鬼を狩る人


藤襲山に着くと、鬼の嫌う藤の花が所狭しと咲いていた。時期外れなのに狂ったように咲き乱れるその紫は麓から中腹にかけて山を囲むように植えられていて、特に紫が濃く集まった山に入る入口のような所には、既に二十人近くの人が集まっていた。どの人も自分より幾つか年上そうな年若い少年だったが、腰に差している刀が鬼殺隊入隊志願者であることを示していた。その少年達の中心に、変わった雰囲気の白髪の女性が一人だけいた。綺麗な着物を着た不思議な雰囲気のその人だけは、刀を差していなかった。

「皆様、今宵は最終選別へお集まり頂きありがとうございます」

どうやら女性は鬼殺隊の案内人のような役らしい。挨拶に続いて最終選別について短く説明をした。この藤襲山には鬼殺隊が生きて捕らえた鬼が放たれており、麓から中腹にかけて植えられた藤の花によって鬼はこの山から出られないこと。この山の中で、七日間生き抜くことが鬼殺隊入隊の合格条件だと。

「それでは、行ってらっしゃいませ」

女性のその挨拶を皮切りに、皆、山の中へ駆け出していった。この山の中で七日間生き抜く。生き抜けば、鬼殺隊入隊が認められる。兄貴分達が果たせなかった入隊が。鱗滝さんは素晴らしい育手なのだと証明出来る唯一の証拠が。逸る気持ちを抑えて、皆より遅れて駆け出した。目指すは、藤の木が植えられた麓から中腹より更に奥、山の頂上。鱗滝さんの教える水の呼吸で鬼の首を狩る為に。山の中腹を抜けて早々に鬼を見つけた。鬼に折られたのか、真ん中から真っ二つに折れた刀を呆然と見下ろす少年の真向かいに、下卑た笑い声を上げながら腕を振り下ろす化け物の姿が。人の形はしていたが、どう見ても人とは違うその姿。青黒い血管が浮き上がる土気色の顔。紅梅色の瞳。あれが鬼。恐ろしさは感じなかった。兄貴分達の、仇。肺いっぱいに息を吸い込み、大きく踏み込むと同時に抜刀した。

「弍ノ型、水車」

己の体ごと回転して斬りつけた刃は狙い通り鬼の首を切り落とし、首を失った鬼の体はボロボロと崩壊した。首を落とすとこうやって死ぬのか。鬼の体を一瞥し、呆気に囚われた様子でこちらを見る少年に視線を向けた。

「刀が無いなら山を降りた方がいい」

少年は首から力が抜けたような頷き方をした。心が折れていると分かるほど意気消沈したその姿に、岩を斬れないと嘆いた人の姿が重なって見えた。手を伸ばしかけて、遠くから聞こえてきた叫び声に歯を食いしばって駆け出した。「助けてくれ」と声が響く場所を目指して山の中を駆け回り、刃を振るった。水の呼吸が苦しくなり、振るう刃の重さに腕がちぎれそうになっても振るい続けた。生き残る為に。帰る為に。死なせてたまるか。死んでたまるか。生きて帰らねば。その思いを噛み締めるように歯を食いしばり、襲いかかってくる鬼を斬り続けた。そうやって鬼を斬り続けていくうちに、鬼に斬り掛かるより迎撃する事が増えていった。厄介な人間だと目をつけられたのだろうか。初めはそう思った。直ぐにそれは自惚れだと悟った。違う。鬼達は私の体力の消耗を感じ取っていた。倒しやすそうな人間から喰らおうとしているのだ。死んでたまるかと水の呼吸を駆使して鬼の手を、足を、胴を、首を斬り落とした。刃を振るう度に呼吸が乱れた。誰かの助けを求める声に応じて走ることすら出来なくなっていた。「助けてくれ」と声が聞こえる度に走り出したくても、動かない足を水の呼吸の型で無理矢理動かし、刃を振るう事で精一杯だった。
次第に入隊希望者の助けを呼ぶ声が聞こえなくなっていった。夜闇に紛れて噛み付こうとしてきた鬼の首を斬り落とした時、遠くの空が白んでいることに気付いた。それが夜明けの空なのだと気付いたのは、つい今しがた迄襲いかかってきた鬼達が我先にと逃げ出してからだった。背を向けて走り去る鬼達を呆然と見送りながら、本当に陽の光に弱いのだな、とぼんやり思った。鬼の後を追う気力もなかった。
日の出ている間だけが唯一体を休ませることの出来る時間だった。少しでも太陽の光が当たる日向を探し、疲弊する体を回復させようと地面に体を横たえた。気が付くと、同じように日向を探す入隊希望者が周りに集まり、同じように体を休ませていた。あと残り六日間もあると頭の中で分かっていたのに、一日目から既に体力がほとんど無くなりかけていた。
兄貴分達も、こうして己の限界に負けて倒れていったのだろうか。いや、きっと違う。どんなに疲弊していても助けを呼ぶ声に馳せ参じて刃を振るい、自分の身を呈してでも他者を守ろうとしていただろう。彼らはそういう人達だった。それに比べて自分は。自嘲しながら瞼を閉じかけた時、誰かにそっと背中を摩られた。優しい手だった。ゆるゆると首だけ振り返ると、見覚えのない入隊希望者が背中を摩ってくれていた。

