誰が為に振るう刃
達郎達が最終選別へ旅立って八日後に、とうとう鱗滝さんへ聞いてしまった。
最終選別とはどういうものなのか。何故達郎達を含め兄貴分達はこの家へ帰ってきてくれないのか。鱗滝さんは暫く黙り込んでいたけど、やがて話してくれた。最終選別では何をするのか。彼らが七日後に帰ってこられない訳を全て包み隠さず話してくれた。
全てを聞き終わったあと、寝床の布団に潜り込んで泣いた。兄貴分達の事を思い出して、兄貴分達が旅立って七日後に鱗滝さんが悲しそうにしている理由をやっと理解して、ただ泣くことしか出来なかった。鱗滝さんはその私の背を慰めるように撫でてくれた。鱗滝さんの手はただひたすら暖かくて優しかった。鱗滝さんの方が辛いだろうに、ただ私の背中を撫で続けた。この手の温もりに兄貴分達はもう二度と触れることが出来ないのだと思うと、兄貴分達を手に掛けたであろう見たことも無い鬼という存在が憎くて堪らなくて、でもそれ以上に、何も出来ない自分の無力さと情けさが心を蝕んだ。
涙が出なくなるまで泣いたあと、鱗滝さんが離れた隙を見計らって布団から這い出て、筆を手に取り、晴信が教えてくれたことを紙にひたすら書き記した。あの時暗記した内容は未だに忘れることがなかった。一言一句書き漏れがないよう記すと、その内容の理解に努めた。鬼殺隊隊士を目指している訳では無い。それなのに、晴信が言っていた「理解して実践に用いることが出来なかったら教えた意味がない」という言葉がどうにも頭から離れなくて、気が付いたら水の呼吸への理解を深めようと体が突き動かされていた。字に起こしたものの、どうしても理解ができないところは貯めおいて、新しくやってきた鬼殺隊隊士を目指す兄貴分達に理解するまで教えてもらった。
新しくやってきた兄貴分達も優しい人達で、分からないところを教えてくれるだけでなく水の呼吸の型まで教えてくれて、鍛錬の合間に練習も見てくれた。自分達の鍛錬で既に疲れ切っているであろうに、ろくに鍛えていない素人の私が型を再現できるまで根気強く教えてくれた。兄貴分達が最後の岩を斬る試練が達成出来ずに苦しんだ時は、達郎達が岩を斬った時の様子を思い出し、紙に書き留めていた水の呼吸のまとめを見せて手助けになれるよう協力した。晴信の教え方が素晴らしいのか、兄貴分達は驚くほど水の呼吸への理解を深めて、短時間で岩を斬れるようになった。そうして達郎達と同じように鱗滝さんとお揃いの羽織と一振の刀と厄除の面を受け取り、最終選別へ旅立った。
彼らも、帰ってこなかった。
悲しみが強すぎて心がおかしくなってしまったのか、ぼんやりと毎日を過ごすことが増えた。気が付いたら朝起きていて、ご飯の支度をしている。終わったら畑仕事をして、空いた時間で家の裏の森の中で木刀を振るって水の呼吸と型を何度も何度も繰り返し、気が付いたら日が暮れていて、夜ご飯の支度をする。ご飯を食べてる記憶が曖昧すぎて食べた気になれなかったけど、二人分の食事の後を片付けているから恐らく食べられてはいるのだと思う。そして寝床について目を閉じると、いつの間にか朝を迎えている。夢は見なかった。そんな毎日を繰り返していると、鱗滝さんに「大丈夫か」と声を掛けられたこともあった。その問いかけの意図が分からなくて首を傾げた。体調のことだろうか。それなら特に不便は感じていないので大丈夫ということになるのだろうと思い、「大丈夫です」と応えると、鱗滝さんは労わるように頭を撫でてくれた。暖かいその掌が心地好くて、「遠いところに行ってしまった兄貴分達にもこの温もりが届けばいいのになぁ」とぼんやり思うと、心が軋んだ気がした。
