甘い匂いに誘われて、気づいたら僕はここに辿りついている。
いつだったかは忘れたけれど言い訳に使った言葉。今思うとお嬢は甘い匂いというよりもシトラスのような人に好まれやすい匂いがあっていたかもしれない。その中にどこか強く引き付ける何かがあって僕はここに来てしまうんだと。
言い訳など、ここしばらく使ってすらいないが。今では「お嬢に会いたくて」その言葉がなによりも真実。
「今日も来られたのですね。また私に会うため、ですか?」
困ったように、けれどはにかみながら彼女はいう。ここへは彼女が通っているのと同じ日数を僕も訪れていた。
「そう、その通り。だけど今日はもうひとつ目的があるんだ」
「私には関係のない目的でしょうか」
残念ながら。
僕がお嬢以外のためにこんな閑散と時間を眺めるだけの場所に来るものか。それでは、と開いてある本を閉じながら問われる。もったいぶらしたように。というかほんとただ焦らしているだけなんだけど、ゆっくりお嬢の隣の席に腰を下ろしながらそれはねと続けた。
「本を聞かせてもらおうかと思って」
「聞かせてもらう、ですか?自分で読むのではなく」
「そう、所謂朗読ってものをお嬢にしてもらいたいなって」
「日生先輩?一応ここは図書館です。周りの方に迷惑になってしまうのでそのようなことは、」
「大丈夫、僕とお嬢以外誰もいないって確認しました。本はそれでいいからさ。ね、お嬢」
彼女に拒否権はない。又、本気で拒否するつもりもないだろう。こうやって強引に実行してしまえば渋々とでも僕の要求に答えてくれる。
放課後、まだ日の短い今の季節の夕方は空一面蒼に染まらない。朱が混じってしまっている。蒼か朱か、どちらの色で表すべきか迷ってしまいそうな今日みたいな空を、何よりもこの瞬間が、好きだった。その空を眺めながらお嬢の声で物語を想像していられる。なんて楽しいのだろう。ましてそれが愛だの恋だのが織り込まれた物語ならばなおさらだ。
ついた肘の上に顎をのせて目を閉じる。普段声が聞こえるとしたら会話をしている時だ。彼女が本を読んでいる間、話すことはない。その時図書館はただのつまらない空間となる。それが、今はどうだ。響くのは彼女の声。真っ直ぐに僕だけに届く、音。意味のわからない優越感に浸っていた。
「…でした。ここまででもよいでしょうか?もう時間になってしまいますし」
まだ聞いていたい気持ちのほうが大きかったけれど無理強いさせても意味なんかないから、もちろんと笑顔で返した。
「今日はありがとうお嬢。また読んでくれたら嬉しいかな」
「考えておきます」
「うん、検討よろしく」
考えておく。その言葉、信じてしまうよ。
結局、君は、あまい。
120316