水面
マーブル
返り血を頭から浴びたのは久しぶりに思える。この鼻につく鉄臭さが嫌でなるべく浴びないようにしていたが、今日は人数が多すぎた。持ち場だけ終わせて、一端自分だけホテルに戻り、一目散に風呂場へ駆け込んだばかりだった。
汚れた服は捨ててしまったから、早めに買いにいくべきか、どうせすぐホームに戻るから、それまで誰かのシャツを借りてしのぐか。頭から熱いシャワーを浴びると返り血がみるみるうちに排水溝へ流れていくのを眺めながら、そんなことを考えていた。
まだ当分誰も帰ってこないようなので久しぶりに浴槽にゆっくり浸かることにした。
──・・ポチャン、
『‥…わ、すごい』
備え付けの入浴剤を入れた途端、瑞々しいピーチの香りに包みこまれる。浸かる時に湯が濁る入浴剤を入れるのが彼女の日課だった。香りを胸一杯に吸い込むと、彼女は幸せそうに微笑んだ。
『…、…』
────急に妙な胸騒ぎと違和感がした。急に薄い桃色の白濁した湯を掬い、ちゃぷちゃぷと遊んでいた指先をピタリと止め、タイルに置き去りにしていたナイフへゆっくりと手を伸ばした。
ガチャリ、
「――――――・・・お前、風呂場にまでナイフ持ち込むのか」
『‥…へ?』
整えた髪をくしゃり、と崩しながら浴室に入ってきたのはまさしくクロロ=ルシルフル。
『…笑うな、』
だって、と喉をクツクツ鳴らして笑うクロロへ背中を向けている。
急に浴室に入ってきたクロロは当たり前のように身体を流し、またまた当たり前のように浴槽に入り込んだ。一緒に風呂に入るか、なんて冗談を彼から浴びせられた事は何度かあったが、実際に入ったのは今日が初めてだった。
「そんなに端に行かなくても」
『恥ずかしいから』
「はは、」
片手を縁に持たれ、我が物顔で寛いでいるクロロとは対照的に彼女は浴槽の一番端に行き、じっとして動かない。
『…ずるい』
「何が?」
『…勝手に入ってくるなんて、』
「そんなに拗ねるなら、オレが風呂に入ってる時に入ってくればいいだろ」
『入るわけない!』
入浴剤を入れておいて本当に良かった。こんな明るい所で全身を見せるなんて、耐えられない。一人で百面相を繰り広げている少女のわき腹に、するり、とクロロの腕が滑り込んだ。
「――――‥…いつまでそうしてる?」
ひっ、と息を飲み込む。肩に顎をのせたクロロが耳元で嫌に低い声で囁き、自分の方へ引き寄せたからだ。
「恥ずかしがるなよ」
『…、』
「もう全部見てるのに、恥じらう仲でもないだろう」
『……!』
すっぽりと彼の身体の中に納まった少女は身体を強張らせる。
『や…、』
「…?」
『あ…、あた、…あたって…!』
「ああ、そんなことか」
『な、な、な、』
腰の部分に当たっている硬いものに頭はフリーズしていく。
『…──!』
「落ち着けよ」
『…っ』
「なんにもしない」
『…い、いいの…?』
「…してほしい?」
いまここで。そう囁かれると瞬時にブンブンと首を振る。そんなに拒否しなくてもいいだろうと言いながらも、彼は笑いながらより近くに引き寄せる。
「期待した?」
『!』
「男の生理にいちいち照れるなんて、相変わらず可愛いことしてくれる」
『…、からかわないで、』
「‥…不思議だよな、同じ人間なのに男と女ってだけでこんなにも違うなんて。指のつくりも肌の質も、肉と髪の柔らかさも」
指先に這うクロロの指。お湯の中にある手をゆっくりと撫で、指を絡める。肩に顎をのせたクロロが喋る度に息がかかってくすぐったい。
『‥…先でて、』
「のぼせた?」
『…服ないから誰かに借りてきて欲しい』
「心配するな」
『‥…、?』
「貸してやるから」
『‥…』
「オレの替えのシャツもあるし、備え付けのバスローブもある」
『…………』
先に出るのは恥ずかしい。だからといってもう頭がぼうっとしてきた。
背中から感じる引き締まった身体。肉や骨の作り、全てが自分と違った。数え切れない幾つもの修羅場をくぐり抜け、得た多くの傷が、彼の人生が生半可なものでは無かった事を教えてくれる。
『……痛い?』
「別に、古傷だし」
水滴が伝う傷に手を這わす。自分の身体には傷がない。どんなに痛めつけても、すぐに塞がってしまう所為で、痛みが継続することもない。
「くすぐったい」
『いいじゃん、ちょっとくらい…』
「…ほら、」
『…!』
「背中合わせもいいけど、」
ふいに手をとられ、腰に回された腕により抱き寄せられた。
「ああ、やっぱこれが一番落ち着く」
肩に置かれた彼の顎。見えはしないと言っても、何も羽織ってない状態で抱き合い、彼女の顔はみるみる内に赤くなっていく。
『…、あのさ』
「…うん」
『みんなは帰ってこないの?』
「アイツらはもう帰った。残ったのはオレたちだけ」
『……そんなに早くお風呂に入りたかったんなら言ってくれたらよかったのに、』
「お前があんまりひっついてこないから。アイツらがいたらお前は自然と離れてくし、浴槽じゃ否応なしに近寄れるだろ」
だから強行突破してきた、と笑うクロロに身体の力が抜けていった。確かに最近は仕事続きだったこともあって、あまり触れ合うことも少なかった。
他の団員の前では距離をおく。組織の中でルールを守るように、規律を見出してはならない。しかし気を使いすぎて、気疲れしていたのも事実。
たまにはこういうのもいいかもしれない。そう思ったが、口にするのは止めておいた。
「のぼせてる?」
『…ん、』
「先に出ててもいいよ」
『…クロロが先に出て』
「意地張ってのぼせてふらふらになっても、今夜は手加減してやれる自信ないんだけど」
耳たぶに唇が落ちてくる。そのまま項に這う感触に、やっと力を抜いた身体がまた強張った。その様子に彼はまた笑い、身体を引き寄せる。先にでてもいい、そう言ったくせに腰にまわされた腕がゆるまなかったことに気付いて、嬉しくなって笑った。
END