「……ありがとう」
「いや、こちらこそ。さっき、助けに来てくれてありがとう。もう、駄目かと思った」

そう言って泣き出しそうな顔をする彼に首を傾げた。記憶に無い顔だが、どうやら何処かで助けていたらしい。

「体を起こせるか……?水分だけでも取った方がいい。君は一番鬼を狩っていたから、特に疲れただろう」

そう言って脇に腕を差し込み、体を起こしてくれた。甲斐甲斐しく世話を焼く兄のように水を飲ませてくれ、食べ物を分けてくれた。彼は「夕方になるまで横になっているといい」と言い、体力の消耗が激しくて動けないでいる私の体を横たわらせ、上から羽織を掛けてくれた。兄貴分達のようなその優しさに心が震え、羽織の中で少しだけ泣いた。「日が暮れ始めたら起こす」と言う彼の言葉を聞いて、緊張の糸が切れたように眠りについた。夢も見なかった。どれほど寝ていたのか。何かの音を耳にして意識が浮上した。瞼を開くと既に日は沈んでいた。慌てて飛び起きると、少し離れたところで誰かが鬼に腹を貫かれ、食われていた。食べ物を分けてくれたあの入隊希望者だった。近くにあった刀を引っ掴んで抜刀、鬼の首を斬り落としたが、食われていたその人は既に息絶えていた。歯を食いしばって泣くのを耐えた。折角回復した体力を泣くことに割きたくなかった。そんな事に割いてしまったら、名も知らないこの入隊希望者の死が無駄になると強く己を戒めて、「死にたくない」と声がする方へ駆け出した。
四日目の朝を迎える頃には、入隊希望者の数は半分程にまで減っていた。無傷の者は誰一人としていない。既に十人近くが命を散らした。助けを求める声に駆けつけられることは減ってきていた。駆けつけても、助けを呼ぶ声を発したであろう入隊希望者は既に息絶えている事が度々あった。目の前で死んでいくこともあった。残った者同士で背中を守り合いながら鬼を斬る事もあったが、気が付くと背中を守っていたはずの入隊希望者は腹から臓物を垂らして倒れていた。血と臓物の生臭い香りを嗅ぐことに慣れ過ぎて心は麻痺していたが、刀の柄を握る手に力がこもった。
生きねばならない。生きて、帰らねば。幾度も鬼の爪から転がるようにして逃れながら、鬼の首を斬り落としながら強く願った。帰りたい。あの家に。脳裏に沢山の顔が走馬灯のように駆け巡った事もあった。生きる。帰らねばいけない。あの家に。兄貴分達は凄かったのだと証明する為に。鱗滝さんの教える水の呼吸は凄いのだと他の育手に知らしめる為に。生きて。帰らねば。真菰から奪うようにして持ってきた懐の厄除の面に触れながら、家で帰りを待ってくれているだろう人達の顔を思い浮かべる事もあった。そのうちの一つの顔が「情けない」と今の自分の体たらくを厳しく評する幻聴が聞こえた気がして、唇の端が微かに上がった。

