『血濡れの聖母の話を知っているか?』
 『血濡れの聖母?』
 『五番街通りを抜けたところにある公園、その裏手の教会にあ
  る聖母像だよ。』
 『へぇ…でも、血濡れ、ってどういうことだ?』
 『さあ…聞いた話じゃ、頭から血を被ったみたいらしいぜ。』

 



 まだ冬特有の張り詰めた空気が終わらない日が続く。しかし、肌を叩くような冷たい風に反して、そこに降り注ぐ太陽の暖かさ自体は、つい先日までより幾分も和らいだように感じられた。とはいえど、まだマフラーもコートも手放せない。雪こそ降らないものの、この地方の冬は温暖とは言えないからだ。
 そんな春の兆しも期待できるような今日、僕は妻とのじゃんけんに負けた。賭けの内容は実にくだらないもので、今日の夕飯のメニューについて、だった。妻はどうしてもミネストローネが食べたいとごねた。妻が作るミネストローネには、家から少し離れた商店にしか売っていないホールのトマト缶が必須だ。なんでもその缶でないと彼女の好みの味にならないらしく、事実、僕も違う缶で作られたミネストローネを食べたが「何かが違うな。」という印象は持った。しかし、そのこだわりのトマト缶のストックが家に無く、僕が商店に出向くことになるのは避けられなかった。故に僕は、家にあるもので何か作るよ、と提案したのだ。勿論、僕が作るよ、とも付け加えた。それに対する彼女の言い分はシンプルかつ残酷であった。
「もうミネストローネの口なんだよね。」

§ § §

 自動車免許は持っているが、如何せんこの地域の道は路地のような細いものが主で、それに抗うように人の通りが多い。そのため自動車免許なんて飾りみたいなものなのだ。商店までの冷え込む道を、僕は一人テンポ良く歩かされていた。元凶である彼女は暖炉の火が瞬く部屋で、快適にホットミルクでも飲んでいるに違いない。
 彼女は妊娠七ヶ月だ。
「ま、妊娠してなくても来てくれないんだろうけどなぁ。」
 誰に、というあてもないが、白く染まる息と共に愚痴を吐いた。きっと惚気だと言われてしまうだろうけれど。
 赤い色が目に飛び込んできて、僕は立ち止まった。信号である。ここの信号は一度赤になると、なかなか青にならないことで専ら不満の対象だ。通称・五番通りの警察。
「そういえば…」
 五番街通りといえば、最近よく聞く噂がある。この五番街をもう少し進んだところに公園があり、そのまた裏手に今にも崩れそうな教会がある。もう誰も居ない、訪れることもない、廃墟のような教会らしいのだが、その教会にある聖母像が血塗れらしいのだ。らしい、としか言えないのは僕自身それを伝聞でしか知らないからだ。
 五番街通りは非常に賑やかなのだが、公園に近づくにつれて治安がよろしくないものとなる。公園、と言ってはいるものの事実上の無法地帯だ。不良少年や家を失った人たちが巣喰っている。その裏手ともなれば、噂の真偽が明確でないのにも頷ける。
 まだ日も落ちないし、信号も赤のままだ。
 帰宅するなり、妻の不機嫌そうな顔が待ち受けているだろうが、じゃんけんに従ったご褒美くらい頂いてもいいだろう。そう自分を励まし、信号に背を向ける形で聖なる無法地帯に足を向けた。

