とんとんとん、と四階から一階へと降りる自分の足がいつもよりずっと軽やかな音をたてているのをなまえは知っていた。もちろんその理由も。何枚かの少し草臥れた作文用紙とこれまたコピーの跡と匂いが色濃く残るプリントを右手に、まるでシンデレラになったかのような気分で階段を一段一段踊るように踏みしめる。あと何回、こうした想いができるのだろう。
つい先日高体連が終わりセンター試験まで後残り半年となった学校では、あちらこちらで受験生がかりかり、ぱらりと赤本や問題集を解く音が聞こえた。まだ夏のじりじりという残暑が残る中、なまえはエコ精神でクーラーのつかない図書室を通り過ぎすぐ隣にある扉へと手をかける。この時間であれば必ず彼はいるはずだ。扉に刻まれた文字はたった二言、『蔵書』。

「失礼します、みょうじです」
「どうぞ」

開けた瞬間にむわりと漂う、祖父の家の奥に置いてある母のアルバムのような古書独特のどんよりとした匂い。それでもなまえはこの匂いが嫌いでは無かった。狭い部屋で扇風機を一人占めしている彼もまた、おそらく嫌いではないから。彼は涼しげな髪色を人工的な風に靡かせながら、なまえの顔を見ずに「ちょっと待ってくださいね」とペンを動かす。なまえはそれに対し「はい」とだけ返事をして近くにある丸い椅子に座った。彼がよく見える位置だ。彼の横の本棚には薄い黄土色に金色の文字で『芥川龍之介全集』と書かれた本がずらりと並んでいる。表紙がほつれ黄ばんだそれを、彼は愛おしそうに読んでいたのをなまえは覚えていた。「せっかくいい作品なのに、少し古くなったからって人目に触れられない所に置かれてしまうなんて可愛そうですよね」、独りごとのように呟いた彼の言葉が甦る。芥川の何の作品が好きか、と問うと彼は少し考える素振りを見せてから「地獄絵だとか蜘蛛の糸だとか、彼の作品は残忍なものが多いと思われがちですけど」と沢山あるうちの一冊をそっと撫でながら言った。
「その中でも杜氏春だけは、愛の偉大さを描いているんです」
中国唐代の伝奇を題材にしているんですけどね、伝奇にはそんなのには触れてない。何を思ったのかは僕にも誰にも分かりませんけど、芥川は何かを伝えたかったんだと思います。

「すみません、お待たせしました」

何時の間にやら遠い日の記憶を辿っていたなまえを現実に引き戻したのは、あの日と同じ声。「いいえ大丈夫です」と答えながらも、大丈夫じゃないのは彼の方ではないかと思ってしまった。彼の纏う空気はいつもより少し重たく、白い肌は一層血が通っていないように見える。バスケ部の顧問を受け持つ彼は高体連の直後のこの時期、今までの疲れが溜まっているのではないだろうか。

「黒子先生、少し休憩しましょう」

彼、黒子テツヤ先生はなまえの言葉に少しだけ驚いた様子を見せるとすぐに「そうですね」と口元を和らげた。なまえはポケットの中からレモンキャンディーを取り出し黒子に渡す。黒子は「いつもありがとうございます」と素直にそれを受け取り、包装用紙から黄色くまあるいきらきらした飴を取り出して口に含んだ。

「お疲れですね」
「実は昨日、本屋で買った新書を徹夜で読んでしまって」

授業中も実はちょっと眠くて、教師失格ですねなんて言う黒子に、なんだそっちかとなまえは声に出さず思う。きっと部活のことなんて先生には負担にはならないのだろう、ああなんて彼らしい。誰の新書ですかと聞くと、「村上春樹です。相変わらず特有の感性の持ち主ですね」と飴をころころ口の中で転がしながら答えた。黒子は基本日本の作家しか読まない。以前一度「洋書は読まないんですか?」と聞いたところ、彼は「恥ずかしながら僕は英語が苦手なんです」と苦笑した。和訳されたものを読めばよいのでは、と言うとやはり彼は少し考えた表情で「好きではないので」と答えた。英文を無理やり和訳した感覚が嫌いだ、という意見はよく聞く。彼もその類なのかと問うと「多分、ちょっと違うと思います」と本人でもよく分かっていないような言い方をした。

