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真珠は人の恋愛に実によく似ている、と私は思う。
貝殻成分を分泌する外套膜が貝の体内に入り込むことによって生成される、それが真珠。
ひと目見た時、何か相手のいい所を見つけた時またはとある言葉をかわした時、心の中に暖かくて綺麗なものが生成される、それが恋。
キセキという名の神のお導きが無ければ、どちらも無かったことになる。真珠はただの貝殻に、恋心はそのうぶ声をあげることなく。
天然真珠が生成される確率が3000個に1粒なら、この恋は、この偶然はいったい何億分の一なのだろうか。
 
「愛してるよ」
数多ある言葉の中でも最も重いものの一つであるはずのこのフレーズを、奴はいとも簡単に口にする。それは太陽に透かすとキラキラ輝く飴玉のようで、多くの女の子がその甘さゆえに嬉しそうに微笑み返した。
ただ一人、その軽さに気づいていた私を除いては。
 
「冗談」
 
間髪入れず返す私に、奴は毎度のことながら満足そうに笑うのだ。
 
 
奴こと及川 徹とは長い付き合いだ。
かといって別に幼馴染ではない。互いの家は歩いて30分ほどのかなり離れた場所にあるし、親同士特別仲が良いというわけではないのだ。
ただ、小学校から高校三年まで一度たりともクラスが離れたことが無かった。東京のような都会に比べ学校の数も児童の数も少ないとはいえ、これは中々驚異的な記録だ。それゆえ私の異性の中で一番仲がいい人といえば及川だし、彼もまたしかりなのだと思う。
そんな私たちの関係が、もとい及川が変わったのは何故なのかはっきりとした理由は分からない。それでも、その瞬間はしっかりとこの脳に焼き付いている。
ぱらぱらと降る春雨、電気のついていない薄暗い教室。
それは春だというのにどこか肌寒く感じられる中学三年の初めのことで、その日私は一人椅子に座りながら外を眺める及川と鉢合わせしてしまった。
いつもの彼と雰囲気が違うと察した私は挨拶だけして帰ろうと思ったのに、何故か「ねぇなまえちゃん」と私を引き止めた彼の目は、外の風景を見ているのに何処かもっと遠くを見つめているような、あるいはただの虚空を無関心に見下ろしているようなそんな何色も写さぬものだったのを覚えている。
 
「天才ってさ、本当にいるんだね。俺部活やめちゃおうかな」
 
本当に私に話しかけているのか疑いたくなるような雨と同じくらい、いやそれよりもっと小さな声で彼は囁いた。私がそれを聞き取れたのも偶然かと思えるほどに小さな、それは小さな声で。
それなりの常識を持ち合わせていると自負している普段の私であればそんな彼を慰めるかなんなりしたであろうに、中学3年最後の大会を控えていてもなお後輩に団体戦の枠をとられそうになっていた軟式テニス部員であった私は人間として最悪な発言をしてしまった。
いや、細かくは思いだせないのだがとにかく自分が誰かに言われたら傷つくような、そんな思いやりのない言葉を私は彼に放ったのだ。あまりに酷すぎて記憶が忘れようとしたのかもしれない。
及川のその時の表情は今でも鮮明に思いだせる。大きな驚愕と、僅かな失意。言い終わった後に、ああやってしまったと思った。それでもそこですぐに謝罪しなかったのは私の意地っ張りな性格が悪い方に影響してしまったんだろう。その後私は何か言いかけた及川を無視し、傘を差さずに走って家まで帰った。その時感じた寒さは体の方ではなくもっと別のところが痛いと叫んでいたのかもしれない。
 
それからだった、及川が私に空気より軽い、とても安い言葉を投げかけるようになったのは。
きっと彼は私に愛想を尽かしたのだと思う。所詮こいつも他の女と変わらないんだな、とか。そう、私は及川の容姿に惹かれ群がる女子たちと何の違いもなかったのだ。
私がそれに明確に気づいたのは、高校に入って彼が沢山の恋人を作り始めてからだった。
その時の悔しさと惨めさといったら。よく少女漫画か何かで失恋してから気付く、なんて展開がよくありがちだがまさにそれが自分の身に降りかかってくるとは思いもしなかった。
違うのは、彼女たちのような綺麗な涙は出て来ず、ただ茫然とした消失感。ただ彼はいち早く、本人の私よりも私の感情を垣間見ていたのかもしれないが。
 
 
友達とも恋人とも形容し難い、腐れ縁という不思議な関係に私は甘んじていたのだ。
 

 
あの日から3年、私は再び同じような状況に立っていた。高校三年生の春、ほんのり霧雨が降る夕暮れの教室。そっと目を閉じるとあの日の風景が脳裏に浮かびフラッシュバックしそうになるが、確かに違う部分がある。
それは私も及川も、もう大人だってこと。
悪天候のため部活が中止となっていた私はあの日と同じように及川と教室にいた。どちらが声を掛けたわけでもなくただ出会っただけ、偶然という名の神様のいたずら。
それでも私は、なんとなくこれで最後だなと思った。
 
「ねぇなまえちゃん」
 
昔と同じ言葉を、昔とは違う低くなった声で。私は静かに彼を見た。彼も静かに、私を見た。
 
「三年前さ、部活やめたいって言った俺に何て言ったか覚えてる?」
 
及川はこの表情が得意だ。笑っているようで笑っていない瞳。唇の端を緩く釣り上げるだけの、綺麗な笑み。そして私は、彼のこの表情が嫌いだ。とても。
 
「忘れたね、そんな昔のこと」
 
掠れた声で返す私は、どんな顔をしているのだろう。薄暗さのせいで彼に見えないといいのにと思った。きっとそれは無理な話だけども。
 
「酷いなぁ、俺は忘れたことないのに」
 
だってほら、私には彼の顔はこんなにもはっきりと分かる。
 
「もうちょっとで春高なんだよねー」
 
私が言葉を返す前に及川は話を続けた。春高といえば、高校バレーにおいて夏のインターハイと並んで重要視されている大会、別名日本代表への登竜門。三年生の彼にとっては、一種の賭けのようなもの。私は小さく、「そう」とだけ言った。雨の音にかき消されて、彼には聞こえなかったかもしれないが。

「ねぇ、なまえちゃん」 
 
長い間及川と一緒にいた私は、彼が次に言うであろうことが簡単に予測できた。それはきっと紙のように薄く、夢のように儚く、それでいて真珠のように魅力的なもの。

「好きだよ」
 
冗談。

一瞬いつものように返そうとして、口を閉じ大きくゆっくりと瞬きをした。そんな私を彼は訝しげに見る。
 
私のこの想いは人魚姫のように純粋じゃないけれど。
私のこの想いはクレオパトラのように大胆じゃないけれど。
 
それでもいつも負けている私が、一度だけ彼を負かしてみるのもいいかなと思った。ずっと言いたかった言葉を、今ここで言おう。この関係を、唯一あなたと私を繋ぐ腐れ縁というか細い糸を切ってしまおう。
 
「私も」
 
今までの関係を蹂躙するその言葉を聞いた及川の顔からすっと笑みが消え、元から男子にしては大きな目がさらに見開かれる。きっと他の女子は彼のこんな表情を引き出せまい。私にとってそれは酷く愉快なことだった。
 

「私も、及川のこと好き」
 

どこか遠くで、真珠が酢に溶ける音がした。
 
 

まぶたの裏に隠したパール

 
 
 
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2013/03/30 Aliceさまに提出