「あの、すみません」
「はい?」
「携帯落としましたよ」


シャラ、とシンプルな携帯を彼に渡す。ふと目を見ると、さっきの飛行機に一緒に乗っていた男の人だった。


「あ、さっき一緒だったよね?」


にこりと微笑まれて、私は苦く笑った。この軽い感じが少し苦手。


「えっと、私…失礼します」


軽く頭を下げて、すぐ彼に背を向ける。


「ちょっと待って!」
「…?」
「名前だけ教えて」


振り返るとちょっと離れた距離から声をかけられていた。


「なまえ、です」


聞こえたかわからない程小さい声で呟いて、私は今度こそ彼に背を向けた。横目で見た彼は、少し微笑んで見えた。







――あれから2週間が経った。彼のことなんてすっかり忘れて。


「なまえちゃん、だよね?」


呼ばれて振り向けば、見覚えのある笑顔がある。


「あーどうも…」
「徹でいーよ」
「は、はあ…」


やっぱり苦手なタイプだ。早くここから逃げたいけれど、あいにく今は電車の中。逃げるにも逃げられない。


「どこか行くの?」
「バイトです」


本当はただの買い物なんだけど。早く逃げる為の口実に嘘をついてみた。


「そっかー、残念だな」


にこやかに笑う彼には裏がありそうで、なんだか不思議な気持ちになる。


「アドレス、交換しない?」
「な、なんでですか」


ここはキッパリと断っておかないと。彼は私が断ったのが予想外だったのか、少し驚いた表情をしていた。


「…そう。また会ったら教えてよ」


彼は私の肩を軽く叩いて丁度開いた電車の扉から降りて行った。やっと1人になれたけれど、買い物に行く気にもなれなくて。とりあえず必要なものだけ買ってすぐ家路についた。
その間に思い出されるのは、さっきの彼のこと。電車を降りる時に一瞬だけ見せた悲しい表情を思い出す。ナンパに失敗したから、ただそれだけではないような気がした。


「あ…なんであんな人のこと考えてんだろ」


自分の両頬をぱちんと叩いて気を入れ直す。


「なまえさん!何してんの?」
「えっ、翔太くん…見てた?」


いつのまにか隣にいて、笑いながら頷いた翔太くんに少し恥ずかしくなる。


「あ!東京、友達と行ったんでしょ?楽しかった?」
「ん、よかったよ」


そう答えた私に翔太くんは眉を寄せながらよかったじゃん、と微笑んだ。翔太くんは昔から家が近くて仲良くしていて。私の方が年上なのに全然年上として意識していない。


「翔太くんは?学校帰り?」
「そう!なまえさんは?」
「買い物行ってきたの」


家までの距離を話ながら帰る。さりげなく家まで送り届けてくれている翔太くんにもう高校生になったんだな、と暖かい気持ちになった。


「…あ!」


ふと家の前を見るとまたあの彼が。…なんで家を知っているのか、検討もつかなくて。


「あ!徹兄ちゃん!」
「え、知り合い?」
「…うん、友達の兄貴!」


翔太くんはそれだけ言って彼の方へ走って行った。私も歩いて後を追う。


「はは、また会った!」
「徹兄ちゃん?」


私に声をかけたことに翔太くんは目を見開いて驚いていた。


「徹兄ちゃんに…会ったの?」
「え、うん…前に」


私の答えに、翔太くんは不安そうに彼を見上げた。


「いいんだ、気にすんな」
「でも…」


彼が翔太くんの頭に手を乗せると、翔太くんは少し肩を落として帰って行った。行かないで欲しかった。2人きりには、なりたくなくて。この人と一緒にいると、何かが疼くから。


少し長い沈黙。
彼の方を見れば眉を寄せて微笑みながら私を見ていた。


「オレのことは諦めて、忘れて欲しい」
「…?」
「そう言ったのに、諦めらんなかったのはオレの方だったわ」


彼はそう言って家の壁を背にしゃがみ込んだ。


「ははっ…本当にバカだ、オレ」







――手を握り締め、思い切って言うの。


「…好き、っ」


年齢差は、4つ。案の定彼は困ったように笑った。


「ごめんね。オレのことは諦めて。忘れて」


私は背を向けて走った。彼もそれを止めることはなくて。

伝えるだけで十分だったはずなのに、心のどこかで期待している自分がいた。

――こんなの、忘れちゃおう。忘れれば、楽になるから。







「あ…」
「本当に、忘れられちゃうとはね…」


苦く笑って頭を掻く彼を見て、失われたパズルのピースがぱちん、と嵌まる感覚。気づかないうちに、私の目からは涙が溢れていた。


「なまえ?…なまえちゃん、どうしたの?」
「なまえでいい…」


わざわざ“ちゃん”をつけ直す彼にそう言うと私は涙を拭う。


「…なまえ。ごめん、辛い思いさせたよな」


彼はまだ流れ落ちている私の涙を親指でそっと拭った。そのままギュッと抱きしめられるけれど、私の涙はまだ止まらない。


「札幌に出張決まってたから…なまえが大学生になったらオレから迎えに行こうと思ってた」


彼の優しい声が上から降って来る。


「オレ、なまえが好きだよ。忘れててもいい、もう一度オレを好きにならない?」
「…ありがと、徹」


上を見れば満面の笑みで笑っている彼。


「私ね、全部思い出したの。徹を好きな気持ちも」


彼は少し驚いた表情をしてから優しく笑った。



傷心には雅歌を


もう忘れたりなんかできない。



(2010.04.06)
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