#01.少女と少年は息絶えた

 人という生き物が今まで時を越え生き続けてきたのは、ひとえに欲深いからだと思う。

 しとしとと表現するにはいささか激しい雨を、少年は見つめる。幼さの残ったその瞳にはたしかに人間が宿っている。波打ち際にたたずんでいるようで、どこか果てしない道をひたすらに走っているようにも見える。でも多分、答えはそのどちらでも無く、少年はただほんの少しだけ歪んだ彼女への愛情を持てあましているだけなのだろう。彼の瞳には波打ち際から見る白い砂と蒼い海の美しさも、どこか果てない道をひたすらにはしるときめきも、どちらも存在しない。彼にとっての今の世界は、自分と彼女だけで満たされていた。窓の外で、ひときわ大きく雨の音がした。少女の震える肩を、彼は心底≪可哀想だ≫と思いながら見つめている。

 後悔はしているんですよ。少年は小さく。ほんの小さくつぶやいてみる。後悔はしている。そうつぶやくことで、彼はその言葉が彼女をさらに追い詰めることを知っている。後悔はしている。そう言うことで、彼女の口から「じゃあなんで」の疑問を引き出そうとする。じゃあなんで裏切ったの。じゃあなんで好きだといったの。そういって醜い醜い感情を引き出そうとする。可哀想なくらい汚らしくて、陳腐で、薄っぺらい毒を彼女に吐いて貰いたい。可哀想に。そう言って彼女を≪哀れんで≫しまいたい。そして彼女を≪哀れ≫な様にしたのを自分であることを確認したい。ああなんて優しくて、ああなんて。

 少女は薄くてあどけないピンク色の唇に、血が出てしまいそうなくらい歯を立てていた。でも。やり直したいとは思っていない。力無く椅子に座れば、かたんと何かが壊れるような音がする。それを聞かなかった振りをして、少年は「雨、やみませんね」と呟いた。ずっと昔。今からずっと昔の、少女にとってのはじめての失恋の物語。雨はその勢いを終えることをせず、少女と少年を内面から濡らしていくだけ。

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 少女の失恋から、瞬きをするほどのはやさで時は駆け抜けていった。少女はぎこちなく曖昧な距離感を≪過去≫として捨て去ることが出来ずに、また≪未来≫として思い出と変えることが出来ずに居た。それが果たして未練だったのか、それともただの傷跡なのか。少女に答えは出せないまま、そして、

―――そして、高校最後の梅雨がやってくる。




#02.少女は水の中で雨の音を聞く

 昼間は晴れていたのに、夕方からいきなり降り始めた雨。少女は屋根のついた自転車置き場を想いながらため息をついた。雨は嫌いでは無いけれど、流石にびしょ濡れで帰るのだけは遠慮したい。雨特有の洗練された匂いで満たされた教室は、いつもより煩わしく感じる。雨の日というのはその湿気からか、どこか水の中に居るような錯覚を覚えるときがある。小学校の時に行った着衣水泳の授業を思い出す。はりついた衣服。下に水着を着ていると言っても、その気持ちの悪さは尋常じゃ無かった。上に衣服を着ていると言うだけでこうも気持ちが悪いのだろうか。いつもよりも何倍も重い身体に、はやくこの服を脱いでしまいたいという衝動に駆られながら身体をラッコのように浮かせていた記憶がある。靴を浮き輪代わりに、とか身体の力は抜いて仰向けになる、だとか。もううろ覚えになってしまったけれど、あの日の気持ちの悪さだけは二度と忘れないだろう。あんな思いをしたくないから、私は川にも用水路のも近づかなかった。落ちて死にたくないという思いは勿論あるけれど、それ以上にあの服の張り付いたような気持ち悪い感覚。そして水の中に居るような居心地の悪さだけは勘弁したかったのだ。梅雨が来るたびに来る憂鬱感はここからなのかもしれないと考えを巡らせた後、頭の中に色素の薄い彼の顔が浮かんだ。

 黒子くん。最初から最後まで、私は彼のことを名字で呼んでいた。テツくんとかてっちゃんとか、ありきたりでばかばかしいけれど≪それらしい≫可愛い呼び名で呼び合える日を夢見ていたけれど、さよならというのは突然やって来てしまう。天気予報がはずれるように唐突に、理不尽に、あんまりにも暴力的に。別れという物ははじけて消えて、そのままもう帰ってこない。

