とくべつ
奥歯と額がじんじんと痛んだのは多分強く歯を食いしばっていたからだ。フローリングの上にうつ伏せに倒れた男の後頭部からはだらだらと血が流れていて、私はそれを眺めながら右手に持っていた灰皿をソファに放った。微かに灰皿に残っていた煙草の吸い殻と灰が床を汚すのも構わないで帰り支度を始めると男が
「痛ぇ。」
と小さく呻いた。
彼の頭からは明らかに致死量の血液が流れていたけど別に焦るほどのことじゃない。この男が不死身だと知ってから私は彼に対して加減をする必要はないと判断した。
時刻は午前0時をまわっていた。
「帰る。」
一言そう告げると嫌みなほどに広い玄関へと向かう。
ヒールを履き終えたところで後ろから嗅ぎ慣れた煙草の匂いが漂ってきた。
「悪かった。帰るなよ。」
「帰る。」
「どうやって?」
「帰るの。」
ゾンビマンは小さく溜め息を吐いた。溜め息を吐きたいのはこっちの方だ。自分から逢いたいと言ってきたくせに恋人を四時間近く玄関口で待たせるなんてヒーローの風上にも置けない。終電だって逃してしまった。
彼が約束をすっぽかすなんてざらにある。珍しいことじゃない。レストランにディナーに行った時だって、結局一人で食事した。仕方のないことだと言えば全て片付いてしまうのだろう。彼はヒーローなのだから、
しかし、全てそれだけで理解して納得してあげられるほど私は広い器を持ち合わせてはいなかった。
「愛してるんだ。」
「知らない。」
猫撫で声で機嫌を取るように首に顔を埋めるゾンビマンは優しい。私の我が儘がいけないのに何時だって最終的に折れてくれるのは彼だ。
「ずっと待ってたのよ。寒かったわ。」
「悪い。」
「今日は一緒に居れるって言ったのに、」
「すまない。」
冷たい手が頬を後ろから撫でた。少しずつ彼が動く度煙草の香りがする。私の好きな匂い、
「好きなの。愛してるわ。でも嫌な女ね、私。困らせてばかり。」
嫌だ。こんな自分が嫌だ。身勝手で臆病で嫉妬深くて、こんなにも醜い。とてもとても悲しい気持ちになった。
-そんなあんたが好きなんだ。-
ゾンビマンはこれまでそうやって何度も私を赦してきた。それはこれからもきっと変わらない、彼はいつまでも私に優しいままなんだ。それは今まで助けてきた人に向ける視線と同じ。
彼の温情は私だけのものじゃない。
首に巻き付く彼の腕を退けて唇を奪うと深紅の瞳は少し驚いたけど薄く細められて安堵の色が見えた。
それから両手で彼の頬を押さえてゴメンね、と言うと彼はいつものようにそんなあんたが好きなんだ。と笑った。
私はまた悲しくなって少しだけ笑って少しだけ笑って涙を流した。
彼の特別になれるなら怪人になっても構わないと、そう思った。
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