし、あっという間に散る。おまけに毛虫は多いし、お花見をする場所なんてゴミが散乱していたりもする。
でもこの時期になるとやっぱり心惹かれるのは、開花を心待ちにするのは、なんでなんだろうな。
きれいだから?儚いから?旅立ちの季節だから?
「ちょっと外出てくる」
「外?こんな時間に?」
「ただの散歩だから。先寝てて」
いくつになっても心配した顔を向ける母親に早々に背を向けて出発した。今の俺の顔は、どんなんだろう。
自転車に跨り、行き先はあの公園。ちょうど今見頃だって話。
たったの数分で着いて携帯の時計を確認すると、午前0時をちょうど回ったところだった。
ついに“この日”が来た。
「おまたせー!」
さすが見頃ってだけに、人がけっこういる。夜中だってのに騒がしい。
そんな喧騒を裂くように、名前のいつもの明るい声が響いた。
「待った?」
「いや、俺も今来たとこ」
「そっか。自転車どっかに停める?」
「ああ、あっちに駐輪場があんだよな」
「オッケー、行こう!」
今日、っていうか日付けが変わる頃に夜桜を見ようと提案したのは名前だ。なぜ今日なのかっていうのは、俺らが付き合った記念日でもあり。
「じゃあ、ぐるっと回るか」
自転車を停めてぎゅっと手を握りしめた。うれしそうに笑いながら握り返してくれた名前は、辺りが少し薄暗いせいかちょっと目が腫れぼったく見える。
俺の顔も今こんなふうなのかな。ちゃんと笑ってる?
「夜桜っていいよね」
「まぁ、こうやってライトアップがあるときれいだよな」
「次にここで見られるのはいつかなぁ」
途端に手に力がこもる。寂しいのと、今日はそういう話はナシって言ってたじゃんっていう反抗の意味で。
「何度も言ってるけど、今日見送りはいいからね」
「わかってるって。そもそも今日は普通に部活だし」
「…だよね」
この話は散々したことなのに、なんで今さら、そんな悲しそうな声なんだか。
今日、名前は旅立つ。立海から、神奈川から、日本から、…そして俺からも。
「どうよ、英語はもうペラペラ?」
「うーん…まぁ日常会話は出来ると思うよ」
「授業は大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。何とかなるよ。…あ、あそこでちょっと写真撮ろうよ!」
散策中に見つけた池のほとり。周りに人もいなくて、名前は俺の手をぐいぐい引っ張って駆け寄った。
「まず私のスマホね。ブン太のが手長いからシャッターシクヨロ」
「おうよ」
内側カメラで、桜と池と周りのライトアップが写るように、角度を何度も調整しながら撮った。
寄り添った二人は、暗くて写りがいいとは言えないけど、お互い満面の笑みではあった。
「じゃあ次俺のな」
そう言ってポケットから携帯を出すと、名前は何も答えないどころか俺に背を向けて歩き出した。
「え、ちょっと待てよ、俺のケータイでも…」
「撮らなくていいよ」
「は?」
「ブン太の携帯には残さないで」
何言ってんだよこいつ、と思った。その発言の意味がわかんないってわけじゃない。
どこまで自分勝手なんだよって、思った。
「もう遅いから帰ろうか」
「待てって」
「お母さん心配してるよきっと」
「待てよ!」
このまま引き止めなければ、きっと来た道を戻って勝手に帰っちまう。強く腕を引っ張った。
「俺、ずっと聞きたかったことがある」
名前はこっちを向かない。斜め後ろの、せいぜいほっぺたしか見えないけど、どこか遠くを見てる。
「なんで、別れなきゃなんないの?」
名前がずっと海外に思いを馳せていたのは知ってる。留学しようと思ってるって聞いても、俺は驚かなかった。夢を持って、邁進する姿をずっと応援したいとさえ思った。
それは、たとえ離れ離れであっても、俺らは恋人であり続けるって自信があったからだ。少なくとも、俺はな。
「言ったじゃん。絶対無理だって」
「無理かどうかわかんねーじゃん。諦める前に努力してからだろ」
「嫌だもん私は。お互い楽しいときもつらいときもそばにいれないし」
「……」
「そういうことが積み重なって、気持ちがだんだん離れるのを、海の向こうで待つとか嫌なの」
「でも俺はずっと…」
「私はどうかわからない」
その言葉は俺の目を見てはっきりと言われた。
俺はずっと一途に好きでいる自信はあっても、こいつにはないってことか。
「…俺のこと好きって言ってただろい」
「うん」
「愛してるって、世界で一番大切だって…、全部嘘かよ」
「嘘じゃないよ」
「嘘じゃねーかよ」
「じゃあ嘘でいい」
だから私の気持ちは変わらない、とまたしっかり目を見て言われた。なんだよそれ。ずっと好きでいる気持ちは変わるかもしれないのに、別れる気持ちは変わらないって、めちゃくちゃ、理不尽過ぎる。
こんな別れ際にぽたぽたと涙をこぼす男なんて、カッコ悪すぎ。そんないらないプライドが邪魔をして、これ以上縋り付けそうもない。