 わたしは今も彼のことが好きなんだろうか。彼のことは、好きか嫌いかと言われればどんなに酷いことをされたかということを考慮しても好きだ。迷わず答えをはじき出せる。顔を見れば心臓はわかりやすく鼓動を大きくするし、万物に優しい指さきを素敵だとも思う。でも、果たしてそれは≪恋≫なのであろうか。少女は考える。古傷が痛むような、そう言う感覚じゃあ無いのだろうか。はっきりとした別れの言葉も、なにもなかった。ただ自然と、私が終わりを悟っただけだ。ごめんなさいも、許して下さいも、さようならも言ってくれない彼は私が知っている誰よりも酷い人だ。



#03.道連れ時雨

「黒子っち。なんであの子と離れたんスか?」

 黒子っち、今もあのこのこと好きでしょう。整った顔立ちの彼は、困ったような顔で僕にそう告げる。ええ好きですよ。僕は迷わず静かに答えると、探していた本を手にとってぺらぺらぺら、と数ページめくった。じゃあ何で。尚も聞いてこようとする彼に「ここは図書館ですよ、黄瀬君」と答える。

「黒子っちのことだから、もしかしたら彼女のためにとか…僕じゃ似合わないとかそんな風に思ってるんじゃ無いかと思って俺、心配なんスよ」

「黄瀬君が思ってるより、僕はそんな聖人君子みたいな人間じゃ無いんですよ」

「いや、黒子っちじゃないっス」

 心配なのは。
 その続きは、言わずともわかった。全くこの人は、とんでもないところで鋭かったりするのだ。離れたりするのかとは聞いたけれど、彼は≪何で別れたのか≫とは聞いてこなかった。つまりは、そういうことだ。

「ずるずると引きずってるんじゃなくて、引き込もうとしているんスか」

 何処に。何故。何処まで。そんなの僕が知りたい。
 雨が降っている。




#04.彼女と彼のいくつかの追想

 黒子君が或る女の子とキスしているところを見てしまったときは、まるで心臓が鍋の中に放り込まれたようだった。
 こういうと語弊があるかも知れないが、決して私はこのとき怒り狂っていたわけでは無い。悲しみに浸っていたわけでも無い。ただ、打ちのめされていた。彼の指先も眼差しも、自分の物だとかそんなことを思っていたわけでは無い。ただひたすらに、打ちのめされたのだ。彼の一番が自分で無い事でも無く、彼の愛する人物が私で無い事でも無く、ただただ暴力的な≪終わり≫に打ちのめされた。暴力的で、背徳的で、残酷なのに曖昧。終わりのようではじまりでもあったそれは、私を永遠の苦しみに突き落とした。梅雨が来るたび思い出す着衣水泳の授業のように、何度も何度も私の中で繰り返され、あの日より大きくなっていく彼。あの時。雨の音が響く教室で、彼に何を言えば良かったのだろう。噛みしめたくせに、血など一滴も流れなかった。涙もそうだ。私は何もはき出すこと無く、ただ彼の無邪気な瞳を見つめていた。何を考えているのだろうか。そう、その時初めて思った。彼は何を思っていたのだろう。考えているのだろう。どんな気持ちでキスしたのだろう。どんな気持ちで今私を見ているのだろう。その瞳が笑っているようで、私は彼を恐ろしく思った。彼は一体、私に何を求めているのだろう。

「雨、止みませんね」

 彼の言葉に、私は最後なんと返したのだったろう。今となってはもう、思い出せずに居た。否、思い出したら、そのときは。目をつぶって息を吸い込もうとしてやめる。ゆっくりと目を開けば、雨が私の前に立っていた。

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 あの日僕はキスなんてしていなかった。勿論、そうしても良いとさえ思ってはいたけれど、今はまだその時じゃ無いと思っていた。少なくとも、彼女が僕のことを名前で呼び、僕が彼女を名前で呼んで初めてのキスをするくらいまではこのままの≪甘ったるくて≫≪かわいらしい≫関係でいようとした。でも、それはある日突然壊されることとなる。
 繰り返すけれど、あの日僕はキスなんてしていなかった。高いところにある本を取ろうとして、ある女の子(名前はもうとっくに忘れてしまった)が本をおとしてしまった。それが彼女の目に当たって、僕はそれに大丈夫かと機械的に声をかけただけに過ぎない。しかし、丁度そこに彼女が来てしまった。そして幸か不幸かその角度からは、女の子の顔をのぞき込んでいる僕の顔は、まるでキスしているように彼女にくっついているように見えたらしい。

