ヒールの音を控えめに歩くのにも慣れた。薄汚れて擦り切れたスニーカーしか履いたことがなかった私は、6年前に別れた。多少は化粧も覚えた。髪も伸びた。スーツも着こなせるようになった。相変わらず胸元は豊かではないけれども、まぁ、いい。
表社会と呼ばれる場所では生きては居ないけど、とても楽しい。
「お、美齢(メイリン)、今からボスのとこか?」
「黄(ホワン)…、お疲れ様です。」
ボスの腹心である黄とばったり出くわす。がたいがよく彫りの深い彼は、見た目こそ怖い(多分サングラスなんてかけてるから、それがまた)が非常に面倒見が良く、ここに来たばかりのころの私も随分お世話になった。生意気だった私を相手するのはかなりの重労働だったろうに。
今では頼れる上司だ。
「ボスも人使い荒いよな。ここんとこお前働きづめだろ?」
「えぇ、まぁ…。アジアとヨーロッパの行ったり来たりを、1週間ほど…。」
その分収穫もあったんですけどね、と付け加えて真っ黒いアタッシェケースを見せる。中には取引先から巻き上げたなけなしの札束。あとは我々への迷惑料として頂いた、大事な大事なモノ。
黄は、おっかねぇお嬢さんに育ったな、と言って笑う。
そう育てたのは黄だし、ボスだ。
「とりあえず風呂入ってからボスに報告しに行け。ひっでぇ顔だぞ、お前。」
可愛い顔が台無しだ。
本気のようにも冗談のようにも受け取れるその言葉を吐いて去っていく彼は、上司と言うよりも父のようであり、兄のようでもあった。そうやって甘やかすから云々、とボスは黄を窘める。そんなボスは、まるで母のようなのだ。本当の父と母など、とうの昔に忘れてしまったけれど。
熱いシャワーを浴びれば、少しは疲れがとれた気になれる。このままベッドに倒れ込むようにしてフェードアウトできたなら、なんて考えてしまわないうちにもう一度スーツに身を通す。髪はバレッタでとめた。
ボスの部屋のドアをノックする。失礼します、と一言かけてから入室。慣れたものだ。
「よぉ美齢、久々だな。で、どうだった?」
社長椅子にふんぞり返っているボス。それがどうも嫌みっぽくなくて様になってるんだから、怖ろしい。
「札束が何十も足りませんがある分は回収しました。足りない分は身を以て稼ぎ、返済して頂こうかと。」
ホルマリン漬けの男性器を取り出す。5人分。返り血がとんでもない量だったのが、汚らしくて、思い出しても腹が立つ。
「ニューハーフパブにでもうっぱらったのか。お前、ほんとおっかねぇ奴になったな。」
ボスは黄と同じことを言って、げらげらと笑う。人当たりの良さそうな顔が、更に優しく歪む。どう見ても黄の方がボス顔だよなぁ、と今でも思う。性根は確実に向いてないけど。
ホルマリンに漬かったそれを眺めながらボスは、嬉しそうにこう漏らす。
「お前は敵に回したくないな。」
「では、私は明日の仕事に備えて休ませて頂こうと思います。」
明日はニューヨークだ。飛行機の時間確かめて、荷造りもしなくてはいけない。あぁ、銃の手入れもしなくては。
ボスの部屋から出た後のことを脳内でシミュレーションしていると、思い出したようにボスが言う。
「あぁ、明日の仕事なら黄に回した。お前は暫くゆっくりしろ。」
1週間ほど休みだ、と言ってのけた。
開いた口がふさがらない。お前じゃないと出来ない仕事だ、とかなんとか言って数週間休みなしで私のスケジュールを組んだ男の言える台詞かと疑った。勿論反論など出来るはずもないことを彼は知っている。
「酷ぇ顔してやがる。あ、俺のせいか。」
よくおわかりのようで。
私が何も言えずに突っ立っていると、贅沢な机ごしにちょっとこっちへ来いと呼ばれる。ふかふかの絨毯の上を少し進み、ボスとの距離、およそ1m50cm。
ボスは依然とニヤニヤしている。
「なにか…?」
「なぁ美齢、なんで俺がお前に休みなしで働かせたか知ってるか?」
「いいえ。」
知っていれば苦労しない。ボスの考えていることはいつも予測不能だ。私の思考の数歩、いや、数百歩先を行っている。どんなに追いつこうとしても、私が進んだ分だけボスも進んでいる。
まるで年の差みたいな。
「頑張ったゴホービに教えてやるよ、」
にやり。三日月のように口を歪めて、彼は私の目に手を伸ばし、指を添える。存外温かい指先に、懐かしいような寂しいような気になった。
そして彼は口を開く。もったいぶるかのように、ゆっくりと、それでいて明確に。
「俺はな、美齢、お前が疲れたときの目が、たまらなく好きなんだ。蕩けるようでいて、でも真っ直ぐな、その目が。たまらなく。」
机から身を乗り出した彼は、私をあの頃のように軽々と抱き上げて、寝室に連れて行く。お前と寝るのは何年ぶりだろうな、お前を拾ったのが12年前だから、ざっと10年ぶりか?、なんて言いながら。
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