§ § §

 無法地帯については割愛するが、思っていた数倍酷かった、とだけ言っておくこととする。途中で見つけた横道がなければ僕はカツアゲどころか、身ぐるみを剥がされていたかもしれない。噂話にそそられ、安易な気持ちでここに来たことを後悔している。
 だが、その噂の教会は見つかった。鬱蒼とした木々や草。地面に飽和しているそれらは、その廃れた教会への道を阻むようである。この緑を越えなければ教会には辿り着かない。思い切って足を踏み入れる。すると、鼻の奥を掻き毟るような草のにおいが立った。ざくざく。見た目よりは柔らかい草は、大人しく僕の行く手を広げてくれてはいるものの、買い物袋を少しずつ汚していった。
 ほんの数分、草や枝を掻き分け、少しくすんだ建物の全容を僕は見た。在りし日は立派な教会だったのだろうと容易に想像がつく外装である。今は、不良少年の仕業であろうか、スプレー塗料で外壁は色とりどりだ。溜息が出た。
「問題はこの中、だよなぁ。」
 そう、僕は噂の本題にはまだ辿り着いてはいないのだ。血濡れの聖母を拝まなければならない。幸か不幸か、扉は既に外されている。大方、腐り落ちて機能しなくなったか、例の不良少年たちに剥がされたかだろう。僕は大きく息を吐いて、そして草のせいで青臭さの拭えない空気を吸い込み、教会内に身をくぐらせた。
 扉がないことから予想はしていたが、不良少年の仕業はここにもあった。だが、やはり教会内には悪戯がしづらかったのか外壁よりは控えめであった。ひんやりとした空気は、冬のそれとは違いどこか僕を包み込むようであった。黒ずんでしまっている椅子に座り、僕は件の聖母像を探した。ところどころ割れてしまった鮮やかであったであろうステンドグラスに囲まれ、それは存在した。
「たしかに……血に濡れてる…。」
 そこにあったのは両の手を優しく合わせ、柔らかく眼を閉じた聖母が、煌々と輝く夕日にまざまざと照らされている光景であった。聖母の顔や服の白いラインに合わせて流れるような太陽の光は、ぞくりと身震いするほどの濃い赤だった。彼女がこだわるトマト缶よりも。街の人々を悩ませる信号よりも。
 誰かから隠れているのかと思えるくらい静かにゆっくりと息を絞り出した。
「美しいですね。」
 教会全体に響いた背後からのその声は僕の心臓に直撃した。反射的に振り向き、その姿を捉える。
 一言で言えば、美しい男性であった。五十代らしいその男性の細身の身体は、白のストライプの入った黒いスーツがさらに引き立てている。面長で丸みの少ない白い顔には銀色のスマートな眼鏡がかかっており、その奥に見える瞳は溺れてしまいそうなほどの青。上品に掻き上げられたロマンスグレーは、彼の知的そうな風貌を象徴していた。
「申し訳ありません、驚かせてしまいましたよね…。」
 極めつけは、この落ち着いた深いテノール。警告音のように鳴り響く僕の心臓を鎮めるかのように、彼の声は僕の鼓膜を揺らす。
「街でこの教会の聖母像の噂を聞いたもので…少し、興味をそそられてしまって。」
「あ…あぁ、そうでしたか……実は僕も…噂を…」
 申し訳なさそうに目を伏せる彼を宥めるように、僕はようやく声を発した。
「まさか、僕以外にも来る人がいると、思わなくて…。」
「私もです、驚きました。それにしても、夕日が血に見えるとは、誰が流した噂なのでしょうね。」
 センスがあるのかないのか、と彼は言って微笑んだ。目元にできた小さな皺もまた映えた。
「血を流す聖母、ある意味真理かもしれませんね。」
「え?」
 ぽつり、と、棄てるように彼は言った。思わず聞き返してから、僕は、しまった、と思った。それが顔にも出たのか、彼は僕を見てひとしきり笑った後、続けた。
「処女受胎、しかし彼女は血を流してイエスを産んだ、血を流さない聖母はいないと、そうは思いませんか?」
 僕の後ろの聖母を見上げ、彼は微笑んだ。僕は聖母を見ることが出来なかった。妻を想ったからだ。子を産むとき、妻は必ず血を流すだろう。子を宿すときも、そして、宿す前も、妻は血を流した筈なのだ。血を流していないわけがないのだ。僕の妻は、聖母ではないけれど。
「私は、私の妻こそが聖母だと思っていました。」
 彼はそう言って、僕の目を見た。それはどこか、僕の心を見透かすような瞳だった。今さっき出会った男性に、全てを見透かされている気がした。言うなれば、恐怖だった。
「あなたには、愛する人は居ますか?」
 僕の恐怖を感じ取ったのか、彼はまた微笑みながら問いかけてきた。一瞬警戒し、質問の意味を理解しなかった。落ち着いて、そしてその意味を理解した瞬間に浮かんだ顔は、言うまでも無く妻の顔だった。道草している僕を、少し咎めるような顔だった。
「居るのですね。」
「…はい……妻が。」
「…………妻、か。」
 僕の答えを確かめるように反復した彼の瞳が、わずかに揺らいだ。ふっ、と息を吐いた彼は、「では、」と前置きをし、僕の隣に腰掛け、呟いた。
「少し、私の懺悔に付き合って頂けますか。」
 頼むトーンであって有無を言わさぬ口調に、僕はyesとしか言えなかった。

