新たに吹く風は吉か凶か
私の日輪刀が届けられた日以降、巌勝さんから日輪刀を用いた手合わせ稽古に誘われる事が増えた。
勿論、巌勝さんに勝てたことは一度もない。実力が違いすぎるので当たり前の話だが、正直、巌勝さんは私と手合わせ稽古をするより一人で鍛錬した方が巌勝さんの為になるのでは、と思ってしまうぐらいには手も足も出ない惨敗が続いている。手合わせ稽古に誘われる度に「私では巌勝さんの相手になりませんが……」と念を押すのだが、誘いを取り下げられることが無いので「目上の人に誘われたのに断ったら失礼だろう」と前世の社畜魂を発揮していつも誘いを受け、そして遠慮の欠片も感じられない程にコテンパンに打ち負かされる。十連敗くらいした頃から負けの数を数えるのを止めた。
手合わせ稽古後、巌勝さんは呼吸以外の体捌きについてアドバイスをしてくれた。アドバイスされた事で分からないことを質問すれば、私が理解するまで丁寧に教えてくれた。いつぞやは「縁壱に聞けばいい」等と素っ気なくされていたというのに、と不思議に思いつつも、折角アドバイスしてもらえるのだからと前向きに捉えて積極的に質問をし、内容の理解に努めていた。が、手合わせ稽古がほぼ日常と化してきた頃、ある事実に気付いた。
これでは巌勝さんとの手合わせ稽古ではなく、巌勝さんからの指導稽古になっているではないか、と。
巌勝さんも日の呼吸を極めようと鍛錬をされている身だというのに、巌勝さんの鍛錬の時間を割いて私の稽古に付き合わせてしまっているとはこれ如何に。それも、呼吸ですらない基礎的な体捌きについて時間を割いてしまっている。その事実に気付いた途端、申し訳なさ過ぎて頭の中が真っ白になってしまった。どうしよう。自分が至らないばかりに巌勝さんの鍛錬の時間をこれ以上割くわけにはいかない。しかし、目上の人からの誘いを断るのは失礼だろう。どうしよう。散々迷って思いついた案は「手合わせ稽古が断れぬならば、せめて質問は控えよう」だった。伝えられたアドバイスの内容が分からずとも、初めて水の呼吸を教わった時のように一言一句忘れぬよう覚え、後から理解を深めればいい。これ以上巌勝さんの手を煩わせまいと固く心に誓って質問を控えるように努めていると、どうやら巌勝さんに勘づかれたらしい。
ある日、いつも通りコテンパンに打ち負かされ、巌勝さんから告げられるアドバイスを一言一句漏らさず覚えることに努めていると、巌勝さんが静かな眼差しでこちらを見つめてこう言った。
「分からぬことがあれば、遠慮せずに聞けば良い」
まるで、質問を控えているこちらの心情を見透かしたような発言だった。驚くあまり頭の中が真っ白になってしまい、先ほどのアドバイスされた事まで吹っ飛んでしまった。何てことだ。いやそれも大事だが、それよりも巌勝さんの発言だ。質問を控えているのがバレたのか。何故バレたのだろう。そんな疑問が浮かんだが、こちらを見つめる巌勝さんの静かな眼差しはその疑問すらも見透かし、それを咎めているような鋭さもあって萎縮してしまった。
もしかして、私の今日の体捌きは一段と酷い動きだったのでは……?それも、既に指摘されている事を繰り返してしまったとか。だからバレてしまったのか。あり得るな。そう言えば、先日は間合いの取り方について注意された。アドバイスされた事は覚えているが内容を理解できず、後で紙に記して復習してみたがそれでも理解できず、有耶無耶にしてしまっていたが……もしや。
心当たりに思い至って頬が引き攣ると、巌勝さんはそんな私の様子を見て小さく溜息を零し、日輪刀を正眼に構えた。
「律、構えろ」
「は、はい!」
同じように日輪刀を構えると巌勝さんが一歩踏み込んできた。慌てて間合いについてのアドバイスを思い出す。間合いは詰めすぎてはいけなくて、でも離れすぎてもいけないから――いや、具体的にはどうすればいいんだ?困り果て、咄嗟に後退りすると巌勝さんが眉を顰めた。
「何故後退りした」
咎めるようなその声音を耳にした途端、自分がアドバイスされた事とは真逆の事をしてしまったのだと気付いた。しまった、と思った時には既に遅く、瞬く合間に巌勝さんが肉薄し、紫の刃が喉元に添えられていて心底ゾッとした。実践だったら死んでいる。恐る恐る巌勝さんを見上げると、眉を顰めた険しい表情に見下ろされていた。
「間合いの取り方は先日伝えたばかりだが」
「す、みません」