「雨、止みませんね」

≪ずるずると引きずってるんじゃなくて、引き込もうとしているんスか≫

 思わず笑ってしまう。傘を差すことも忘れて、ただ歩いていた。結局借りようとした本は全て棚に返却してきてしまった。別れを告げたときの黄瀬君の顔が少しだけ思い出される。何処に行ってもいいスけど、帰ってきて。その言葉にすぐにイエスと答えられなかったのは何故だろう。

 震える声で話があると言った彼女の顔は、怒っても悲しんでもいなくて幼い子どもを連想させた。怒って良いのか泣いて良いのかさえもわからずに、困ったように気持ちを持てあましている子ども。かわいくてなんともあどけない。無防備な表情だった。それこそ最初内容を告げられたときは驚いたけれど、彼女のそれを見た瞬間今までの考えだとかそういった物はもはやどうでも良くなってしまった。心底、この子を手に入れたいと思った。勿論つきあったとき―――嫌それ以前から思っていたことでは在るけれど、その比じゃ無いくらいに。愛や恋じゃなくたっていい。ただ、僕のことを忘れずに永遠に引きずって欲しい。水底よりももっと深く。誰も聞いたことの無い、雨の降る場所まで。僕は。だって僕は。

 何処にも行けなくて良い。何処までも行ったって良い。隣じゃ無くても良い。何処だって良いから、彼女の心の中に。永遠と生き続ける僕で居たい。そのためならば僕は、なんだってしよう。彼女の大事な物を全部殺して、彼女の感情を全て食い散らかしてしまうことよりも残酷に。



#Last story.雨は止まず

 顔を上げれば、そこにはいつぶりかわからないほど懐かしい姿があった。上から下までびしょ濡れで、酷く不格好なお互いの姿を無言で見つめながら、どちらからともいわずに歩いて行く。いつの間にかたどり着いたのは、つきあっているときでさえ訪れなかった少年の家だった。少年は彼女を中へ促し、彼女はそれに無言で従う。どちらも探るように相手を見ているくせに、温度の無いような指先で機械的に動いていく。中に入った瞬間に腕をひかれて、少女はひかれるままについて行く。汚い雨色の足跡が二人分、フローリングを静かに濡らしていった。連れてこられたのは真っ白い空間。バスタブ。蓋の開いたそこに突き飛ばされて、少女は水の入っていないそこに沈んだ。彼女は彼の腕も引き、自分の横へ彼を沈める。ザー、という雨の音が聞こえる。身体に生暖かい水がかかり、彼と彼女を濡らした。まるで非現実のように唐突で、またしても暴力的な始まり方だった。狭いバスタブの中で、それでも一定の距離を保ちながら、体中をびしょぬれにさせ二人は見つめあう。張り付いた服がお互いの身体を裸にしてゆく。服を脱ぐよりもむしろ、赤裸々に全てをはき出しているように感じる。シャワーの熱が頭にのぼるころ、少女は私はこれが嫌だったのだと気づく。服が濡れ、中が透けることで全てを見透かされるのが嫌だったのだ。気持ち悪さの源は、全ては此処であったのだと。足下を飲み込み、水面は上昇していく。このまま二人、おぼれ死んでしまいそうだ。

「雨、止みませんね」

 彼が言葉を紡ぐ。それが全ての終わりであり、はじまりであった。少女は返す。否と。言葉では無くその態度で。重ねた唇はあの日と同じ、気持ちが悪い塩素のような無機質な味がした。そのくせ生々しく、確かに暖かいのだから手に負えない。

 思い出したその時は。
 彼女はあきらめたように触れた唇を噛みしめる。今日だってそうだ。涙も血も、どこからもでない。彼は笑う。もうとっくに濡れているのだと。内面よりもっと深くから、窒息するくらいにと。

 黒子君が浮気をしているところを見てしまわなければ、果たしてわたしは彼をずっと好きで居られたのだろうかとさえ思う。もしそれが彼の狙いだったとしたのならば、このまま水の中に落ちて気持ち悪さの中雨におぼれたってかまわない。人という生き物が今まで時を越え生き続けてきたのは、ひとえに欲深いからだ。ならばわたしたちは欲深さを持てあましたまま、一生このまま進まなくて良い。水底よりももっと深く。誰も聞いたことの無い、雨の降る場所まで。


 
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