愛しているという言葉の浅はかさを私は知っている。言葉ではなく態度で示せ、なんて文句があるけれど、その言葉を態度で、行動で示された暁には。

 きっと私は死んでしまうだろう。



「さえちゃん。」 

 心を無にしてひたすらパソコンと向かい合う私に、清太郎は呼びかける。その声は発熱した子供がうなされ、母親を呼ぶようなものだった。母性本能などという、あるのか無いのか未だに不明な私の中のそれが、呼びかけを無視することを躊躇わせた。

「なに。」

 明日提出しなければならないレポートを放置することも同じように躊躇われたため、かなり素っ気ない返事にはなってしまった。命題が非常にくだらない以上、私が書き上げるレポートもそれ以上にくだらないのだが、如何せん単位がかかっている。今は愛想良く返事をしている暇ではないのだ。
 しかしそこは清太郎。伊達に長い付き合いではない。私が心から望んで、今のようなトーンの返事をしたわけではないことは理解したようで、気にする様子もなく言葉を続けた。

「さえちゃん、今日帰り道一緒だったあの子、だれ?」

 部屋にあるピンク色の丸いクッションを、身体の前で抱きしめながら彼は恨めしそうな表情で私を凝視していた。図体はでかいくせに、随分と乙女染みたことをする。
 彼の質問の意図をくみ取り、エンターキーをぱちんと押してから、私は答えた。

「私が帰ってきたの、夕方の四時なんだけど。あんたまだ仕事でしょ。」

 ぶー垂れた顔をクッションに埋めている身長180センチ越えの彼は、大学の先輩だった人であると共に、一応社会人である。その彼は、何故か就業中であるはずの時間帯に帰路についていた私を、そして私の友人を目撃していたらしいのだ。その上、その友人を「だれか」と。
 それを指摘すると、彼は「しまった」という表情を浮かべた後、呟いた。

「さえちゃんが心配で…。」

 ありきたりな言い訳だが、それで社会人やっていけるのか、バカタレ。
 呆れて物も言えなくなった私は、これ以上問答を続けるのも嫌になり、再びパソコンと睨めっこすることにした。
 先ほどまでどんな内容を書いていたんだったか(つまり自分でも何を書いていたかきちんとわかっていないような適当なレポートなのだ)、思い出すために一通り読み直す。すると彼は追い打ちを掛けてきたのだ。

「会社抜け出してきたのはダメだったと思うけど…でもあの男の子だれ、ねぇ、さえちゃん、だれ。」

 いつのまにかピンク色のクッションは向こうの方に転がっていた。決して私の邪魔をしないように、後ろから肩を掴んで、答えろと、そう詰問してきた。数分前のような、熱に浮かされた幼児のような声色ではない。裏切りは赦さない。「だれ」と問う真意はそこにあると、あからさまに発する声色。ああ、これは詰問ではないな。
 糾問。

「友達、だなんて、そんな言い訳聞きたくないからね。さえちゃん。俺はね、さえちゃん以外の女の子、この世界に要らないって思うくらいさえちゃんが好きなんだよ。だから女の子が入ってこないような職場を見つけて就職したんだよ。知ってるよね。ね。さえちゃん。もしあの子が、あの男の子がただの友達っていうのが本当でも、後輩だったとしても、赦さないよ。今日だけじゃないよね。昨日は橘と話してた。一昨日は黒井とメールしてたよね。俺に気付かれないようにしてたんだろうけど、さえちゃんの携帯のパスコードくらいいつだって破れるんだからね。それから、」

 とっくにキーボードに手を置けなくなっていた私に気付かず、彼は言葉を紡ぐのを止めない。肩に食い込む指の力は更に強くなる。
 橘(私の1つ下、及び彼の3つ下の後輩である)と話していたのは、橘の「生島先輩、最近お元気ですか?」というある種の社交辞令のような会話に付き合った結果であるし、黒井(彼の2つ下にあたる私の同期)と話していたのは今手に付けている(いや、ついていないけれども)レポートに関する愚痴と相談だ。ちなみに言えば、今日の友人だって帰り道が一緒になっただけの、特筆するようなエピソードもない、正直なところ、知人以上友人未満な奴なのだ。
 それを彼に説明したところで理解などしないだろうし、そもそも聞いちゃくれないだろう。

「それから、一昨昨日なんかは今日の奴とご飯食べてたよね。楽しそうにさ。俺にはあんなに笑ってくれないのにさ。さえちゃん、なんで?」

 こいつは愛想笑いも知らないのか。知人以上友人未満の相手に無愛想決め込む勇気は流石に無いし、私にだって愛想笑いの1つや2つできるものだ。裏を返せば、彼には愛想笑いをする必要も無いくらいの、私の中でのヒエラルキー上位にいることになるのだが、やはり理解しないのだろう。