気が付くと次の兄貴分達がやってきていた。今までの兄貴分達と同じように優しい人達だった。何も知らなかった私のままであれば、この兄貴分達ともこれまでと変わりない共同生活を送っていたのだろう。しかし、兄貴分達が鱗滝さんを訪ねてくる理由を知ってからは、これまでと同じ日常をただ繰り返す事は許されない気がした。兄貴分達の為にもっと何か出来ないだろうか。何か、力になれるような事はないだろうか。悩んで考えて出た結論は、兄貴分達の鍛錬後の自主的な鍛錬に付き合うことだった。今までの兄貴分達が根気強く丁寧に教えてくれたおかげで、いつの間にか、水の呼吸を扱えるようになり、兄貴分達との自主練にある程度付き合える程までに体力と力は成長していた。これならば、兄貴分達の鍛錬の相手として役に立てる。自分にだって兄貴分達の為になることが出来るのだ。家で彼らの帰りを待つだけだった無力感から抜け出せたような気がして嬉しかった。兄貴分達の鍛錬に付き合っていると「鬼殺隊に入らないのか」と問われたこともあったが、鱗滝さんの顔が脳裏に浮かんできて、咄嗟に首を横に振っていた。兄貴分達の鍛錬に付き合えるようになったとはいえ、鬼殺隊隊士を目指して一日中鍛錬をしている兄貴分達に比べれば圧倒的に筋力が劣っているし、到底隊士にはなれないだろう。ただ、兄貴分達が最終選別をくぐり抜ける手助けになれればそれでいい。自分に出来ることはそれぐらいしか無いと思った。ただ、兄貴分達がこの家に帰ってきてくれればそれだけで良いのだと。
これまでの兄貴分達と同様に、彼らも晴信の教えを吸収して自分の糧とし、水の呼吸への理解を深めて岩をあっという間に斬った。鱗滝さんとお揃いの羽織と、一振の刀と、厄除の面を受け取った彼らが旅立つその夜まで、自分はきっとこの生活を続けていくのだと、そう思っていた。
しかし、兄貴分達が旅立つその日の夜、鱗滝さんは珍しく出かけていた。何でも、知人から突然の連絡を受けて行かねばならなくなったとの事だった。兄貴分達が旅立つ前までには戻ると言っていたけど、余程遠い場所へ出かけたのか、兄貴分達が家を出るその時まで帰ってこなかった。兄貴分達は「仕方ない」と笑っていたけど、少し寂しそうだった。鱗滝さんの分まで見送ろうと外まで兄貴分達を見送ると、兄貴分の一人が鱗滝さんとお揃いの羽織と一振の刀を差し出してきた。それは彼の為に鱗滝さんが準備したものだった。意図が読めなくて困惑していると、彼は眉尻を下げて笑った。
「律が練習に付き合ってくれたお陰で何とか岩は斬れたけど、俺は隠になろうと思う」
隠、と呼ばれる鬼殺隊隊士がいることをその時初めて知った。私が今まで隊士と認識していたのは鬼と戦う剣士の事で、隠とは鬼と戦うことは無いが、剣士達のサポートをする隊士のことを言うのだそうだ。
彼は剣士の才能が無いと自ら判断をして、その代わり、剣を振るう隊士のサポートをする隠となることで鬼狩りに関わると言った。鬼を直接倒すことには繋がらなくても、一人でも多くの人を鬼から救う手助けになるのなら後悔はないと彼は笑った。他の兄貴分達は予め相談されていたのか、黙って彼の判断を受け入れていた。鬼を倒す力になる為に自ら新しい道を切り開こうとする彼の意志を尊重して、差し出された羽織と刀を受け取った。隠となる兄貴分は鬼殺隊の本部へ、最終選別へ向かう兄貴分達は予定通り藤襲山へと旅立って行った。どうか、彼らが最終選別を突破できますように、と祈りながらその背中が見えなくなるまで見送っていると、腕の中にある羽織と刀が重さを増したように感じた。