§ § §

 私は二十五年程前、妻と出会い、大恋愛の末結婚しました。妻は、私の贔屓目を抜きにしても美しい女性でした。彼女に想いを寄せていた男性も、少なくはなかったです。それでも彼女は私を選んでくれました。もしかしたらそのことで、彼女に想いを寄せていた男性から恨みをかっていたかもしれない、と最近になって思うようにもなりました。
 あぁ、それは関係ありません。
 都会の真ん中に部屋を借り、妻との結婚生活を始めました。新婚旅行なんかも考えたのですが、実のところ妻はあまり身体が強い方ではなかったので大事をとって諦めました。妻は「大丈夫」と言い張ったのですが、なんとか説得したのです。後々になってもひとつのジョークとして、不満そうな顔でその話を蒸し返してこられました。
 そのまま三年程、妻との二人暮らしが続きました。三年。そうなのです、私と妻の間になかなか子供はできませんでした。身体が弱いことに起因するのではないか、と医者に言われました。私も妻も子供が好きで、特に妻は私と結婚する前は近所に住む子供たちを集めて無償で家庭教師をしていたほどでした。そんな妻が、私との間に子供が出来ないという状況に落ち込むことを想像に難くありませんでした。毎日私に謝り、泣いて、過ごしていました。私は、子供が欲しくて彼女と結婚したわけではありませんから、その旨を何度も伝えたのですが、妻は頑として納得しませんでした。もしかしたら、子供を産んでこそ女性として一人前だと思っていたのかもしれません。悩んで病んで、妻は更に体調を崩しがちになりました。このままではいけないと思い、私は妻に提案しました。
「養子をとろう。」
と。
 新婚旅行の時より彼女は食い下がりました。何度も何度も話し合って、それ以上にお互い泣きました。彼女は話し合う中で、数回「離縁してください。」と私に言いましたが、また何度も言いました、私は子供が欲しくて貴女と結婚したわけではない、と、そう言いました。
 それから数ヶ月前が経ち、私たちの家には二人の子供がやってきました。五才の男の子と、三才の女の子。二人は血の繋がった兄妹でしたが、事情により施設で育っていたところを私たち夫婦で引き取ったのです。
 妻は我が子を完全に諦めたようではありませんでしたが、生来の子供好きが働き、この兄妹に並々ならぬ愛を注ぎました。実の我が子に対してもあのような愛を注ぐ女性が何人いるだろうか、と思うほどの愛情でした。兄妹も、始めこそ遠慮し、戸惑い、緊張し、警戒もしていましたが、妻の愛情や優しさを受けて、次第に子供らしい表情を見せるようになりました。初めて「お父さん」と呼ばれたときの喜びといったら…今でも込み上がるものを感じます。
 それからの数年は、言葉では表せないような幸せな時間でした。息子がスポーツで優勝したり、娘が自由研究で表彰されたり、親として誇らしい兄妹でした。妻も、同じく喜んでいました。息子も娘も、また更に体調を崩しやすくなった妻をよく手伝い、私も仕事の方で成果が出て、何もかも順調だと、思っていました。
 そして、息子と娘がやってきて十五年目、妻と結婚して十八年目の春、妻がついに倒れてしまいました。もう、起き上がることすらままならない状態でした。上司に頼み込み、仕事を休み、妻の看病をしました。朝も夜も、寝る間も惜しんで。息子は代わると言ってくれたのですが、私が離れたときにもしものことがあったらと思うと、その好意すら受け取れるようなものではありませんでした。娘は黙ってサンドイッチやベーグルなど軽く食べられるものを作り、側に置いてくれました。
 愛する妻は、日に日に痩せ細り、衰えていきました。その頃には医者にも、既に手の施しようがないと言われました。起き上がることもできず、声を出すことももはや難しいような状態であった妻は、最期に言ったのです。
「あなたの子供、産めなくて、ごめんなさい。」
 途切れ途切れに、掠れた声で放たれたその言葉は私の脳内に幾度となく響きました。
 妻は、何年経っても子供を産めなかったことを悔いていたのだ。私はそれに気づけなかったのだ。二人の子供に注いでいた愛情は本物であったが、彼女の心が本当に満たされることはついぞなかったのだ。私は、私が満足していただけなのだと、養子をとることで全てが解決したと、勘違いしていたのです。二人の子供を愛することが、妻を愛することだと、誤解していたのです。
 そのことに気づき、妻に許しを請おうとした時にはもう、手遅れでした。一筋の涙を流し、妻は息を引き取ってしまっていたのです。