「何を笑っている?」

そう不思議そうに首を傾げたその鬼は、他の鬼と違う気配がした。その鬼は音もなく突然現れた。空間を切り裂くように突然現れた赤い亀裂のようなものから、その鬼はするりと出てきた。人のように漆黒の洋装を身に纏うその姿は、顔を見なければ人と見紛う姿だった。色白の顔に、浮かび上がる青黒い血管。ただの鬼ではないと直感が警鐘を鳴らして咄嗟に刀を構えたものの、その警鐘に戸惑った。他の鬼と何が違うのだろう。目に見えて何かが違う訳ではなかった。しかし、今まで遭遇した鬼のようにこちらへ飛び掛ってくる気配がない。ただ、観察するようにこちらを見ている。同じように鬼の事も観察した。他の鬼同様に人の形をしていると思ったが、目が違った。片方の目に何か文字が浮かんでいる。目を凝らそうとした矢先に、その目が間近に迫っていた。「下」と「陸」という文字が片目に浮かび上がっている。そう認識したと同時に脇腹に鈍い衝撃を受けて吹き飛ばされた。近くの木に叩きつけられ、肺に溜めていた息が口から漏れる。呼吸をしなければ。体勢を整えねば。立ち上がろうとした体を、上半身を抑え込むように片足で踏みつけられた。たった片足一本で、動けなくされた。懐に仕舞っている厄除の面がギシリと軋む微かな音を聞いて腹の底が冷える。このままでは面が壊れてしまう。何とかしないと。でもどうやって。パニックに陥る思考を追い立てるように、体を地面に縫い止める鬼の足からの圧力が増した。

「かはっ」
「弱いな。日輪刀を持っているから鬼狩かと思うたが、違ったか」

鬼の蔑むような眼差しがこちらを見ている。弱い。鬼の発したその言葉に思考は焼けた。手にしていた刀で上半身を踏みつける鬼の足を斬りつけるも、後ろへ飛び退いて躱された。自由になった体を跳ね起こしてその後を追いかけた。逃がさない。鬼の言葉が頭の中をグルグルと駆け巡っている。弱い。その言葉を打ち消そうと、執念にも似た思いで刃を振るった。

「拾ノ型、生生流転」

水流の気を纏った斬撃を四回食らわせたところで鬼の手を斬り落とし肩を斬り裂いたが、それだけだった。今までの鬼ならば首を斬れていた筈なのに。弱い。その文字が脳裏で点滅するのを振り払うように更に踏み込んだ。

「玖ノ型、水流飛沫──捌ノ型、滝壷」

水の呼吸で背後に周り、上から叩き斬るような斬撃を繰り出すも、鬼は忌々しそうに眉を顰めて半歩動くだけでそれを躱し、片腕を横に薙いだ。男のその腕の動きに沿うように赤い亀裂が宙に現れる──私の、足元に。硬い地面に足をつけていたはずなのに、足の裏に何も感じなくなった。まるで、宙を踏み抜いたような、妙な浮遊感が全身を襲った。ぐわっと開いた赤い亀裂に体が滑り落ちる。咄嗟に腕を伸ばしたが間に合わず、伸ばした手は虚しく宙を掻いた。視界が赤黒く染まる。

「あ、」

血の気が引く音を聞いた。見上げた先には、どんどん遠ざかっていく満月の浮かぶ夜空。あっという間に米粒程の大きさになり、赤黒い空間に呑まれるように消えた。落ちていく。赤黒い空間に。このままでは、落下死だ。浮かんだ考えにゾッとして咄嗟に刀を赤黒い空間に突き立てて落下を食い止めようとしたが、手応えがない。横に薙いでも、不安定な体勢で無理矢理水の呼吸を使っても手応えはない。落ちていく。その空間はどこもかしこも赤黒かった。下を見ても底は見えない。どこが底なのかも分からない。どうすればいいのか分からない。闇雲に全ての水の呼吸を使ったが、ただ疲れただけだった。自分はいったいどうなってしまうのだろう。このまま、この空間に囚われたままなのか。このまま。何も出来ず。いずれ見えてくる底に叩き付けられて死ぬのか。最終選別を越えられないまま。証明できないまま。死ぬのか、ここで。込み上げる絶望に思わず胸を掻くと、懐にしまっていた面が軋んだ。鱗滝さん。錆兎。義勇。真菰。皆の顔が走馬灯のように脳裏に駆け巡る。死ぬ?このまま?こんなところで?何も出来ないまま?浮かぶ疑問に心の底で何かが熱を帯びた。嫌だ。死にたくない。帰りたい。鱗滝さんの家に。あの家に。みんなの所に。証明したい。鱗滝さんは凄いんだって。駄々っ子のように込み上げてくるその思いは熱となって目を熱くし、雫となって目から溢れて上へと飛んでいく。遥か上にあるであろうこの空間の裂け目に向かって手を伸ばした。死んで、たまるか。絶対ここから抜け出してやる。何をしても。泣きながら宙で藻掻く間も、脳裏には走馬灯が流れていく。その中で、錆兎の呆れた顔が浮かんだ。


