「散歩へ行くぞ撫子」
戸棚から普段使わない豆を取り出しインスタントではなくきちんと豆をひいてコーヒーをいれようとしていた私に宛てられた台詞が、手を止めさせた。
散歩に、行く?この天候の中?
顔を上げてすぐ見える窓には水滴が数多付着しそのほとんどが雫として伝い落ちている。風が窓を揺らすほどには横殴りの雨。わざわざこの中に自ら飛び込むというのか。
彼が突拍子もないというのは今に始まったことではない。何度も付き合ってきた。だが今回は「しょうがないわね」と簡単にいえるものではない。傘なんてきっと役に立たないわ。どちらかが、もしくは両方が風邪を引いて終わり。目に見えているじゃない。
しかも私が誰の為にコーヒーをいれようとしてるのかわかっているのか。誰かさんが「食後にコーヒーを飲みながら新聞を読む」とよくわからない宣言をしたのを聞いてしまったからだ。確かに頼まれたわけではない。でも終夜はまだ椅子に座ったまま新聞の一面を見ている。これはつまりいれてくれってことじゃないの?そう受け取ってしまったとしても悪いのは終夜よ。
「私はいいわ。コーヒー飲んで待ってるから行くなら終夜一人でどうぞ」
「……何を怒っておる?私一人で散歩をしても意味がないではないか。そなたも行くぞ」
「嫌よこんな雨の中散歩したって濡れて終わりじゃない。私、風邪を引きたくない」
理由を添えているというのに、わたしの言葉なんか聞こえないそぶりで「行く、行くぞ」と誰かに言い聞かせる口調をしつつ立ち上がる。開いていた新聞はそのまま机に残っていた。
なんなのよ、もう。
心中、悪態をつきながらも同時に合羽どこにやったかを考えている自分がいた。せめてコーヒーは飲んでもらう、そしたら、ほんと、しょうがないから、付き合ってあげてもいい。悔しいけれど。
でも簡単に言ってあげる気はないから、準備を始める終夜なんか気にもとめていない風に装って黙々とコーヒーをいれ続けた。そんな私の姿を見ながら早く行きたいのかそわそわしているけど知らない。待てないなら一人でいけばいいのよ。
準備が終わったらしくちらちらとこちらをうかがい始めたのは言い出して10分ほど経った頃で、丁度コーヒーもいれ終わった。コーヒーの入った終夜専用カップを片手に持って台所を出た。逆の手でリビングをうろうろしていた終夜の腕を掴み無言で差し出すと「おお、コーヒーか」なんて綺麗さっぱりと忘れていたことを隠しもしない、失礼きまわりない一言だけ零されたので無言で胸に押し付けてあげた。私の反応には何も言わず「いい香りだ」とカップを傾けたのを確認した後自分のカップを取りに戻ってわたしも口にする。
こういった温かい飲み物は芯から体全体をあたためてくれるなぁと思う。特に今日のように寒い日には。このあたたかさを知ってしまったらやっぱり行きたくないと思うのが普通だろうに。どうせ終夜はなんといっても行くんだわ。
一足先に飲み終わった終夜は「玄関で待っておる」と言い残していってしまった。……やっぱり私の拒否権はないのね。いつもいつも、終夜のペースに巻き込まれてばっかりなんだから。
リビングのテーブルに置かれたままの終夜のカップと空になった自分のものをシンクの中にいれ、水に浸す。洗うのは帰ってからにしてあげよう。散歩して、帰宅して、きっとびしょ濡れだからお風呂に入って、その後。最後に手を洗い合羽がしまってあるであろう場所を目指した。そうだ、玄関にバスタオルも用意しておかないと。服もこのままでいいかな?どうせ濡れちゃうし。
そうやって準備をしているうちに楽しくなっていったのは、内緒だ。
「来たか。それでは行くぞ」
「はいはい。あ、けどその前に持ってきた合羽を着てよ。無駄じゃないかとはいわないでね」
「おぉ、さすが撫子、ありがたく着させてもらおう」
待っている間冷えてしまったのか、合羽の受け渡しの際触れた手はとても冷たかった。
「そんな遠くまではいかないわよね?というよりも何をしに行くのよ」
「目的を持たずにぶらぶら散策していくのを散歩というのではないか。目的などはない、そなたと雨の中散歩をする、というのが魅力的だったから行くのだ」
「何よ、それ」
ぶつくさいいつつも合羽を着た。髪も結んだし、もしも風邪を引くとしたら終夜のほうよ。私は絶対引かない。
よくわからない自信を持って靴を履き、私よりも数秒早く動作を終えている終夜の手を取る。お互い空いている手にも傘はない。濡れに行くようなものだとわかっている。「うむ、風が強いな」なんて当たり前じゃない!
111221