潜入捜査! | ナノ



アンナがまたため息をついた。もともと、彼女は落ち込みやすく、傷つきやすい。誰かが話しかけると、何事もないようにへらへらと笑って、さも元気そうに振舞っている。しかし、好物のチョコレートをシャルから貰ったのに、それをすぐ食べず、ポケットの中に入れたのを、クロロはしっかりとみていた。いつもならもらったその場でパクリ、と咥えるくせに。朝食だって、一口二口食べてこっそり残していた。

まただ。
また、ため息をついた。

ーーークロロと一緒だとよく眠れる
ーーーもう一緒じゃないと眠れなくなっちゃったよ

そういって照れたように笑っていたのは、いつのことだったか。悪夢に苦しめられていた彼女に穏やかな眠りを与えることのできたのは、クロロにとっても独占欲を満たす要素のひとつだった。しかし、昨晩は、今日は一人で眠る、と言ったきり夜から自室にこもりっぱなしだった。

どうせ、やっぱり一緒に寝る、とかいって部屋にくるだろう。と思っていたが、結局来ることは無かった。無自覚かも知れないが、コイツのこういう行為が、こちらの不安を掻き立てる。またため息をついている様子を見かね、クロロは自分の膝をポンポン、と叩き、アンナの名前を呼ぶ。



「アンナ、おいで」



うつむいていた顔を上げてアンナがゆっくりとクロロの方へ寄る。膝の上に座って、いつものように身体を預けた。



「どうした、元気ないぞ」

『ふつうだよ』



普通って顔じゃないだろう

言いかけて、言うのをやめた。どうみても普通じゃない顔で、普通だと言い切るのは、いつものことだ。嘘をつくのが極端に苦手なこれを問い詰めても、圧迫させてしまうだけ。誘導するのは容易いが、それでは意味がない。



「オレは勘ぐりたくないから。お前のこと。特に、お互いのことに関しては」



なにか誰かに言われたのだろうか。
なにか気にするようなことを言ってしまったのだろうか。



「誰も、何も、」



そんなことばかり、時間を戻して、考えるのは純粋なことではないと、思ってしまうから。どうしても、不特定多数のやつを疑ってしまうから。



「信頼してる」

『わたしも信頼してるよ』

「オレは待ってるから、」



返事は無かった。

言葉は少ないけれど、きっと本心は伝わったような気がした。すん、とアンナが鼻をすするような音がして、泣いているのだろうか、と心の中で問いかけた。膝の上で、身体を預けているアンナを見下ろす。顔は見えなかった。



「今晩、さみしくなったらおいで。一緒に眠るだけでいい。何も聞きやしないから」



これ以上何か言葉をかけてやることは、誘導尋問に繋がってしまう。そんなことはしたくない。きっと、きっと、いま涙を堪えているのだろうアンナが、確実に泣いてしまうから。待ってるから、といったのは自分なのだ。ちゃんと、アンナがいま、なにを苦しんでいるのか、打ち明けてくれるまで待とう。




・・・・・・・




―――バタン、

皆、寝静まったホームで、微かに聞こえた、何かがぶつかるような音。方向からわかった。アンナの部屋からだ、と。



『・・・ぁ、・・』

「アンナ」

『・・っ、・・ぅぁ・・』



ベットの上で、シーツにくるまって、耳を塞いでいるアンナがいた。今晩、いつまでも部屋にこなかったアンナはいま、肩を震わせて、グスグスになって泣いている。



「落ち着け、オレがわかるか?」



アンナが夜にパニックになるのは何度もあった。最近は治まりつつあったが、また、例の悪夢によってパニックになっているようだ。元気のない理由はこれだったのか、とクロロは静かに納得しながらアンナの身体を抱き寄せる。



「アンナ、目を開けて、ここにいるよ」

『ぁ、くろ、くろ、ろ、』

「ここにいるから」

『ぁっ、・・ぁ、いや・・・・だ・・ぁ、』



両頬を手で包み、言い聞かせてやると、恐る恐る深緑の瞳は開かれる。濡れたそれは、恐怖と不安に染められ、ぽろぽろと涙を溢す。



「そう、いいこ、」

『ぁ・・・、』

「今度は耳を塞いだ手をどけて、ちゃんとオレの声を聞いて、」

『ゃ、やだぁ・・・、やだあ!』

「ゆっくりでいいから」



やだやだ、と耳を塞ぐ腕を取ろうとしないアンナは、離してくれとでもいうように、抵抗してくる。噛んだ唇からは血が流れ、すぐに傷が塞がっていく様子を見て、胸が張り裂けそうになった。

昨晩も、こうやって自分で自分を傷つけて、朝になれば、なにごともなかったように、笑っていたのだろうか。彼女には傷が残らない。傷ひとつない身体には、自分の知らない傷がどれほどついたのだろうか。また唇が切れ、すぐに塞がった。なんて切ない。



「大丈夫だから、ほら、」

『ぅっ、ぁ、・・』

「うん、いいこ」



ボロボロ涙を流すアンナの背中を撫でて落ち着かせ、少しずつ身体からチカラが抜けていくのを感じながら、頬の涙を舐めてやった。



『くろ、くろろ、っくろ、』

「オレがわかる?」

『わかる、くろろ、・・ぁ・・・、くろろ、』

「もう大丈夫。ここにはオレとお前しかいないから」



それから長い間、アンナは泣き続けた。流しすぎて涙も枯れるほど泣き、全てを出し尽くし、ぼんやりとしている。力の抜けた身体は、酷く弱っているように見える。



『・・・・クロロが、・・みんなが、いなくなる、夢を、見て・・』

「うん、」

『でもね、いなくなるんじゃ、なくて、・・私が・・・・、私が殺してたの。・・・私、なんでこんなことしたんだろう、って聞いたの・・・っ、・・なら、誰かが、私は普通じゃないから、って。・・・普通じゃない、って・・』



毎晩のように悪夢に苦しむアンナだが、どんな内容なのかはあまり話すことはなかった。よく見る夢は、幼少期に両親から受けた狂った教育の夢や、両親が追い詰めてくる夢、だと聞いていた。ガタガタと身体を震わせて、必死に抱き着いてくるアンナの身体をキツク抱いて、言葉が止まるまで聞いてやる。



「特別だよ」

『っ、』

「アンナは特別だ、オレにとっても、団員達にとっても、特別な存在」

『ほんと?』

「ああ、特別だ」



普通じゃなくていい。ここには普通の奴らなんて一人もいないのだから。みんなゴミ溜めの中で生まれて、ゴミ溜めで育った人間なのだから。

寒い、と消え入りそうな声で呟いたアンナの手を握ると、真冬に水を浴びせられたように冷たかった。昔、ゴミ溜めにいた頃、動けなくなるほどに寒い夜があったのを思い出した。昼なのか夜なのかわからないような環境だったが、なにか毛布のようなものを探す体力もなくてその時は、ああこのまま死ぬのか、と平然と受け止めていた。でもあの時は、あの場の寒さよりも、心を吹き抜けるような乾いた風を止めたかった。





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