『泣くな情けない、それでも男か』


「巫山戯んな私は女だッ!!」

ブチ切れてそう怒鳴った次の瞬間、ドン、という轟音と共に全身に強い衝撃が走り、一瞬意識が遠のきかけた。とうとう底に叩きつけられたのか。飛びかけた意識でそう思ったが、耳元でゴボゴボと鈍い音が聞こえて目を見開いた。赤黒い空間はそこになかった。視界は青黒い空間に染まっている。今度は何だ。呼吸を整えようと鼻から息をしようとして、噎せた。呼吸ができない。パニックになって宙へ伸ばした手がやけに重たく感じた。違う。空間が重い。空間?いや、これは。ゴホ、と口から吐き出した息が泡となって上へ登っていく。それを目で追いかけると、上空に揺らめく淡い金色の丸い光が見えた。否、あれは上空ではない。あれは、水面だ。ならあの光は。肺に残る息をこれ以上無駄にしないように空間を、水を蹴って浮上した。そこは水の中だった。なんで、という思いよりも、早く呼吸をしなければ、という思いの方が勝った。纏う羽織が体にまとわりつき、手にしている刀も泳ぐのに邪魔だったが、離すまいと握りしめ、息が出来ない苦しさに藻掻きながら、揺らめく淡い金色の光を目指して浮上した。もうすぐ水面だ。呼吸ができる。水面に手を突き出し、続けて顔を突っ込んだ。

「げほっ」

飲み込みかけていた水を吐き出し、気管に入っていた水を咳で吐き出す。それから辺りを見回した。そこは木々に覆われた湖のようで、全く見覚えがなかった。四日間、藤襲山の中腹から山頂にかけてあちこち駆けずり回ったが、こんな場所あっただろうか。少なくとも、あの妙な鬼と戦っていた場所ではないことだけは確かだった。空を見上げると、あの空間に落下しながら見上げた空と変わらぬ星空がそこにある。水面から見上げた満月が辺りを照らしてくれるおかげで、灯りが無くとも周りがよく見えた。あれからそう時間は経っていないのか。鬼の扱う妙な技で瞬間移動でもしたのだろうか。妙な鬼への忌々しい思いから舌を打ちつつ、岸に上がれそうなところを見つけてほうほうの体で体を引きあげた。これまでにない疲労が全身を襲っていて、岸に上がると同時にその場に寝転んだ。水を吸った羽織が、服が重い。水に浸かって冷えた体から体温が抜けていくような感覚を覚えて、少しでも体温を保とうと身を縮めた。体力を、少しでも回復させなければ。今鬼に襲われれば一溜りもないだろう。度重なる鬼との戦闘や、先程の赤黒い空間で無理な体勢から水の呼吸を乱発したせいか、酷く体が重い。あの妙な鬼に吹っ飛ばされて踏みつけられた時にでも痛めたのか、脇腹も酷く痛かった。もしや、骨でも折れたか。まだ後三日間生き延びなければいけないのに。生きて、帰らねば。
痛みで朦朧とする意識を手放すまいと必死に呼吸をしていると、だんだん腹が立ってきて、こんな目に遭わせた妙な鬼への恨みが心の底でとぐろを巻いた。あの鬼、今度会ったら絶対斬る。三枚に下ろしてやる。そう息巻いていると、近くの茂みが音を立てた。鬼か。肺いっぱいに息を貯めて無理矢理体を起こしたが、脇腹が痛すぎて刀を杖代わりに地面に突き立て、片膝を付いてその場にしゃがみこむので精一杯だった。刀を構えることはおろか、立ち上がることも出来ない自分の不甲斐なさに吐き気がした。例え脇腹が痛くても、骨が折れていたとしても、刀を構えなければ。鬼を、斬らねば。生きて帰るのだ。
そんなこちらの思いを嘲笑うかのように、茂みから何かが転がり出てきた。鬼だ。上半身だけの鬼。下半身があったと思われるところから臓物が飛び出していたので、きっと誰かが仕留め損ねたのだろう。鬼はこちらに気付くなり、目を釣りあげた。