今までの兄貴分達もこれを纏って藤襲山へ向かった。そして訪れた藤襲山で、最終選抜の為に集められた鬼達と戦い、生き残るために何回もこの刀を振るったのだろう。岩をも斬ったあの腕前で。それだけの腕前を持っていたのに、鬼達に。そこまで考えて、思考は霧散した。酷く心が軋んでいた。いや、今回こそ。今回こそ、兄貴分達はきっと帰ってきてくれる。今回こそ、絶対に。そう信じ込もうとして、心のどこかでぼんやりと思ってしまった。
きっと、今回"も"。
突然、腕から力が抜けた。腕にしっかりと抱えていたはずの刀がするりと落ちかけて、慌てて抱え直した。決して落とすまいと、抱き抱えるようにして慎重に家の中へ運んだ。この羽織と刀は後で鱗滝さんに説明して返しておこう。忘れないよう、そして汚さないようとりあえず床の間に運んだところで、戸の開く音が聞こえた。鱗滝さんが帰ってきたのだろうか。だとしたら、本当に惜しいタイミングだった。兄貴分達に無理を言ってでももう少し残ってもらえれば良かったな、と思いながら床の間を出ると、戸の傍に鱗滝さんが立っているのが見えた。おかえりなさい、と声をかけようとして、声が喉の奥に引っ込んだ。鱗滝さんの他にもう一人いた。鱗滝さんの隣に小さな子供が立っている。変わった毛色の髪の、片頬に大きな傷跡のある少年だった。鬼殺隊を目指す新しい兄貴分かと一瞬思ったが、それにしては体付きがあまりにも貧相だった。まるで、鱗滝さんに拾われてきた時の自分が目の前に現れたかのような。この少年は一体何者だろう。何とも言えない心地で呆然と男の子を見つめていると、私の視線に気付いた少年が睨み返してきた。気の強そうな子だ。戸惑いながら鱗滝さんに視線を向けると、鱗滝さんがその子の頭を撫でた。
「律。この子は錆兎だ」
今日からこの家に共に住む。鱗滝さんのその言葉に思わず「まじかァ」と言葉が飛び出してしまった。
錆兎は孤児だった。孤児で山の中を彷徨っていたところ、鱗滝さんの知人に保護されたらしい。しかし、手の付けられないほど暴れ回るので何とかして欲しいという連絡が鱗滝さんの元に届けられ、色々あって鱗滝さんのところで引き取ることになったようだ。
一緒に暮らし始めて僅か数日で、錆兎を保護して共に数日過ごしたという鱗滝さんの知人に同情した。錆兎はとんでもない暴れ馬だった。鱗滝さんといる時は大人しくしているのに、家に私と二人きりになると喧嘩を吹っ掛けてきた。鱗滝さんから錆兎の生い立ちを聞いていたこともあって、これは錆兎の行き場のない感情を発散させる唯一の手段なのだろうと思って兄貴分になったつもりで受け止めていたが、どんどん激しさを増してきた。流石に嫌気が差してのらりくらりと躱していたら、どうやらそれがお気に召さなかったらしい。ある日突然、拳が飛んできた。ギョッとして咄嗟に呼吸を駆使して避けると、非常に驚かれた。それ以来「アレはなんだ」としつこく付き纏ってくるようになった。喧嘩をふっかけて来なくなったのはいい事だが、流石に年下の子供相手に呼吸を使ったのが大人気ないやら情けないやらで逃げ回っていると、水の呼吸の鍛錬をしている所を見られて「俺にもそれを教えてくれ」と絡まれるようになった。隊士を目指している兄貴分達ならまだしも、自分より小さな体の子供に呼吸術を教えるのは何だか抵抗があったので、朝ご飯の支度と畑仕事を終えた後、錆兎に剣術を教えるという事で納得してもらった。