「俺はこんなにさえちゃんが好きなのに。さえちゃんが他の野郎に笑いかけてるの、可愛いけどさ、その顔が俺に向けられていないってことがどんなに俺にとって屈辱的だか分かる?分からないよね?分からないからそんなことするんでしょ?」

 肉を切り裂かんばかりの指の力。痛いとは思うけれども振り払うという選択肢は何故か私にはない。そんな私を見て、余計に苛立ちを募らせたのか、あろうことか清太郎は私の肩に食い込ませていたその手を、私の首へと回した。

「さえちゃん、俺ね、さえちゃんに告白してOKもらったとき、死んでも良いと思うくらい幸せだったんだよ。今もさえちゃんと同じ部屋に入れて幸せだと思ってるんだけど、でも、他の男に気を許してるさえちゃんは、俺以外を見てるさえちゃんは、俺、要らないよ。ほんとならこの部屋に閉じ込めて、外に出られなくしたいくらいなんだよ。でもさえちゃんが悲しんだり嫌がったりするのは俺も悲しいし嫌だからしないだけで。でもこのままだと俺、さえちゃんに酷いことしちゃうよ。さえちゃん、俺だけを見ててよ。俺をもっと好きになって、俺以外見られなくなってよ。ねえ、さえちゃん。」

 狭くなる首と視界。自分が打ち込んでいたはずのレポートは、歪んで上手く読めないくらいになっていく。息を吸うことはおろか、吐くことも出来なくなる。痛いと苦しいがない交ぜになって、死の色が見える。
 背後から狂気を向けているためか、私の状態などおかまいなしに、なおも私の背後から愛を囁く清太郎。こんな死に方して堪るかと。渾身の力を振り絞って彼をたぐり寄せた。肩の恨みを込めて、少しごわつく清太郎の髪を鷲掴んで。
 思いの外、簡単に死から解放された。

「いたたただだだだ!!!!!!!!」

 大袈裟なくらい叫ぶ彼に、れっきとした苛立ちを、隠すことなく私は、言った。

「うるさい。」
「ご、ごめ、さえちゃ、いだい!!!!!」

 先ほどまでの静寂な狂気はどこへ行ったのか、涙目で痛みと謝罪を訴える彼は、かなり腹立たしい。だが、私はそれ以上に痛かったんですけど、とは言わない。あとで痕になっているであろう箇所を見せつけてやるのだ。そうすれば、尻尾の垂れているしょげた犬のようになる。

「お前はバカか。真性のバカか。そのまま私を殺す気か。殺す気だったんだろうけど、私が死んだらお前はどうしようもない奴になるぞ。なぁ、バカか。」

 語彙力などまるで無いが、彼にとってはかなりの叱咤にはなる。小難しく理詰めで訴えたところで、彼には届かないのだ。私が怒っていること、彼がしたことで彼自身がどうなるか、それだけを伝えれば彼はしでかしたことの重さに潰される。
 それでいいのだ。潰されてしまえばいいのだ。

「さえちゃん、でも、おれ、」
「好きなのは知ってる。私も清太郎が好きだから。ただ、殺していい理由にはならない。」
「こ、殺す、だなんて、」
「首を絞めれば人は死ぬ!!!」

 拳を彼のみぞおちにねじ込む。所詮女の力、大した衝撃でもなかっただろうが不意打ちだとそれなりに入っただろう。彼はうめいた。

「ぅ、え……っっ」
「私の肩と首に比べたら大した痛さじゃないでしょ。思い知れバカ。」

 大きく息を吸い込み、私はまだ生きている、と確認して三度パソコンに向かった。小さな呻き声が聞こえるが、彼も生きているのだという確認としよう。
 その後暫く、かたかたぱちぱち、と私がキーボードを叩く音のみが部屋に響いた。いつの間にか呻き声も聞こえなくなっていて、眠ってしまったのだろうか、と思い至り、レポートを一端保存してから彼の居るであろう方向を振り向こうとした瞬間。

デジャヴすら感じる彼の手の熱が襲った。

「さえちゃん、」
「なに。」
 手の熱は、じわじわと私の胴に回る。さっき私の首を締め上げていたのと同じ手なのだろうかと、疑うほどの優しさで。思わず、1度目とは似ても似つかないような声を返した私に、彼は囁いた。

「ごめんね、だいすき。」





摂氏三十七度





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