「ここにも鬼狩りがおったか……!」

鬼の言葉に思わず首を傾げた。鬼狩り、とは、鬼殺隊のことだろうか。何にせよ、刀を構えられずしゃがみこむこちらの姿を見て倒せる敵とみなしたらしい。耳を劈くような金切り声を上げて腕だけで這ってきた。

「いや、流石に舐めすぎでしょ」

思わずそうボヤきながら、片腕で刀を横に薙いだ。ずるりと鬼の頭が首から転がり落ちて、鬼の体は崩壊していく。何とかその場を凌げた事に安堵の息を吐き出し、刀を支えにして体を何とか立たせた。脇腹に走る鈍痛をいなそうと歯を食いしばりつつ、一歩を踏み出す。生き延びて帰るんだ。その思いだけで足を動かした。痛む脇腹に響かないよう歩き方に注意して、刀を杖代わりに疲弊する体に鞭を打って前に進む。せめて、藤の木の近くで休めれば。山の中腹近くに行くことが出来れば。もしかしたら、生き延びれるかもしれない。そう思いながら、一歩を踏み出した時の事だった。
後ろから、小枝を踏み折ったような小さな音がした。咄嗟に刀を構えて振り向いた先に、もうあと一歩を踏み出せば刀の切っ先が触れる程の距離に、音もなくそれは立っていた。自分より頭二つ分以上背の高いそれの顔は、普通の人間のように見えた。派手な造りではないが、端正な面持ちをしている。額に青黒く浮き出た血管はなく、焔のような痣がある。瞳の色は赤みがかった黒っぽい色をしており、豊かで柔らかそうな赤みがかった黒っぽい長い髪をポニーテールのように束ねている。耳には小さな札のような飾りを下げているが、あれはピアス、だろうか。まるで髪と瞳の色合いに合わせたように赤を基調とした羽織を身に纏っている。
そこまで観察して、驚きのあまり目を見開いた──人だ。十代後半か、二十歳ほどの青年に見えた。数少なくなった残りの入隊希望者の顔は覚えているが、この人の顔はその中にない。この人は、入隊希望者じゃない。一般人か?何故。何故ここに。いつの間に。気配がしなかった。気が動転して思考が纏まらない。
思わず切っ先を下げた瞬間、脇腹の鈍痛が響いて呻き声を上げてしまった。痛みのあまりその場に膝をつきそうになり、刀を地面に突き立てて堪える。

「怪我をしているのか」

確認の声にしてはあまりにも抑揚の無い声色だった。見上げると、静かな眼差しがこちらを観察するように見ていた。妙な人だなと思った。刀を向けられても動揺した様子もない。物静かで胆力のある人にしても、全身びしょ濡れの子供に刀を向けられれば動揺を見せそうなものだが。何にせよ、入隊希望者じゃないのならきっと山に迷い込んだ一般人だろう。疲弊し、傷を負った体でなければ男を守りながらこの夜も明かせただろうが、生憎、そこまでの余裕は無い。自分一人ならまだしも、この体たらくで一般人を守りながら移動する事は今の自分には出来そうにない。情けなくもそう思い、脇腹の痛みをこらえて笑みを浮かべた。

「そういう貴方は、迷子ですか?ここは危険ですから、すぐに山を降りた方が、ッあぁ、くそッ」

喋っている間も脇腹に激痛が走る。押寄せる激痛の波に堪えようと俯いて下唇を噛み締めていると、肩に触れられた。見上げると、静かな眼差しがこちらを見つめていた。

「肋近くの筋肉を損傷している。骨は折れていないが、動かない方がいい」
「あ、ばら……?」
「直ぐに山から降りて医者に掛かれ。近くの人里まで送ろう」

そう言って青年がこちらに背を向けてしゃがみ込んだ。おぶされと言いたいらしい。えっ。こちとらびしょ濡れなんですけど。服の水分すら絞れてないんですけど。このままおぶさっても良いんですか?貴方もびしょ濡れになること間違いないんですけど。あっいやそう事じゃない。突っ込むところが違う。困惑のあまり思考がとっ散らかっている。咄嗟に「いやいやいや、」と声を出してしまっていた。