おこ、られている。萎縮して咄嗟に謝罪の言葉を口にすると、巌勝さんはピクリと片眉を震わせ、小さく吐息を吐きながら刀を引き下げた。
「分からぬことをそのままにしていると一瞬の判断にも影響を及ぼし、判断を誤ると今のように敗北に繋がる」
「は、い」
やはり、質問を控えていたのがバレているらしい。しかも、同じことを指摘されて怒られるとは自分が不甲斐ないやら情けないやら。分からないことは今のうちに聞けという巌勝さんの気遣いは察したものの、しかし、これ以上巌勝さんの鍛錬の時間を割くのは申し訳ないという思いの方が勝ってしまい、どうしたものかと何も聞けずに途方に暮れていると、巌勝さんは以前アドバイスしてくれた間合いの取り方について全く同じ内容で教えてくれた。何も聞けないでいるこちらの心情を察してくれたのだろうか。それだけでも申し訳ないというのに、私がアドバイスされた事を理解出来ているか、復習の確認までしてくれた。至れり尽くせりの指導ではあるが、その分、巌勝さんの鍛錬時間を更に削ってしまったという事実に頭を抱えたくなった。巌勝さんの鍛錬時間を割くまいと思ってした事が裏目に出てしまうとは。申し訳なさ過ぎて、アドバイスされた間合いの取り方を必死に復習しているうちに日が暮れてしまった。巌勝さんがずっと付きっ切りで復習に付き合ってくれた事もあってどうにか間合いの取り方は理解できたが、巌勝さんの鍛錬時間をその分無駄に消費させてしまったという後悔は重く心にのしかかってきて、就寝する時も気になりすぎてなかなか寝付けない程だった。
律儀な巌勝さんの事だ。恐らく明日以降の手合わせ稽古の後も復習時間を設けるだろう。私が基礎的な動きもまともにできないばかりに、と思った途端、胸が締め付けられて鼻がツンと滲みた。何だか、ここ最近泣いてばかりだ。兄貴分の刀を折られた時といい、打ち直してもらった日輪刀を見た時といい、自分に水の呼吸の適性が無いのだと打ちのめされた時といい。泣いた時の記憶を振り返っているだけで気が滅入り、止めと言わんばかりに脳裏に藤紫の刀身が過った。
水の呼吸の適性を示さなかった、私の日輪刀。自らが振るう呼吸の型と違う適性を示す日輪刀で型を振るうと威力は落ちるのだと、後で縁壱さんから聞いた話も思い出してすっかり気分はどん底に落ちた。私の日輪刀は水の呼吸の適性を示さなかったどころか、「水の呼吸の適性が無いのだから大人しく自分に合った呼吸法を見つけろ」と分かりやすく教えてくれているようだと皮肉交じりに理解したその事実を思い出し、こめかみが軋むように痛んだ。
例え適性が無くとも、ここで水の呼吸を諦めたら鱗滝さんの教える水の呼吸は凄いのだという証明を果たす事が出来なくなってしまう。鱗滝さんの不名誉な噂を晴らす事も。水の呼吸で最終選別を突破しないと意味が無いのだ。兄貴分達ができなったことを、兄貴分達から剣を教わった自分が晴らさなければ。それはきっと兄貴分達の無念を晴らす事にも繋がる筈だから。諦めてはいけない。自分と同じように、望んだ呼吸の適性が無くとも未だに鍛錬を欠かさない巌勝さんにも「諦めるな」と言われたではないか。あの時の巌勝さんの言葉を、鋭い眼差しを思い出しただけで心が震えて視界が滲んだ。不甲斐ない自分への腹立たしさと、思うように先へ進めない事の悔しさと、巌勝さんに諦めるなと励まされた嬉しさが綯い交ぜとなり、雫となって眦から溢れたそれを寝間着の袖で拭い、昂った神経を宥めようと深呼吸した。
諦めるな、と巌勝さんの言葉を自分に言い聞かせるように呟き、心を奮い立たせる。諦めなければ、終わりではない。いつかは水の呼吸を極められる。居場所の分からない鱗滝さんの家と藤襲山を産屋敷さんと水柱さんも探してくれている。それらの場所が見つかったら最終選別に挑み、七日間を生き抜いてあの家へ、鱗滝さんの下へ戻るのだ。
その為にも、巌勝さんから告げられる体捌きのアドバイスを体に刻み込んで覚えなければ。水の呼吸を極める前に基礎的なところから自分を鍛えなければ極められるものも極められないだろう。それでなくとも同じことを二回も教えてもらってしまうぐらいには情けない実力なのだから。それに、いつまでも巌勝さんに迷惑を掛けられない。明日こそは同じ失敗を繰り返さないようにしなければ。そう固く決心して、明日に備えて寝ようと瞼を閉じた。