錆兎が家に来てから半年経ったある日のことだ。その日も日課になりつつある錆兎と剣術稽古という名の打ち合いをしていた。錆兎は剣の才能があるらしく、教えたことをあっという間に吸収した。錆兎の後から一人やってきた新しい兄貴分より断然に太刀筋が良かった。果敢に打ち込んでくる錆兎の木刀は今や受け流して捌くのがやっとで、反撃の隙を伺って打ち込むしか攻撃の手段がない。恐ろしい剣の才能だ。なんて奴だと呆れるやら感心するやらで複雑な気持ちになる。自分はこれまでの兄貴分達に付きっきりで教えて貰ってやっと今のレベルにいるというのに、錆兎はそもそも立つ土俵が違っていた。格が違うってまさしくこの事を言うのだろうと、ぼんやり思いながら錆兎の打ち込みを受け流し続けていると、錆兎が突然吠えた。
「律!何故攻撃してこない!」
錆兎の鋭い声と共に木刀に衝撃が走った。これまでになく鋭い打ち込みだった。危うく木刀を手放しそうになり、咄嗟に木刀の切っ先を逸らして錆兎の木刀を弾いた。錆兎が木刀越しに舌を打って距離を取る。
教えた剣術をすっかり自分のものにしているその姿を見てドン引きした。あれ、錆兎ってまだ十歳にもなってないよな。十歳にも満たない子供がしていい動きじゃないんだけどアレ。
錆兎は剣術の飲み込みが早すぎて恐ろしい。しかも、まるで実際に戦っているかのような打ち込みをしてくるので、油断していると怪我をしてしまう事もある。
これで水の呼吸も覚えだしたら怖いよなぁ、と溜息を零すと、錆兎がまた吠えた。
「戦いの最中に考え事をするな!命取りになるぞ!」
「えっあ、ごめん」
咄嗟に謝ってからふと我に返った。えっこれ私が稽古つけられてるの?なんでそんな雰囲気になってるんだ?
不思議に思いながら、斬りこんできた錆兎の木刀を思いっきり横に打ち払った。まだ筋力的には私の方が勝っているらしく、錆兎の木刀が茂みに飛んでいった。錆兎の木刀が手から離れた時点で剣術稽古は終了という取り決めを交わしているので、本日の剣術稽古はこれにて終了だ。木刀が消えた茂みの方を悔しそうに見つめる錆兎の頭を撫でようとして、振り払われた。
「また勝てなかった」
悔しそうなその声色に思わず溜め息が零れた。
「剣術始めて数週間の奴にあっという間に抜かれちゃ堪んないよ、こっちは。始めたばかりの頃より断然太刀筋もいいし、私と打ち合えるようになった時点で及第点どころか花丸満点の成績だから、そこは大人しく喜んで欲しいよ」
「そんな事で喜んでいるのは未熟な者だけだ。勝てなければ意味は無い。男に生まれたのなら勝つことに執着するべきだ」
錆兎は男という性別にやけにこだわりを持っていた。その理由は一切不明だけど、一つだけわかることはある。鱗滝さんは錆兎にとって目指すべき理想の男性像らしい。毎日兄貴分を連れて山奥へ行き、息切れもせず兄貴分をボロボロに打ち負かして帰ってくる鱗滝さんを目を輝かせて出迎えている。錆兎の憧れの気持ちは分からないでもないが、何故かその憧れをこちらにも押し付けてくるので正直困っている。事ある毎に「お前も男だろう」と怒鳴られて思わず頭を叩きそうになることも屡々だ。どこを見て男だと言っているのやら。胸か。まだ成長期なのだから仕方ないだろうこのまな板は。これでも君より幾つか年上の紛うことなき女子だぞ。何度もそう言いかけてグッと呑み込んだ。年下の子供に対して言うにはあまりにも情けない醜態だ。悔しいが、ここは年上の私が流すしかない。
そんな悔しい思いを込めて錆兎の「男なら」節に「左様で」と返して流そうとすると、それが気に触ったらしい彼から睨まれた。
「明日こそ勝つからな」
「勝たせるわけないだろ。せめて一年後にしろ」
「嫌だ。明日勝つ」
「お前のその負けず嫌い何なの?何食ってそう育つの?」
「男に生まれたなら当然の気概だ」