力なく手を離した。
「ブン太…」
ごめんねって、言われると思った。ずっと付き合ってきた彼女だ、その表情や雰囲気、言葉を繋ぐタイミングで、何が言いたいのかわかる。今までに何度も、同時に同じ言葉を発したり、あーそれ今言おうと思った!なんて笑い合ってきた。
でもごめんねは言われなかった。今だけじゃない。別れようと言われた日から、ただの一度も。
おそらく言わないと心に決めてるんだろう。言ったらきっと、もっと俺の傷を抉るって思ってる。
「私も頑張るから、ブン太も頑張ってね」
ありきたりな門出の言葉。うれしくもなんともなかった。
去っていく名前の後ろ姿は、最後なのに涙目でよく見えない。
あいつがただの一度でもごめんねと言ったら、俺の前で泣いたら、俺の気持ちは晴れてたのか?そうは思わない。
だから、これぐらいの冷たいラストがちょうどよかったのかな。
夜空を見上げると、きっと昼間なら快晴の空、今はそこそこきれいな星空。
そして桜は、やけに張り切って咲いてる。もうすぐ終わるから、最後の力を全力で出して咲いている。
今まで何とも思わなかった満開の桜は、今は俺を慰めてくれている気がした。
数年後、共通の友達から、名前が近い内にこっちに戻ってくると聞いた。どうやら就職は日本でするらしかった。
夢は叶ったのかな。思う存分、やりたいことやり切ったのかな。
「ブン太ー」
「ん?」
「なんかぼーっとしてるね」
「そうか?」
あいつと別れた日から何度目かの春。俺は再びあの公園に来ていた。
今付き合っている、彼女と。
「お花見つまんない?」
「や、つまんなくねーよ」
「あ、わかった、お腹空いたんだ?」
腹減っただけだよって、心配する彼女にそう言おうと思ったのに。先に言われた。
「おー、よくわかったな」
「わかるよ、ブン太の顔見ればー」
得意げに笑うその顔は、昔の俺のようだった。好きな人の心の中を知りたい、知ることができたらうれしいって。
ただ俺は、最後の最後であいつの心が読めなかった。
でもそれはそのときだけの話。今ならわかる。今は、たまに思い出すことはあっても、もう完全に吹っ切れてる。
だからこそわかることがある。
「ね、あそこで写真撮ろう!」
まるであのときのように手を引かれ、桜満開の木の下にやってきた。
「まずは私のからね」
「おう」
「はい、チーズ!」
あれれ、桜がうまく入らなかったとしょげる彼女を笑って、俺も携帯を出した。俺の携帯でも撮ろうって、言おうと。
でもなかなか言えなかった。
「今度こそうまいことシクヨロね!」
何も言わなかったのに、俺の体にぴったりくっついて、早々にピースサインで構える彼女。
ああそうだ、こいつは名前じゃないんだから。
「…ブン太?」
周りに人もいるしちょっと恥ずかしいけど、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
吹っ切れてる、それは確かだし、今俺が世界で一番大切で愛してるのはこいつ。
なのに思い出すなんて。やっぱり男は恋愛を上書き保存できないもんなのかもな。
「よし、ばっちり桜も撮るから最高の笑顔で決めろよ!」
「はーい!」
撮った写真は、自画自賛だけど、今まで撮ったどの写真よりも、きっと今この公園で撮ってる誰かの写真よりも、最高の一枚。
今ならわかる。名前が俺のことを大好きだったこと。愛してるって言葉も嘘じゃなかったこと。楽しいときもつらいときも一緒にいられず片方の気持ちが薄れる前に、お互いの気持ちが最大限のときに終わりたかったこと。
まるで桜のように、潔く散ったあの日の恋。
気持ちも桜も満開の中、終わらせることができたのは、ある意味幸せだったのかもしれない。
…ただ一つ。
「…いってらっしゃい」
「え?」
最後の最後、ほんとに最後。もし悔いがあるとしたら、俺が言えなかったその言葉だろう。でもどこか、違和感がある。
そのせいか思わず呟いちまって、彼女が不思議そうな顔を向ける。
「いってらっしゃいじゃなくてさ、一緒に行こうよ!」
どこへ?なんて聞かなくてもわかる俺は、今もすごく幸せだと思う。
「「まずはわたあめ屋かな」」
言葉が重なり二人で笑い合った。そして手を繋いで、公園内の出店へと向かう。
向かいながら思った。やっぱりあいつに言いたかった言葉は違うって。いってらっしゃいとか、そんなきれいな言葉じゃない。
“行かないで”
ただそれは、名前が俺のために言わなかったごめんねや、見せなかった涙と同じで。絶対に言わないと俺自身心に決めていた言葉だった。
心の隅っこで、また名前もいつか、俺じゃない大切な誰かと、この桜を見ることができたらいい。そう願った。
END
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