しかし、泣いたことで昂ってしまった神経は簡単に静まってくれないらしい。一向に眠れなかった。それどころか、こうやって体を休めている時間も惜しいとうっかり思ってしまったら、すっかり意識が冴えてしまった。いや、寝ないと昼間の鍛錬の疲れが取れないぞ、といくら固く目を閉じても意識は一向に眠りに落ちない。体のあちこちが筋肉痛に襲われて疲れているのに。
困り果て、とうとう体を起こした。体を動かしたら疲労が増して少しは眠れるだろうか、と思いつくままに音を立てないよう細心の注意を払いながら水の呼吸の型を一通りゆっくりとなぞって体を動かしたが、どうにも睡魔はやってこない。ならば、巌勝さんにアドバイスされた間合いの取り方の復習でもしようと全集中の呼吸を交えて体を動かしていると、思いのほか熱中してしまったらしい。気が付いた時には障子が朝日の日差しを受けてじんわりと明るくなっていた。
結局、一睡もできずにいつもより早めに朝ご飯の支度をする羽目になった。幸いと言っていいのか、妙な倦怠感はあるものの隈は出来ていないようで、起きてきた縁壱さんに不思議そうに見つめられたものの特に突っ込まれず、巌勝さんにも指摘されないまま手合わせ稽古が始まったので胸を撫でおろした。
手合わせ稽古は相変わらず容赦無く叩きのめされたので眠気を覚える暇も無かったが、どうやら夜を通して間合いの取り方の復習をした成果はあったらしい。手合わせ稽古後、巌勝さんから同じ過ちの指摘をされるどころか、「間合いの取り方が良くなっている」と褒められた。
……えっ。
ほめ、られたんだが。あの巌勝さんに。褒められた。初めて巌勝さんに褒められたんだが。巌勝さんと手合わせ稽古をするようになってから褒められるのは初めてだ。突然の出来事に全身は硬直し、徹夜で脳が少しおかしくなっているのか、パニックのあまり夢を見ているようなふわふわとした心地でその後の時間を過ごし、気がつけば自分の部屋で布団に横になっていた。どうやらもう夜らしく、辺りはすっかり暗くなっていた。記憶が朧気だが、腹も満たされているようなので恐らく普通に稽古を終えて晩御飯も終えたのだろう。記憶は曖昧だが。それほどまでに巌勝さんに褒められた事に対して衝撃を受けていたらしい、と漸くまともに思考できるようになった脳で現状を理解し、改めて巌勝さんに褒められたという事実を噛み締めた。初めて手合わせをした時にあれこれと観察されて攻撃を受ける際の手首の柔らかさ等褒められた事もあったが、教えられた内容で動きが良くなっていると褒められたのは初めてだった。前日とは違う理由で目が冴えて全く寝付けず、流石に連続の徹夜はまずいと睡魔を呼び起こそうと体を動かしたり瞑想したり水の呼吸の型をゆっくりなぞったりしてみたが、結局そのまま朝日を迎えてしまい頭を抱えた。
妙な倦怠感は昨日より酷くなっていた。思考も昨日より遅くなっている気がする。というより、脳が鈍い痛みを訴えて思考が散らばり気味だ。さすがにその不調が少し顔に出ていたのか、起きてきた縁壱さんに何か言いたそうに見つめられたが、気付かぬふりをしてご飯をよそった茶碗を押し付けた。幸いなことに巌勝さんには何も突っ込まれず、そのまま鍛錬となった。不調と言っても妙な倦怠感があって頭が痛いくらいだ。いつも通りコテンパンに負ける鍛錬をしていれば睡魔もやってこまいと高をくくって手合わせ稽古を始めたが、体が変だと気付いたのは稽古を始めて直ぐだった。指先まで力が入らず、握っている日輪刀が酷く重いものに感じる。思うように水の呼吸の型が振るえない。巌勝さんの太刀筋がほとんど目で追えない。ほぼ残像だ。呼吸の型ですらない斬撃すらも追えず、額から冷や汗が流れた。流石にこれはやばい。考える間もなく後ろへ跳んで距離を空けたが、瞬く合間に刃が目前に迫っていた。体力の減りが大きいからと避けていた攻撃の受け流しを咄嗟にしたものの受け止めきれず、吹き飛ばされて受け身を取れないまま地面に転がった。
流石に巌勝さんも異変に気付いたようで、訝しげな表情でこちらを見つめているのが見えて慌てて体を起こそうとしたが、手足に力が入らずその場にべちゃりと崩れ落ちた。体が、思うように動かない。視界がグニャグニャと歪んでいる。何だ。自分の体はどうしてしまったのだろう。全集中の呼吸も、出来ない。パニックになりながらどうにか起き上がろうともがいていると、誰かに抱き起された。巌勝さんかと思って全身が硬直したが、見上げた顔は巌勝さんにそっくりなものの、額に痣があった。どうやら縁壱さんに抱き起されているらしい。え。何で。パニックになって視線を泳がせていると、視界の隅で巌勝さんが驚いたように目を見開いているのが見え、咄嗟にそちらに顔を向けようとしたところで、聞いたことのないような低い声が降ってきた。