「左様で」
もう溜息しか出てこない。茂みの向こうに消えた木刀を錆兎と共に探し(鱗滝さんにはバレていそうだが、実はこっそり家から持ち出したものだ)、家への帰路に着く。帰り道の最中も錆兎から剣術についての質問が飛んできた。錆兎が何のために強くなろうとしているのか聞いたことないが、あまりにも真剣なその様子がこれまでの兄貴分達と重なって見えて、心が軋んだ。このまま成長すれば、錆兎も水の呼吸術を会得できるようになるだろう。そうしたら、彼はどうするだろうか。何かのきっかけで鬼殺隊のことを知ってしまったら、どうするだろうか。尊敬している鱗滝さんが鬼殺隊の最高戦力と謳われる柱と呼ばれる隊士だったと聞いたら。何となく予想がついて、心はさらに軋んだ。今は自分より小さな体も、きっと鍛えていけば自分より大きくなるだろう。岩を斬れる程の実力をつけたら、最終選別へ向かうのだろう。いつの日か、彼を見送る日が来るんだろうか。生意気な弟分の背を見送る日が。そう考えただけで、気持ちは暗い水の底へと沈んでいくようだった。錆兎が鬼殺隊の事を知る日なんて一生来なければいい、とぼんやり思っていると、足元の木の根っこに躓いて盛大に転んだ。
「……何をしている」
「転んだ」
「さっさと起きろ情けない。それでも男か」
いえ、女です。心の中で言い返しつつ、錆兎の叱咤に急かされるようにして体を起こした。しかし、どうにも立ち上がれない。四足の動物にでもなったかのように地面に手と膝を着いたまま、動けなくなった。足を挫いたわけではないし、腹を打って呼吸困難になった訳でもない。それなのに、体を起こしただけで酷く疲れた。錆兎との打ち合いで体力の消耗を相当削られたのだろうか、と首を傾げていると、袖を引かれた。振り向くと、珍しく心配そうな顔をした錆兎がいた。
「律、具合が悪いのか」
「……なんで」
「顔色が悪い」
咄嗟に自分の顔に触れてみたものの、どんな顔をしているのか分かるわけ筈もない。いつも生意気に突っかかってくる錆兎が心配する程なのだから、きっと余程酷い顔をしているのか。何とか手を地面から離して、膝立ちになる。それすらも酷く億劫に感じるほど、体が重かった。余程疲れたらしい。そんな私の様子を見兼ねたのか、錆兎が肩を貸して立ち上がらせてくれた。そのままゆっくりと歩きながら、錆兎が口を開いた。
「病か」
「違う、と思う。疲れたのかな。錆兎の剣、ほんと強くなったから」
「世辞はいらない」
「ほんとだよ。教えて数週間なのにあっという間に強くなるし。そのうち追い越されるよ、私なんて」
ポロリと零れた本音に錆兎が足を止めた。連られて足を止めると、こちらを見もせずに錆兎は言った。
「律は何の為に剣を取った 」
「え」
「律は強い。半年経っても未だに俺はまだ一本も取れない。そんなに強いくせに私なんてという言葉を使うな。弱音を吐くな。律は何の為に剣を取った。何の為にそこまで強くなろうと思ったんだ」
畳み掛けるようなその言葉は語気が荒くて、錆兎が心の底から怒っている事が窺い知れた。どうして急に怒り出したのか分からない。だが、錆兎の「何の為」という言葉が妙に頭に残った。何の為に。どうして突然そんな事を言い出したのだろう。不思議に思って錆兎を見つめていると、彼がこちらを見た。語気は荒かったが、その眼差しは驚くほど静かだった。酷く真っ直ぐな目だった。視線ですらその問いを投げかけてきているようだった。何の為に剣を取ったのか。その視線に誘われるように、脳裏に兄貴分達の顔が次々と浮かんで、暗闇へと消えていく。気が付くと、ポツリと言葉が零れ落ちていた。
