「やーひーこーくぅん?」
こそこそとリビングに入った瞬間聞こえた、腹の底から出されたような声。うわ、さっそくバレた。反射的に動いた肩とは違い恐る恐る動かした首はギギギという効果音が似合うなぁと他人事のように思う。振り返ったそこには腕を組み仁王立ちする月子だ。この光景は昨日と一昨日も見た気がする……気のせいではない。仏の顔も三度まで、今日が三回目でついに雷は落ちた。ちょ、待て、これには深いわけがあるんだ聞いてくれ!なんて効果のない言い訳を使用するも聞く耳は持たれず首にかけていたタオルを引ったくるように奪われた。摩擦が痛いだなんて今は言える空気じゃないから無言で首を押さえる。これ、どうしたら鎮まってくれんだろ。
「私がいいたいことわかってるよね?」
「た、たぶん……?」
「わかってる、よね?」
これはある意味強制なんじゃないだろうか、そんな言葉を飲み込んで頷いた。
「それなら、座って?」
首を傾けてお願い、もとい命令してくる月子は冗談抜きで可愛い。はあああこんな状況じゃなかったらぎゅーぅって抱きしめたいのになあ。聞こえない程度にぶつくさいいながら大人しく従った。正座するべきか?と思ったけどそしたらやり難いだろうと胡座をかく。俺が月子のお願いを聞かないわけないのに用心深く「待っててね!」そういってリビングから出ていった月子を適当な返事をして見送った。どうやらもう怒ってはいないらしい。
「大丈夫?熱くない?」
「へーきへーき、気持ちぃよ」
ゴオォと音を立てているドライヤーとさっきまで俺の首にいたタオルを手に楽しそうに尋ねてくる。後ろからあてられる熱風に最初はこそばゆかったけど今はただ気持ちよくって目をつむったらおちてしまいそうだ。なんとか踏ん張って返事をするも声に力が入らなかった。
どうしてこうなっているかというと最近ずっといわれ続けていたからである。「風呂上がったら絶対乾かして布団入って!」だなんて正直面倒くさい。月子曰く濡れたまま寝ると枕が濡れてダニを呼び、髪が傷み、朝は寝癖がつき、風邪を引きやすくなるらしいんだが、んなこといわれても面倒なものは面倒なのだ。こんなこといったら余計怒られそう、でも、毎日こうやって乾かしてくれないんならなあと思ってしまう。毎日なんて無理だってわかってるから結局頼まないし言うことを聞いていないのが現状。普段は乾くまで待ってから布団に入る(乾いてから寝ればOKなんだろ!と言い張って)、だけど今日は仕事がごたついたりしていつも以上に疲れててですね。こっそり布団に入ってしまおうと思った俺を見逃してもらえるはずもなく、今だ。
自分でやるのはすっごい面倒だけど月子がこんな気持ちよくやってくれるんなら今日はバレてよかったかもしれない。ラッキー。
月子の手が止まったのは始めてから5分もしない頃だった。
「うん、終わり!」
「おーあんがとなぁ」
「ふふ、眠たくなっちゃった?」
実際その通り、返事をするのも億劫なくらいには眠くなっていたから、頷く。
「乾かした方がきっと寝た時も気持ちいいよ。それに、ほら」
「――――え、」
だけど次の瞬間、月子の行動に俺のおめめはぱっちりだ。だだだだだだってそんなお前いきなり頭にか、顔、くっつけるとか……!予想外の出来事に心臓がばっくんばっくんいい出して思わず寝間着の胸ん辺りを掴んだ。背中に感じる体温がいったいなんですか。驚いた俺と、そんな俺に驚く月子。そんなぽかんとされたって!
「なななななな……っ!」
「ど、どうしたの?」
意味がわからないのか尋ねられたがそれは俺が聞きたいです。あわてふためく俺にトドメをさしたのは次の一言だった。
「いい香りがしたよ」
月子さんはいったい何を考えているんでしょうか。暴走しないようにって頭では抑えようとして、でもそんなの無駄で、勢いよく振り向いた俺はそのからだを思いっきり抱きしめた。さっきは我慢できたけどもう我慢なんかできない。心臓がやばいくらい苦しくって、俺死んじゃいそう。力加減もできなくって痛いよって言葉が耳に入るまでぎゅーぅっと抱きしめていた。少し力を抜けた時にはくすくすと笑っていたんだ。
"いい香り"だなんて、君だって同じシャンプーを使ってるんだから君からもしているんだよ。てかきっと俺よりも、絶対いい匂いだっていえる自信がある。現に肩口から仄かに香ってくるやわらかなものが俺も発しているとは思えないほどいいにおいで。別にそれに誘惑されたとかじゃなくって、決して違くって、ただただ仕返しのつもりで首にキスをしてあげた。
「わっ!くすぐったいよ」
「俺もくすぐったかったんだよ!」
情けない気がしなくもない発言をしてからもう一度触れる。二人してくすくすと笑った。あー、楽しい。それに加えて鼻先を掠める長い髪が気持ちよくってまた眠気が蘇っていた。
しばらくしてうとうとし始めていると気付いたのか背中を叩かれる。なんかいわれっかなぁと少し体を離すと、
髪も乾かしたし寝よっか。
そういわれた。
力が抜けながらも背中に回していた手を今度は繋いで同時に立ち上がる。ドライヤーとタオルを片付けなきゃいけないなぁと思って言おうとしたのに先に「もう片付けは明日でいいね」といわれてしまった。普段散らかさないの!と俺が物を出しっぱにしとくと怒るのに今日はやさしい。気を遣ってくれてんの?無言で尋ねればにこっと返される。
「ふは、あったけー」
乾いた髪も繋がる右手もその笑顔も、俺をしあわせなゆめに誘っている気がした。
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