「律」
驚きすぎて全身がビクリと跳ねた。何故だか、蛇に睨まれた蛙、いや、肉食獣を目前にした時の草食動物のような気分になった。動いたら殺される。そんな心地だ。ライオンに睨まれたときのヤックルってこんな気持ちなのか。あれ、ライオンとかヤックルって何。前世の記憶の中の言葉か。思い出せない。いやそんなことよりも。声を発した人物に恐る恐る視線を戻すと、声の主は相変わらず無に等しい表情をしていた。普段通りと言ってもいい。それでも、先ほどの震え上がるような低い声の主だと思うと恐ろしく感じた。よく見れば、表情は普段通りでも纏う雰囲気が殺伐としていると言っても過言ではない程に冷え切っていた。もしかして、怒っている……?そう推察すると同時に、低い声で「律」と再び名前を呼ばれた。
「ひゃ、ひゃい……」
縁壱さんが恐ろしすぎて声がか細くなり、あろうことか噛んでしまった。何だ「ひゃい」って。あほ過ぎる。返事すらまともに出来ないのか。内心で自分の発言に突っ込んでいると、突然、縁壱さんに頭を撫でられた。また子ども扱いされている、と反抗心が沸き起こるよりも前に、その手の温もりに呼び起こされる記憶があった。温かい、掌。両親に雪山で置き去りにされ、死にかけていた時に助けてくれた鱗滝さんの手と、同じ。そう思った途端、全身から力が抜けた。駄目だ。このままでは起き上がれない。巌勝さんとの稽古中なのに、と慌てて全身に力を込めようとしたところで、縁壱さんの手が私の目を隠すように覆った。大きな、温かい手。あの時の鱗滝さんの手のようだ、とぼんやりと思った途端、意識が闇に蝕まれ始めた。それが強すぎる睡魔だと気付いた時には、半ば眠りかけていた。よりにもよって何故今睡魔がやってくるんだとその睡魔に抗おうと身動ぎすると、先ほどよりも柔らかな響きの低い声が遠くで聞こえた。
「律、休め」
いや、寝ちゃ駄目なんだって。巌勝さんとの稽古中なのに。そう反論しようとしたが、「いやだ」という子供の駄々のような発言をどうにか絞り出したところで意識は途切れてしまった。
眠りに落ちる寸前に懐かしい記憶を思い出したせいなのか、夢の内容は鱗滝さんに拾われた時の事ばかりを見た。
両親に捨てられた雪山で鱗滝さんに拾われ、労わるように頬を撫でられた時の事。頭を撫でられた時の感覚は本当に夢かと疑ってしまう程に生々しく、鱗滝さんの懐かしい温かな掌が嬉しくて恋しくて、あの時とは違う理由で泣いてしまった。流れる涙を拭う親指の温もりも生々しくて、その懐かしい温もりに心が軋んだ。まるで過去に戻ったようだと思わずその手に頬を摺り寄せてしまうと、夢の中の鱗滝さんは一瞬驚いたように手を止めたが、ぎこちない動きで頬を撫でてくれた。あれ、鱗滝さんこんなことしてくれたっけ、とぼんやり不思議に思ったが、どうせ夢なのだと思えばどうでもよくなった。ただその優しい温かな手を享受していたかった。欲を言えば、夢ではなく現実にこの手の温もりを感じたいところだが。そんな思いが込み上げてきて、思わず「必ず帰ります」と鱗滝さんに伝えると、鱗滝さんは待っていると言わんばかりに頭を撫でてくれた。温かな掌だ。あの時と何も変わらない、大きく温かで、優しい手。私はこの手に救われたのだと、その温もりを噛みしめて目を瞬かせた次の瞬間、見上げていた鱗滝さんの顔は違う人の顔になっていた。若い男性の顔だ。凛々しく端正な面立ちのその顔はこちらを慈しむような眼差しで見下ろし、私の頭を撫でてくれていた。あれ、鱗滝さんじゃない。見覚えがあるような気がするが、誰だこの人。不思議に思って首を傾げた。
「うろこだきさんは……?」
雪山で捨てられた時の幼い子供の時の感覚から抜け切れず、幼い子供のように問いかけると、男性は驚いたように微かに目を見開き、私の頭を撫でていた手を引っ込めた。問いかけに答えようとしてくれているのか、男性が「うろこだき、殿は」とそこまで発言して視線が揺らぎ、言い淀むように口を閉じたその時、微かな音と共に視界の隅から眩しい光が差し込んできた。驚いてそちらへ顔を向けると、そこには眩しい光を背に誰かが立っていた。逆光で顔が見えないが、相当背の高い人物らしい。その人物はこちらを見ているらしく、声を掛けてきた。
「目が覚めたか、律」