「……手助けを、したかったんだよ」
鬼殺隊隊士を目指す、兄貴分達の。自分を本当の家族のように接してくれる、兄貴分達の。鱗滝さんの期待に応えようと鍛錬に打ち込む、兄貴分達の。水の呼吸の心を忘れてしまうほど懸命になって岩に挑み、岩が斬れないと嘆く、兄貴分達の。僅かでもいい。何かのきっかけになれればいい。そんな思いで兄貴分達に晴信から教えて貰った水の呼吸の心を伝えてきた。兄貴分達はその手助けを嬉しそうに受け取ってくれた。律のお陰だと喜んで旅立って行った。そして帰ってこなかった。今度こそと何回も思った。岩を斬れた兄貴分達は強かった。それでも帰ってこなかった。大好きな人達の「ただいま」が聞きたくて、その手助けをしてきた。けど、それはいつまで経っても叶わない。鱗滝さんの背は年々小さくなっていくようだった。兄貴分達が旅立ち、七日経っても誰一人帰ってこないと、無言で私の頭を撫でた。優しくて、悲しい手だった。悲しみで心がどこかおかしくなってしまった私なんかよりよっぽど強い鱗滝さんは、兄貴分達の死を真っ向から受け止めて悲しんでいた。これ以上、この優しい人が悲しむ姿を見たくないと何度も思った。錆兎が来た日に旅立って行った兄貴分達も戻ってこなかった。それ以降、藤襲山へ旅立つ兄貴分はまだ出てきていないから、彼はまだその鱗滝さんの姿を知らない。それでも、きっとそのうち、その鱗滝さんの姿を目にするようになるだろう。言葉も涙もなく、無言で悲しむ鱗滝さんの姿を。
気がついたら思考に耽っていたらしく、錆兎の視線から目を逸らすように地面を見下ろしていた。慌てて錆兎を見ると、彼は「手助け」という言葉の意図が分からなかったらしく、怪訝そうにこちらを見上げていた。その顔が面白くて、ちょっと笑ってしまった。珍しい宍色の髪を梳くように頭を撫で、微笑んだ。
「錆兎のように、強くなりたいと思う人達がいるんだ。私は、その人達の手助けがしたくて剣術を始めたんだよ」
「……今いる兄貴分のことか?」
「そうだね。今の兄貴分も、その前も。皆、目的があって強くなろうとしてるんだ」
「目的ってなんだ」
「……錆兎がもう少し大きくなったら、教えるよ。多分」
「子供扱いするな今言え」
「えー。あ、錆兎が私から一本取れたら教えるよ」
「……一本でいいんだな?」
「あっ嘘。ごめん。十本勝負にして」
「前言撤回するな情けない。それでも男か」
撫でていた手を振り払われ、錆兎が先を歩いていく。その背を追いかけるように歩き出して、そこでふと気付いた。そう言えば、今の兄貴分からまだ一回も自主鍛錬相手になって欲しいと言われたことないなぁと。いつも錆兎と打ち合っているから、声を掛けるタイミングが無いのだろうか。そうだとしたら、錆兎には申し訳ないけど暫く剣術稽古を控えた方がいいだろうか。そう考えていると、先を歩いていたはずの錆兎が少し先で足を止めていることに気付いた。家までもう目前だ。どうしたのだろう。不思議に思って声をかけようとした矢先に、それは見えた。家の前に鱗滝さんがいる。慌てて錆兎の手から木刀を奪って後ろ手で背中に隠したが、鱗滝さんはこちらを見ていなかった。傍にいる小さな少年に何やら話しかけている。見たことない少年だ。錆兎と同い年ぐらいだろうか。何故だか窶れて見えた。誰だろう、と首を傾げていると、鱗滝さんがこちらに気付いて手招きをした。素直に傍まで行くと、鱗滝さんはこう言った。
「律、錆兎。この子は冨岡義勇。今日から共に住む」
「まじかァ」
「え」
錆兎と同時に言葉を発して、思わず互いに顔を見合せた。今年は何やら拾い子が多い年だと思ってしまった。