とある一家と世界危機



田中ののかは夢を見ていた。世界が滅んでしまう夢。地球が割れてしまう夢。
ただの夢なら良い。
過去に観た映画や小説の一場面を反芻しただけだから。
しかし、田中ののかは夢見だった。

とある一家と世界危機


毎年四月の蒔絵家は一段と騒がしい。特に今年は、双子が高校に入学し、三女が中学生になった。
長男は入学式に出席できない母の代わりに高校へ赴き、父は三女の方について行った。
中学二年生に進級した次女は、いつも通りの時間に家を出たが入学式で午前授業だったため早くに帰宅し、他の家族が慌ただしく家を出る時間には惰眠を貪っていた。春休みの生活リズムにまだ翻弄されているらしい。

蒔絵家に母はいない。


あらゆる意味で蒔絵家最強の母は、みんなが出払っている間に、入学祝い進級祝いのご馳走を作ろうと、次女を叩き起した。買い物に行くためだ。

「弥、起きて。買い物に行かなくちゃ」
「…うぅん、やだ。有楽を連れて行け」
気持ち良く寝ていたところを無理矢理起こされた次女・弥は機嫌が悪かった。ただでさえ、この子はわがままに出来ているのに。
あくびを隠さない弥の、気の抜けた声が聞こえる。
「有楽は入学式でしょ。あなたしかいないのよ」
「じゃあママと二人か…もっとやだ」
次女・弥は寝返りをうち、母に背を向けた。
「今日は弥の好きなもの何でも作ってあげる」
瞬間、がばっと掛け布団をほおり、弥が完全覚醒する。
「それはほんと?」
「ほんとよ」
「じゃあハンバーグと、甘いにんじんのソテーと、エビフライと…」

単純な娘で助かったと思う。欲望に忠実なわがままっ子は、食い気に弱い。特に昨日の夜は、長男が彼女の偏食を注意しまくっていた。しばらくは弥の好物を一切作らないとも言っていた。弥と好みの似た次男も青ざめていたが。


少し待つとパジャマから着替え終わった弥が部屋から出て来た。
彼女が好む白のインナーにホットパンツ。ブラウンの上着を羽織ってマフラーを巻いている。そんなことをしても惜しみ無く出されたふとももが少し寒そうだが、もう四月。風邪を引くこともないだろう。

「よし、行くぞ!」
「ママを置いていかないでね」
「わかってるよ」

玄関に座り込みブーツを履いた弥は、そばのラックに掛けてあったショルダーバックを取った。そして、何故だか廊下にあったラッコの縫いぐるみをぎゅむぎゅむ詰める。少し考え、一応バックから顔が覗くように入れ直す。

「ママ、もうちょっと優しいのがいいなぁ」
「文句言わないでよ、もう」
弥は靴箱の上に置かれた小物入れから、可愛らしいラッコのキーホルダーがついた鍵を取り出す。キーホルダーも縫いぐるみも、やけに乙女チックな長男の趣味だ。弥は少し気持ち悪いと思っている。

「携帯持った?」
「持った」
「おサイフは?」
「ポケット」
「もう、紫じゃないんだぞ」
「そうね。ついつい」
家事育児担当の長男・紫は、意外なようでいてかなりドジだ。

「じゃ行ってきまーす」
「鍵掛けてね」
「わかってるってば」
鍵をバックから出そうとする。するとラッコの縫いぐるみが弥に差し出すように鍵を持っていた。
子供の多い蒔絵家は二重ロックで鍵穴が二つある。実際は二つとも同じ鍵を使うので侵入者の時間稼ぎ程度にしかならないが、鍵穴が二つあるというだけでそういう輩は敬遠するらしい。
どちらにも鍵を掛け、一二回ドア引いて確認する。

「うん、完ぺきだ」
「じゃあ行きましょう」
玄関を出たのは弥だけだった。しかし、どこからともなく弥ではない二人目の声。母だ。その姿はないが、母の声。声を発しているのは、どうやら先程バックに詰めた縫いぐるみらしい。


蒔絵家に母はいない。
人のかたちをした母は。


「ねぇ弥、ほんとにその…ハンバーグとにんじんとエビフライにするの?」
「グラタンも」

双子や三女のお祝いなのに、メニューが次女寄りになってしまった…と母は考える。まぁそれは良いとして、それらメニューの材料全部を買って持って帰るのは弥なんだよ、と教えるべきか否か。

なんたって、母の本体はバックに入ってしまう大きさの縫いぐるみだ。

「晩ご飯、楽しみ」
「手伝ってね?」
「やだ」
「んもぅ」

るんたるんたと上機嫌で行き付けのスーパーに向かう弥に、母は先の事を言うタイミングを見計らっているのだった。



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