「太宰治の『斜陽』という作品に出てくる”白い足袋”をwhite gloves、つまり”白い手袋”と英訳した翻訳家の方がいらっしゃるんです」

女性の正装である白い”足袋”を日本の知識が浅い当時の外国人が理解できるはずもなく、どうしようか悩んだ末に白い”手袋”に置き換えて翻訳したらしい。「歴史を変えた上手い翻訳だとか日本の伝統を無視されただとか、賛否両論なんですけど」、と黒子は何処か遠い目をして続けた。

「僕はやっぱり、執筆した人の想いが何処か違って聞こえてしまうようで、あまり好きではないです」

それは外国の作品を日本語に翻訳した場合にも当てはまること。できることなら全て原書で読んでみたいものです、と叶うことの無い願いをぽつりと黒子はぽつりと呟いた。
相手の真意を懸命に汲み取ろうとする黒子の姿勢は本だけでは無い。一人ひとりの生徒に対してもそうだった。真摯に生徒の気持ちを受け止める黒子に、その瞳に、今まで一体何人の高校生が救われてきたのだろうか。そんな彼だからこそ好きになったのかもしれない、となまえはその話を聞きながらぼんやり考えた。こんな年上の、先生を。

 
 
 
「今日の小論文はどうでしたか?」

唐突に扇風機がぶおおんとこちらにも顔を向ける。なまえは昨日揃えるのに失敗した眉毛をなんとか黒子に見られぬようにと必死に前髪を抑えながら「勉強になりました」と答えた。普段から中々の好成績を残していたなまえは、受験戦争の波に飲まれることなく推薦という他の人より一歩先を歩いていた。面接と小論、これがなまえに与えられた試験である。面接は他の先生のお世話になっているものの、小論はどうしても黒子に見てほしかった。彼の教え方が上手いのもあるが、二人きり、一対一で指導してもらえるなんて恋する乙女としてはこの機会を逃すなんでできるだろうか。たとえそれが多少ほろ苦く淡いものだったとしても、だ。

「全体的な構成としてはいいんですけど、みょうじさんは何処か遠回しに考えを述べる癖がありますね」

本番までにそこをなんとかしないと、とぱらぱら昨日提出したなまえの小論文を捲りながら言う。少し眉を下げたなまえを見て、黒子はくすりと笑った。

「別に悪いわけじゃありません、言葉を何かに包むのは日本人の特徴です」

夏目漱石や二葉亭四迷のあの言葉だって、そうした情がなければ生まれなかったんですから、と。顔を上げたなまえの目を真っ直ぐ見ながら黒子は続けた。「でも、」と。

「少し勿体ないと思いませんか?せっかく今を一緒に生きてるのに、その想いを共有する時間が少なくなるなんて」

言葉の葉で想いを包めば包むほど、紐を解くのにだって時間が掛かる。もしかしたら残された時間はほんの僅かかもしれないのに。

 
 
「だから僕は、直接伝える方が好きです」

 
 
「何か、僕に言いたいことはありませんか」と視線を窓の外の寂しくなったグラウンドへ、そしてまたなまえへ移しながら、黒子は言う。綺麗な夕日が彼の色素の薄い髪を真っ赤に染め上げ、酷く幻想的なものにしていた。ああもしかしたら先生は人間じゃないのかもしれない、もしかしたら神様なのかもしれない。一瞬そんな変な考えすら抱いてしまうほどに。

 
「先生、わたし、せんせいのことが好き」

 
今まで胸の奥にかちんかちんに凍らせて溢れないように厳重に氷山の下に埋めておいた想いが、春になり溶けて流れる雪のように自然な音でさらさら流れる。「これでいいや」と思っている自分にも驚いたが、何より目の前で酷く優しく笑っている彼の方が何倍も不思議だった。ふんわりと、すぐ近くで柔らかい感触と共に爽やかなレモンの香りが鼻を掠める。


 
「はい、よくできました」

 
 
 

でくるんで窒息
 
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チョークと鉛筆さまに提出 2013.05.25