聞き覚えのある声だ、と思った矢先に、人物がこちらへ進み出て、後ろ手で障子を閉めた……障子?あれ、雪山で鱗滝さんに抱っこされていたと思ったのだが、気が付けばどこかの和室に場所が移っていて、自分は布団に寝かされていた。鱗滝さんはどこに行ってしまったのだろう、と辺りを見回していると、部屋に入ってきた人物が若い男性の隣に座した。そこで人物の顔が見えて驚いた。人物の顔は若い男性に驚くほどそっくりだった。違うところと言えば、人物の髪や瞳の色が赤みを帯びていて、額に痣があることぐらいか。双子だろうか。若い男性に見覚えがあったせいか、こちらの人物にも何やら見覚えがあるような気もするが、気のせいだろうか。しかし、自分が出会ってきた人達は親兄弟を除けば鱗滝さんや兄貴分達くらいなものだが。兄貴分達にこんな双子のような人達は居なかったと思うが、と不思議に思いながら、その人物にも同じ問い掛けをした。
「うろこだきさんどこ……?」
問われた人物は無に等しい表情で隣の男性を見た。男性も困っているように眉間に微かに皺を寄せてその顔を見つめ返した。顔立ちはそっくりだが、浮かべる表情の違いが二人の個性を表しているようで見ていて面白かった。双子でも表情一つでこんなに違うんだなぁ。まるであの二人のようだ、とそこまでぼんやり思って思考は固まった。あの二人。あの、二人……?その言葉に既視感のようなものを抱いた途端、脳裏にこれまでの記憶が駆け巡った。全てを思い出し、目の前の二人の人物が誰なのか思い出した途端、顔から血の気が引いていった。夢にしてはあまりにもリアル過ぎる感覚だった。まさか。いや、そんなまさか。現状について一つの仮説を立てた私はその仮説を否定したい思いで自分の頬を全力で叩いた。パン、と部屋に高らかに響いた甲高い音に目前の二人は飛び上がってこちらを驚いたように見下ろしてきたが、そんなことよりも頬に走る痛みに私は打ちのめされていた。
「ゆめ、じゃない」
目の前の光景が現実であるという仮説が頬の痛みという証拠を下に立証されてしまった。咄嗟にもぞもぞと布団の中で寝返りをうってうつ伏せになり、寝ぼけて巌勝さんと縁壱さんに話しかけてしまったという恥ずかしさで熱くなる顔を敷布団に埋め、込み上げてくる衝動のままに呻き声を上げた。
「ぅうあああぁぁぁぁ」
「……律?」
「き、気分が優れないのか……?」
狼狽えたような二人の声と共に背中を撫でられたが、これはどちらの手だろう。いやそんなことはどうでもいい。むしろその優しさが痛い。夢の中だと思って子供みたいに「鱗滝さんはどこ」だなんて聞いてしまった。寝ぼけて二人に聞いてしまった。普段から子ども扱いしないでくださいとか言ってたくせにやってしまった。顔から火が噴き出ているのではないかと思うくらいに羞恥で顔が熱かった。いや全身と言ってもいい。とにかく熱かった。
「忘れてくださいお願いです忘れてください本当にあのすみませんさっきのことは忘れてください私何も言ってないって言ってくださいえ待って私アレ以外に何か言ってましたいややっぱりいいです言わないでいいですお願いだから何も言ってないって言ってくださいお願いしますすみません記憶から抹消してくださいお願いしますうああぁぁぁぁ……!」
猛烈に恥ずかしい。寝ぼけて声を掛けてしまうなんて。それも子供みたいに。鱗滝さんを恋しがって居場所を尋ねるなんて。いやそれどころか鍛錬の最中で寝落ちするところから既にどうしようもない。何だこの居たたまれなさ。巌勝さんとの手合わせ稽古の最中だったのに。これ以上巌勝さんの稽古時間減らして堪るかと覚悟していた矢先に何を仕出かしているんだ私は。というか、あれから何時間経ったのだろう。もしかして一日経っているのでは。その思考に至った瞬間、慌てて布団から転がり出て二人に土下座した。
「巌勝さん縁壱さん鍛錬中に寝てしまってすみませんあのあれから何時間経ちましたか!?」
「じかん……?」
不思議そうな声色の巌勝さんの言葉にハッとした。そう言えばここに来てから時間の単位がおかしいのだった。えっと、確か何時間という時間の流れの単位が通じない代わりに、二時間くらいを一刻という単位で表しているのだったか。住む場所で時の単位が違うとはとんでもない未来に転生したものだ。いやそんなこと今はどうでもいい。
「すみません間違えましたあれから何刻経ってますか!?」
顔を上げて慌てて言い直すと、巌勝さんと縁壱さんは二人して顔を見合わせ、同時にこちらを見た。