「私はこの山から離れる訳にはいかないんです。自分のことは自分でどうにかしますから……貴方は早く山を降りてください。さっきも言いましたけど、ここは危なッぁ」

不規則に痛む脇腹のせいで会話もままならない。水を吸った羽織が夜の空気に冷やされて体温を奪っていく。思うようにならない状況に舌を打ちそうになって堪えた。例え青年の言葉の通り肋を痛めていようが、後三日間は藤襲山にいなければ鬼殺隊入隊を認められない。それだけは何がなんでもクリアしたい。そして藤襲山に迷い込んだらしいこの青年の事も助けねば。このままでは二人とも鬼の餌食になりかねない。痛むわき腹に響かないようそろりと立ち上がり、息をつく。とにかく、ゆっくり歩いてでも山の中腹を目指さねば。藤の木がある所ならば鬼も襲ってこない。そこまで青年を守り抜いて、案内人の女性のところまで送ろう。その後は体力の回復に努めないと。これからの予定をそう組み立てて青年を見ると、しゃがみ込んだままの青年は無に近い表情でこちらを見返した。……いや、私がおぶさるまでそのままでいるつもりか。おぶさらないぞ。鬼に遭遇したら戦えないし。
青年の腕をとり、刀を杖代わりにして、脇腹に響かないようにそろりそろりと歩き出す。青年はこちらの意図を汲んだのか、抵抗もなく立ち上がって私の後ろにつくようにゆっくり歩き出した。足音がしない。いったいどういう歩き方をしているんだろう。妙な青年の雰囲気に呑まれてどうでもいい事を考えてしまい、舌を打つ。あれ、私こんなに柄悪かったっけ。もう少しお上品だった筈だが。駄目だ。思考がとっ散らかっている。体だけでなく思考回路も疲弊している。ふと、青年の様子が気になって背後へチラリと視線を向けると、感情の読めない眼差しとかち合った。奇妙な人だな、と思いながらも、状況を理解していないであろう青年へ向けて口を開いた。

「ここ、人喰い鬼が出るんです。巫山戯たことを、とか思われるかもしれませんが、本当です。私が無傷であれば貴方を朝までお守りできたんですけど、この有様ですから。山の中腹付近まで送ります。すみませんが、そこからは一人で帰れますね?藤の木から離れないように山を降りてください。満月ですし、灯りがなくても道は見えると思いますから。不安でしたら麓で朝になるまで待っていてください。私は後三日間、この山にいないと」
「私もこの山に残らねばならない。鬼の気配がまだ残っている。被害が出る前に斬らねば」
「……は?」

思わず足を止めて振り返ると、青年も足を止めてこちらを見返した。相変わらず感情の読めない表情をしている。今、この人なんて言った?鬼の気配?被害が出る前に斬る?咄嗟に青年の腰元に視線を落とすと、そこには青年の纏う赤い羽織に隠れるように一振の刀が差してあった。気づかなかった自分の不甲斐なさよりも、青年が自分と同じように刀を携えていることに驚いた。腰に差した刀。もしや。

「貴方は……もしかして、鬼殺隊の方ですか?」
「……きさつたいというものは知らないが、鬼狩りをしている者だ。そういうお前は鬼狩りに属している者か?見たことの無い顔だが」

青年が小首を傾げると、耳飾りの札も小さく揺れた。鬼狩り。先程斬った鬼も口にしていた言葉だ。あの時は鬼殺隊のことかと思ったが、青年の発言を聞く限りどうやら違うらしい。鬼狩りという名前を聞く限り鬼殺隊と同じような組織なのだろうと思うが、鬼殺隊以外にも鬼を狩る組織があるなんて聞いたことがない。