§ § §

「私は聖母を愛せていなかったのです。」
 彼は懺悔をそう締めくくった。
辺りはもう既に暗く、血濡れの聖母は静かに光る月に照らされ、優しく笑みをたたえている。彼が何故、そのような懺悔を僕にしたのか、理由はわからない。もしかしたら、この懺悔は僕に向けた物ではないのかもしれない。そこで微笑んでいる聖母に向けた物なのかもしれない。聖母に、彼の亡くなった妻を重ね合わせて。
「妻が亡くなったあと、息子も娘も進学するために家を出ました。それに合わせて私も家を出たのです。妻と、子供たちとの思い出の残る家に居るのが耐えられなかったのです。」
「今は…」
「今は違う街で暮らしています。なんの縁もゆかりもないところです。」
 全ての思い出を断ち切って生きている彼の心情を計り知ることは、僕には出来なかった。僕の妻は、彼の妻と相容れない存在なのだ。どうしたって。
「実は、妻と子供たちと住んでいたのはこの街なのです。今日は、ふと思い立って訪れたのですが…当然ですが、誰にも会うことはありませんでした。」
 数年のうちに色々町並みも変わってしまっていて、と彼は寂しそうに言った。
 随分と冷え込んできた。教会に扉がないので風が遠慮無く吹き込んでくるからだろう。僕はマフラーを巻き直し、彼もまた両手をすりあわせた。(まるで祈っているようにも見えた。)
「こんな話に長々と付き合わせてしまって申し訳ありません。いつまでも引き留めてしまっては奥様に怒られてしまいますね。」
「あ、いや…あ……」
 そんなことありませんよ、とでも言うことが出来れば良かったのだが、すかさず彼女の拗ねた表情が脳裏をよぎり、なんとも歯切れの悪い返答になってしまった。やはり彼は笑った。
「正直者ですね。貴方のような方に愛される女性は、幸せでしょう。」
「そんなこと、」
「今日帰って聞いてみては如何です。少なくとも、私とは違います、貴方は。」
 そう彼は断言し、立ち上がった。そして、もうこの街を訪れることは二度とないであろうということ、僕に会えて良かったと言うことを告げ、僕に背を向けて歩き出した。だが、扉(だったところ)の前で立ち止まり振り返った。
「本当はね、子供たちの連絡先は知っているんです。でも、怖くて連絡できない臆病者なのです。もし、貴方がこの街で暮らしていく中で、二度親に棄てられた息子か娘に出会うことがあれば、私と妻は確かに彼らを愛していたことをお伝えください。」
 懺悔を請うた時とは違い、依頼を僕に押しつけて、彼は黒いスーツを闇に溶かして去って行った。

§ § §

「弁解の言葉はあるかぃ?」
 あの後、彼の半生を聖母の前でしばし反駁したり同情したりし、帰路についた。玄関を開ける前、一呼吸おいたのだが、それにより結果が変わることはなく、妻は予想通りの表情と言葉を僕に向けたのだった。
 言い訳がましく、件の噂と、噂の場所で出会った男性の話を彼女に説明した。ミネストローネの良い香りが漂う頃になって、ようやく全ての説明が終わったのだが、彼女の不機嫌そうな表情は相変わらずだった。
「面白い話だったとは思うけれどもね、それによって待ちぼうけを食らい、こんな時間の夕食になっていることへの償いにはなっていないとは思わない?」
「すいません…」
 この流れで、君は幸せか?、などと聞けるはずもなく僕は黙って配膳を済ませる。みずみずしいサラダの上に乗った生ハムの数が、彼女のは三つ、僕のは一つなのはもはや文句の付けようもない。一つでも乗せてくれていることに感謝すらある。
「それにしても、聖母、か。」
 ミネストローネを一口食べた彼女はやっと笑った。面白い玩具を見つけた幼子のように。
「では、その男は神だったのか、大工のヨセフだったのか、君はどちらだと思う?」
「え、あ、…うーん………」
「私は大工のヨセフだと断言するよ。」
 何故?、という僕の問いかけを予測していたかのように彼女は続けて話した。
「血の繋がらない子を二人、立派に成人させたんだ、どう考えても神ではない。」
 あぁ、なるほど。
「その点から見ても、臆病者という発言は撤回させなければならないな。」
「撤回させる、ってどうやって。」
 彼はもうこの街に戻ってくるつもりはないのだ。僕は連絡先など交換していないし、ましてや名前も知らないのだ。それは勿論、目の前に居る彼女も同じであるから、彼女の発言はかなり突拍子もないことである。
「撤回、させるのだよ。」
 にやり、と口角を上げた彼女は夕飯もそこそこに本棚に向かった。そこから一冊の古ぼけた本を取り出し、めくる。あるページが開かれた。そこから出てきたのは、本よりは新しく見える紙。それに書かれているのは、数字の羅列であった。
「人間は必ず頭から血を被ったような血濡れの状態で産まれてくる。美しい状態では産まれてこられないのだよ。醜く必死な形相で私たちは生まれ落ちてくる。そこに聖母なんて汚れないものは存在し得ないんだ。」
 彼女はそう笑って紙を僕に渡す。
「そこに書いてある番号にかけるんだ、そして相手が出たら君の素性を説明し、そして言ってやるんだ。」
「何を?」
「あんたはもうすぐ祖父になるぞ、と。」

マリアは僕のすぐ側に居たのだ。






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