「一刻も経っておらぬ」
真面目な表情でそう返してくれたのは巌勝さんだった。一刻も経っていない、つまり二時間は経っていないが既に一時間は無駄にしてしまったということか。その事実に気付いて呆然としかけ、慌てて自分の頬を叩いて気を引き締めた。呆然としている場合じゃない。一時間以上も寝たおかげなのか思考はすっきりとしているし、手足にも力が入る。先ほどの情けない失態を見せた挙句に鍛錬の時間を更に割いてしまった巌勝さんに謝罪して、そして恐らく部屋まで運んでくれたであろう縁壱さんにも謝罪して、それから遅れた分の鍛錬を再開しなければ。そう意気込んで巌勝さんの方に土下座しようとした矢先、縁壱さんに抱え込まれて布団に戻され、思わず真顔になった。
「え」
「全身の膂力が完全に癒えていない。今日一日、体を横たえて休め」
「いや、あの、そんな、まだお昼、」
体を起こそうとしたが、縁壱さんの寝かしつける力の方が遥かに強く起き上がれなかった。縁壱さんに寝かしつけられるの何度目だろうか、と諦めて遠くを見つめてしまいそうになり、慌てて思考を巡らせた。
一時間過ぎた程度の睡眠で体は休められていないという縁壱さんの言いたい事も勿論理解できるのだが、基本的な動きが出来ていない自分が休むわけにはいかない。どうにかして鍛錬をできないだろうか。休めば休んだ分だけ体の筋力は衰え、どんどん水の呼吸の威力が落ちていきそうで恐ろしいのだ。日輪刀が変わっただけで威力が落ちているとはっきり認識できる程の実力でしかないのに、これ以上威力が落ちてしまったら最終選別に挑むどころか、鱗滝さんが兄貴分達に課していた岩を斬る試練すらできないだろう。そんな今の状況で最終選別に挑んだら一日も持たずに鬼に食われてしまう光景が目に浮かぶようだ。そうなってしまったら鱗滝さんの不名誉な噂を晴らすなど夢のまた夢の話になってしまう。それだけは何としても避けたい。鱗滝さんの家と藤襲山が見つかる前に、最低ラインとして水の呼吸の威力を元に戻さなければ。元の威力にどうにか戻せれば、最終選別を生き残れる勝算はまだある。前回だって四日目の夜迄は生き抜いた。あの奇妙な鬼に出会うまで、ボロボロだったがまだ戦えていた。目に文字の刻まれたあの鬼と、出会うまでは。そう思ったら、あの奇妙な鬼への憎悪がムクムクと沸き起こり、現状の自分の不甲斐なさを嘆く情けなさをも飲み込んだ。あの時の口惜しさを考えるだけで腸が煮えくり返るような激しい怒りが燃え上がり、その怒りに焚き付けられた神経が昂り、ますます寝る気は失せて目が冴えた。あの鬼、今度会ったら絶対首を斬る。あいつに会わなければこんな目に遭わずに済んだのに。よくもこんな目に遭わせやがって。気が付けば「いかにして鍛錬を再開するか」よりも「こんな目に遭わせた鬼へ如何にして復讐するか」という思考に脱線していた。寝不足で思考がとっ散らかっているらしい。これはいけない、と漸く冷静に戻れた頃には、困惑気味な表情を浮かべる巌勝さんと縁壱さんの顔が(と言っても、縁壱さんに関しては纏う雰囲気が困惑しているように見えただけでいつも通りの無表情だったが)仲良く並んでこちらを見下ろしていた。
「一瞬殺気立っていたようだが、まことに眠くないのか」
疲労で倒れたのだろう、と巌勝さんにそう問いかけられて、あの奇妙な鬼への殺意がそんなに分かりやすく漏れていたのか、と思わず真顔で頷きかけたが何とか堪えた。いや、ここで頷くと疲れていると認めているように取られて誤解される。そうなったらますます鍛錬させて貰えないだろうが。
「いえ、あの、本当に大丈夫なんです。眠くないですし、さっき寝てしまった時に疲労も取れたようなので。あの、巌勝さんの貴重な鍛錬の時間を更に割いてしまって本当にすみませんでした。今後二度とあんなことが無いようにしますので、もう一度鍛錬をつけて頂けないでしょうか。どうかお願いします」
ほぼ懇願に等しい頼み方で巌勝さんを見上げると、巌勝さんは驚いたように目を見張った。しかし、縁壱さんが「兄上」と呼ぶと、ハッとしたように息を呑んで視線を逸らされた。やはり駄目なのだろうか。巌勝さんにも今日一日寝ていろと言われたらもうどうしようもない。また時間を無駄にしてしまうのか。いや、諦めてはいけない。寝ていろと言われても隙をついて二人に見つからないように裏庭で鍛錬すれば、等と巌勝さんに断られた時のことをシミュレーションしていると、まるでその思考を見透かしたかのように巌勝さんが小さく溜息を吐いた。
