甘い香りのするケーキの入った箱を片手に、古びた階段をぎしぎし音を立てながら登る。扉の向こうから聞こえる少し苛立ったような声にとくんと心臓が小さく音を立てた。
 
 
 
「あ!なまえさんいらっしゃい!」
「ケッこう何度も来るとは御苦労な奴だナ」
「ちょっとムヒョ、失礼でしょ!」
 
お気になさらないでください、と申し上げながら手土産を渡せば薄いクリーム色の髪を持った少年は嬉しそうにありがとうございますと言い、まるで玉ねぎのような独創的な黒髪の少年はそれを鼻でお笑いになりました。ここに来るまでの道のりで六氷殿の好きなケーキ屋さんを見つけましたので、と言うと次郎君は僅かに眉を下げた後すぐにはっとしたように「なまえさんは本当にムヒョのことが好きだね」と、とても下手な作り笑いと共に言葉を紡ぎました。はて、誰がそんなこと言ったのでしょう。私が六氷殿を好きだなんて、そのような下らない虚偽。されど私はあえて何も言わず困ったように笑いました。
私が彼に持つこの感情を愛だの恋だのそんなくだらないものと定義するなんて、ああなんて幸せな頭。なんて低脳な人々。私の六氷殿に対する想いはそんな世俗的で薄っぺらなものではないというのに。彼は何に対して嫌悪感を抱き、彼は何に対して苦痛を感じ、どんなものに対して涙するのでしょう。ああ、知りたい知りたい知りたい。天才と謳われた六氷透の闇を余すことなく舐めるように知り尽くしたい。私はただそれだけ、それだけだというのに、人は何故あんな気持ち悪い名前を付けるのでしょうか。それでもあえて無理矢理言葉を当てはめるとすればこれは実にプラトニックで底のない単純な好奇心。そう、好奇心なのです。
私は昔から一つの物事に対して興味が失せることがないという、少々困った性格を持っておりました。まるで小さな幼子のように何故、どうしてなどという疑問の霧が一向に晴れることを知らぬのです。それが可笑しいと気づいた時にはもう友人と呼べる友人はおりませんでした。それでも私は良かったのです。泡のように次から次へと浮かび上がる疑問が作り上げる孤独は私にとってむしろ心地よいものでしたから。本当はこの特性を生かして研究者になりたかったのですが、師匠は私に執行人への道を強く勧めました。今思えば彼は私の中のこの貪欲な好奇心が迎える終焉に誰よりもいち早く気づいていたのかもしれません。最初こそ不満に思っておりましたが、今では神にしてもしきれぬほどの感謝の念を抱いております。私を六氷透という大変興味深い観察対象へ導いてくれた神に。
 
「なまえさん、紅茶淹れました!」
 
ありがとう、次郎君の紅茶はとても美味しいから好きよというと彼は照れたように頬を少しだけ朱に染めて笑いました。人よりいくらか洞察力が鋭い私は、いえ草野次郎という男の元来非常に分かりやすい性質のせいでもあるのですが、彼が私に対して憧れあるいはそれ以上の感情を抱いているのは随分昔から気づいておりました。しかしそんなものは私にとってどうでもよいのです。そんなもの私にとってなんのインセンティブにもならないのです。今の私のベクトルは全て目の前で漫画を読んでいる彼ただ一人一直線なのですから。
そういえばとふんわりダージリンの匂いがする紅茶を飲みながら最近の出来事を思い出しました。悪霊ソフィーに刑を下すべく魔監獄最下層を訪れた時のことです。私の心を震わせたのはソフィーではなく、その後のリオ先生の裏切りでした。いいえ正確に申し上げれば、その時の六氷殿の表情です。口から血を吐きながらも、彼はいつもの不敵な笑みを絶やさず笑っていたのです。彼が友人を救いたいと思っているのは存じ上げておりましたが、これほどまで強いものだとは思っておりませんでした。感動した?ええ、そうです。感動したのです。彼、六氷透の新たな一面を発見できる可能性を見出したことに、私は酷く感動したのです。
もし私が禁魔法律に魂を売れば、彼はどんな表情をするのでしょう。いえそれよりももし私が彼の目の前で大切な友人を殺した場合、その顔は、その体はどのように動くのでしょうか。この後の人生をどのように歩むのでしょう。もちろん、全て運命の歯車が彼の思い描いたように回った時の彼にも、興味がないわけではありません。しかし私は以前申し上げたように彼の闇にこそ関心があるのです。私が見たいのは彼の闇の部分なのです。もし、もし私が、そこまで考えた瞬間でした。

「ヒッヒ…おいなまえ」
 
六氷殿が私の名前を呼んだのです。それもいつもより数倍低い声で。私は一気に現実に引き戻されました。私の頭の中で顔を歪めていた彼は今はその怪しい笑みを携えています。私がなんでしょうと首を傾げると、もう一度あの独特な笑い方を発した後台所に立っている次郎君に聞こえぬような小さな声で、それでも確かにこう言いました。
 
 
  
「てめェも面倒な人間だナ。せいぜいそいつを飼いならすこった」 
 
 

刹那、私の中の血という血が興奮したようにワッと歓喜の声を挙げました。それとは対照的に、首筋を一滴の汗が静かに流れてゆきます。
 
おお、神よ!なんということでしょう、この男は気づいていたというのです!深い水底に眠っているはずの私のこの恐ろしい病に、頑丈な檻の中に閉じ込めたはずのこのおぞましい囚人に、彼は気づいていたというのです!何時から、何故、何処で、そんな疑問は最早今となっては意味を持たぬものでした。双頭の鷲のように鋭い彼の瞳は、私のこの忌まわしい獣を捕えていたのです。
それでも自身の手で私のこの罪を裁かない彼はなんと優しく、なんと愚かでなんと慈悲深くなんと臆病でああ、神よ、なんて、ああなんて、
 
 
 
愛おしいのでしょう。
 
 
 
――――――――――――――――――――――――――――
 
18回目の誕生日を迎えるとこへ、愛は込めて 2013.06.18