一夜限りのセレナーデ
目を疑った。主要駅近くでもなければ、有名店でもない。地元の人ぐらいしか知らなそうな個人経営の居酒屋。煮込みが絶品なこの店に上司ににたまに連れてきてもらうのだが、まさかこんなところで会えるなんて。
「すみません、違ったらごめんなさい。もしかして秀徳高校の高尾和成さんですか?」
陽気に笑っていた顔を一瞬強張らせて私を確認したが、すぐに貼り付けたような笑顔で言った。
「そーっすよー。とっくに卒業したけどね。お姉さん、誰だっけ?」
隣の席に座らされ、肩を抱かれた。顔が近い。
多少お酒が入った私でも感じるアルコールの臭い。彼の前には徳利が3本、恐らく空いているのだろう。覚えのない人の髪を指に絡めながら見つめてくるほどには、酔ってらっしゃるようだ。
チャラい。この一言に尽きる。
「高尾さんと同い年の者で、高校バスケずっと見てたんです。」
「ふーん。で?」
「ファンだったんです!」
「ほうほう。」
「あの…近くないですか?」
パーソナルスペースにどんどん迫って来る憧れの人に圧倒されていると、向こう側から連れの人が顔を出した。
「えーそこは俺じゃないんスかー?」
サングラスを上にずらして顔を見せてくれたその人は、私が訪ねた彼より世間によく知られている人だった。
「ちょっと涼ちゃん出て来ないでよ!俺のファンだって言ってんじゃん!」
「海常高校の黄瀬涼太!…さんですか?」
「そんな風に言われるの久しぶりっスわー。」
「有名人だもんな、涼ちゃん。んで俺のファンだって言ってたお姉さんもこいつに持っていかれる、と。世知辛いわー!」
「いや、私は海常だったら笠松さん派です!」
高尾さんが盛大に吹き出して笑った。黄瀬さんが怒っていたので気を悪くさせたかと思い、友達は黄瀬さんのファンだと言ったら更にお腹を抱えて笑う高尾さん。
「もういいっス!ちょっと電話してくるから二人で仲良くしてれば!」
拗ねたように席を立った黄瀬さんが子供みたいで可愛かったから、私も一緒になって笑ってしまった。
「いやーお姉さん面白いわー。つか名前も聞いてなかったね」
「名字名前と申します」
「名前ちゃんね。まぁあれだろ?つまり俺の事好きなんだよね?」
さっきの続きとばかりに腰に手を回される。手付きがなんともアダルティだ。
「えっと…」
「俺も、ぶっちゃけ結構好みなんだよね。もっと名前ちゃんのこと知りたいなー。」
耳元で甘えた声を出すこの人は女子がどうされるのに弱いのか熟知している。あの頃の爽やかに汗と涙を流す彼は何処へ行ってしまったの。
「酔っ払いの戯言は聞かないことにしています。」
「酔ってねーよ。でさぁ涼ちゃんこのあとデートじゃん?そしたら俺一人じゃん?高尾くん寂しいなー。」
「今日はちょっと、上司と来ていて…」
「抜けちゃえよ。」
文字通り目と鼻の先にある瞳。この鋭い視線から逃れる術を知っている女が何人いるだろう。大人になって更にかっこよくなったな、高尾和成。
公式から練習試合まで見に行ける試合は全部行ったんだよね。隠し撮りした写真とか、渡せなかったバレンタインチョコとか、走馬灯のように次々思い出される。目があったような気がしてはしゃいだり、月バスの小さな記事をスクラップしたり。
今の私といえば、真剣に付き合う気なんて微塵もないであろうこの人に付いて行こうって言うのだから。大人ってしょうもない。だってやっぱり好きだったしさ。
あの頃の純粋だった私よ、ごめんね。
「じゃあ、行こうか。」
今夜だけでも夢を見させて欲しいのよ。