「……縁壱。私が休めと言っても律は聞かぬ」
「え」
まるでこちらの思考を読んでいるかのような言いっぷりに思わず声を上げてしまうと、巌勝さんに呆れたように見下ろされた。
「顔を見れば分かる。私と縁壱が休めと言っても隙を見て布団から抜け出す算段をしているだろう」
「えっいや、そんな事は」
完全に見抜かれている。そんなに分かりやすく顔に出ていただろうか。慌てて表情を取り繕ったつもりだが、巌勝さんは呆れたように溜息を零した。
「今更表情を取り繕うても遅い」
「兄上、ならば私が見張って、」
「縁壱、お前もお前だ。お前は律に過干渉が過ぎる。律も十四になるのだ。私達より年は下でも元服している年だぞ。一人の大人として接せねばならぬ。何度もそう言っているだろう」
思わぬところで怒られたことに驚いたのか、縁壱さんは僅かに目を見張った。直ぐに無に等しい表情に戻ったものの、申し訳なさそうに微かに俯いて「申し訳ございません」と素直に謝罪する縁壱さんはまるで小さな子供のようだった。というか、元服ってなんだろうか。いやそれよりも縁壱さん何度も怒られてるのか。私の知る限りでは縁壱さんからの子ども扱いを巌勝さんに愚痴ってしまって「暫く離れろ」と諫めてくれた時の一回ぐらいしか記憶にないんだが。私の知らないところでそんなに巌勝さんに怒られていたのか縁壱さん。まぁ確かに、以前よりは子ども扱いがマシになっているのでこれは巌勝さんの説教の賜物なのかもしれない。それでも未だに子ども扱いされているのでもはや諦めというか、慣れてきている節はあるのだが。案外縁壱さんも聞かん坊なところがあるようだ、等と縁壱さんの意外な内面に驚いていると、巌勝さんが再び小さく溜息を零した。
「諫めても聞かぬならば、最初から目の届くところで鍛錬を見ていたほうが良い」
「えっ」
聞こえた言葉に弾かれたように巌勝さんを見ると、静かな眼差しとかち合った。
「兄上、」
「瞑想ぐらいは許してやれ」
「えっ瞑想……」
思っていたような鍛錬内容じゃなくて思わず落胆を隠しきれずにいると、巌勝さんから咎める様な鋭い眼差しを向けられた。
「精神を鍛えるのに最も適している鍛錬だ。剣は己の内面を映し出す鏡。内面が鍛えられていない者の振るう刃等、鬼どころか人相手にも届かぬ。侮るな」
「す、すみません」
また巌勝さんに怒られてしまった、と萎縮してしまったものの、確かに巌勝さんの言う事にも一理あった。特に、水の呼吸は日輪刀を振るう時の心構えが重要だと兄貴分達にも教わっていた。何者にも乱されぬ水鏡のように、静かに穏やかな心で刀を振るう。思えば、手酷い傷を負う戦いではその心を忘れて焦りで刀を振るっていた。戦いですらない鍛錬の時間ですら。日輪刀が変わってから特にそうだ。水の呼吸の威力は著しく落ちてしまっているのは日輪刀が変わったからというだけではなく、そういう心持ちだったからという事も関係ありそうだ。そう思うと、瞑想という鍛錬にがっかりしてしまった自分の心の持ちようが情けなくて仕方なかった。こんな自分だからこそ、今最も必要な鍛錬は内面を鍛えるところからなのかもしれない。
体を起こして居住まいを正し、巌勝さんと縁壱さんに向けて頭を下げた。
「失礼な事を言ってしまい、申し訳ありませんでした。瞑想、やらせてください。お願いします」
暫し、その場に沈黙が満ちた。巌勝さんは瞑想ならば良いだろうと許可にも近い事を言ってくれたが、問題は縁壱さんだ。頭を下げながら、祈るような気持ちで縁壱さんの言葉を待っていると、誰かの小さな吐息が聞こえた気がした。
「――瞑想だけだ」
その声が縁壱さんのものだと理解した瞬間、咄嗟に顔を上げてしまっていた。縁壱さんは相変わらず無に等しい表情だったが、こちらを気遣うような優しい眼差しを向けてくれていた。許可してもらえたのだ。咄嗟に御礼の言葉を述べそうになったのだが、その前に再び縁壱さんが口を開いた。
「ただし、私も見ている」
「えっ」
「人目が無いと律は無茶をする」
「いっいや、そんなことは決して……瞑想ですし、体も動かしませんし」
「瞑想でも己を追い詰めそうなのが律だ。誰かが見ていなければ危うい」