「えぇっと……鬼狩り、という組織は存じませんが……鬼を狩る組織の鬼殺隊に入ろうとしている者です。今、その入隊の為の試練を受けている最中で、」

そこまで話し出したところで、突然青年の姿が掻き消えた。何が起きたのか。理解が出来なかった。呆気に捕らわれた次の瞬間、背後で短い断末魔が聞こえた。鬼か。刀を構えて振り返った先に青年の背が見えた。その先には首を失って崩壊する鬼と思しき体も。青年の手には刀が握られていて、その刀身は赤く輝いていた。ただの刀ではないという事は見るからに明らかだった。あれは、何だ。目の前の光景が理解出来ずに立ち竦む。違う。理解はしている。青年が鬼を斬ったのだ。理解が出来ないのは今起きたことでは無い。青年の方だ。青年が半身だけこちらに振り返る。赤く光る刀を手に、満月の灯りを受けて立つその静かな姿は、天から舞い降りた神の御使いのような清らかさと神々しさがあった。

「貴方は、いったい」

そう言葉が口から滑り落ちた時、背後に気配を感じた。藤襲山に来た時から感じていた禍々しい気配。鬼。背後にいる。考えるより体が動いた。肺いっぱいに息を貯め、姿勢を低くしながら振り返り際に刀を薙ぐ。振り返った先で鬼の胴体と下半身がずるりと別れた。忌々しそうな顔をした鬼の首めがけて、更に刀を滑らせる。

「壱ノ型、水面斬り」

水流を纏った斬撃が鬼の首をはね飛ばした。崩壊する鬼の体を確認し、青年へ振り返る。青年は目を僅かに見開いていた。

「その技は、」

何かを言いかけた青年の後ろに、赤く光る目を見つけた。危ない。危険を言葉で知らせるより肺を膨らませて水の呼吸を放っていた。

「玖ノ型、水流飛沫」

間に合え、と捻り出した呼吸だった。青年の脇をすり抜け、青年の背後に襲いかかろうとしていた鬼の首目掛けて刀を振り抜こうとして、切っ先がぶれた。脇腹に走った激痛で振り抜けなかった。ぶれた切っ先を掻い潜った鬼が腕を振るい、鋭い爪が脇を切り裂く。よりにもよって痛む方の脇腹を。燃える火かき棒を押し付けられているのでは、と錯覚してしまいそうな激痛が脇腹を突き抜けて、呼吸が途切れる。あと少しだったのに。口惜しい気持ちに唇を噛む。目の前で鬼が下卑た笑いを浮かべて更に腕を振り上げる。あぁ、避けられない。直感で分かった。あの爪は私を容易に切り裂くだろう。あぁ、死ぬのか。証明出来ぬまま。鱗滝さん達を置いて。兄貴分達の無念を晴らせないまま。あの世で兄貴分達に謝ろう。不甲斐ない後輩でごめんなさいと。訪れる激痛と死を覚悟して目を閉じた、その時。

「させぬ」

耳元で囁くような声と共に、暖かな体温に包まれた気がした。そして何かを斬り裂くような音。追撃する痛みはなかった。目を開くと、目の前で鬼が崩壊していた。青年は片腕で赤子を抱くように私の体を支え、空いてる片手で刀を振り抜き鬼の頭を斬り飛ばしたようだった。なんと言う膂力だ。驚いて息を呑むと、脇腹に激痛が走った。あまりの痛さに気が遠くなっていく。あぁ、気を失ってる暇はないのに。そう思っても意識を保つ手綱はちぎれてしまったようで、視覚が暗くなっていく。疲弊した体に鞭を打って水の呼吸を使い、挙句に傷を負ったのが余程体に堪えたらしい。意識を保とうと激痛に耐えている間に視界は何も見えなくなった。自分が目を開いているのかも分からない。死。鱗滝さんに拾われる前に感じた死の気配を身近に感じて身動ぎした。死ぬ訳にはいかない。家に、帰らないと。近付いてくる死から逃れようと、何かに捕まろうと手を伸ばすと、その手を誰かに掴まれた。自分より大きな手。鍛え抜かれた硬い手。暖かい、手。親に捨てられた冬の山で、頭を撫でてくれたあの優しい手。あの時の鱗滝さんの手に似ている。そう思ったら、体から力が抜けた。

「うろこ、だきさん」

暗闇の向こうで、青年が息を飲む気配がした。

「──今、医者の元へ連れていく。暫し堪えろ」

その青年の言葉を最後に、何も聞こえなくなった。
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