要するに、信用が無いらしい。暗にそう告げる縁壱さんの言葉にショックを受けていないと言えば嘘になるが、強ち否定できない自分もいてぐうの音も出なかった。確かに、日頃の鍛錬でも水の呼吸の威力を取り戻そうと焦るばかり無茶をしがちではある。しかし、瞑想から何がどうなって自分を追い詰めるまでに至るというのだろう。そんなことあり得るのか。瞑想だぞ。反論しようとして口を開きかけたものの、ここで反抗的な態度を取ったら縁壱さんから下りた許可が取り消されてしまいそうで、反抗的な言葉を必死に飲み込むようにして頷いた。
「わ、分かりました。よろしくお願いします」
縁壱さんは漸く満足そうに頷いた。巌勝さんは何か言いたそうに縁壱さんを見ていたが、言葉にすることを諦めたらしい。小さく溜息を零しただけだった。恐らく、「だから構いすぎだと言っているだろう」とでも言いたかったのだろう。諦めて言葉にしなかったあたり、巌勝さんも縁壱さんの構いすぎを諦めている節があるようだ。諦めないでほしかったというのが本音だが、巌勝さんばかりに無理を強いるのも酷な話だ。私も縁壱さんからの子ども扱いに対する忍耐を鍛えなければ、と内心覚悟を決めつつ、縁壱さんからの「縁側で瞑想しよう」という提案に乗って縁側に出た。
外はまだ明るく、太陽もほぼ真上にあった。これならば幾らでも瞑想の時間がありそうだ、と思いながら縁側で胡坐を掻くと、少し間を空けて隣に縁壱さんが座った。どうやらそこで私を見張るつもりらしい。てっきり部屋の中からでも見守るのかと勝手に想像していたので驚いて二度見したが、縁壱さんは気にも留めなかったようだ。「瞑想しないのか?」とでも言いたげに小首を傾げて見つめ返されたので諦めて前を向いた。
深く深呼吸し、いざ瞑想を始めようと目を閉じかけた矢先のことだ。縁壱さんとは逆隣から縁側の床が軋む音が聞こえ、人の気配がした。咄嗟にそちらへ視線を向けると、そこには少し間を空けて私と同じように胡坐を掻く巌勝さんがいた。縁壱さんが驚いたように「兄上、」と声を掛けると、巌勝さんの静かな眼差しがこちらを向いた。
「共に瞑想するだけだ。気にするな」
それだけ言って、巌勝さんは前を向いて目を閉じた。早速瞑想に入ったらしい。何故巌勝さんも瞑想するのだろう、と不思議にも思ったものの、それが巌勝さんの気遣いだと気付くのにそう時間は掛からなかった。縁側は鍛錬で主に使用する中庭に面している。中庭で鍛錬をしたら瞑想している私の気が散るだろうと遠慮してくれたようだ。また巌勝さんの貴重な鍛錬の時間を割いてしまった、と申し訳なく思っていると、目を閉じた巌勝さんが再び口を開いた。
「隣にいては集中できぬか?」
「いっいえ、そんな事は……!」
慌てて前を向き、目を閉じて深呼吸した。巌勝さんの瞑想を邪魔してはいけない、と内心で自分にきつく言い聞かせ、心を静かに保てるよう集中し、兄貴分達との瞑想の時間を思い出す。
瞑想を教えてくれた兄貴分の一人は瞑想を「無心で行うことが理想だ」と言っていたが、それが出来ないようならば脳裏に水面を想像しろとも言ってくれた。風も無く、何者も乱されぬ穏やかな水面。水鏡のように全てを反射して映しだすような、静けさを持った水面を想像しろと。その水面に変化が訪れぬよう集中力を絶やさず想像し続けていればやがてそれは瞑想に繋がるという兄貴分の教え通り、脳裏に静かな水鏡を描き出す。具体的に何かを映し出しているというところまでは想像はいらない。ただ静かな水面をイメージし、それをイメージし続けられるよう集中すればいい。そう思って瞑想を始めたのだが、いつも瞑想しながら全集中の呼吸の鍛錬をしていたせいか、ついうっかり全集中の呼吸をしてしまった。あまりにも自然な流れで行っていたので自分でも気付くのが遅れた。縁壱さんと瞑想だけだと約束したのにやってしまった、と一瞬身構えたが、いつまで経っても縁壱さんからのお咎めの言葉は掛けられなかった。お咎めの言葉どころか、何も言われなかった。鬼狩りの中でも柱に就任されている縁壱さんの事だから全集中の呼吸に気付かない筈がない。何故注意されないんだろう。不思議に思ったものの、いつまで経っても何も言われないので、きっと黙認してくれているのだろうと良い方に捉えて全集中の呼吸をこっそり再開し、瞑想を続けた。これまでの鍛錬で全集中の呼吸を長く続けられるようになったし、集中力が途切れない限りは瞑想し続けられるだろうと始めの方は楽観視していたが、途中でそれが酷く困難な事であることに気付いた。静かな水面が崩れぬようイメージを絶やさぬように集中し続けるのもなかなか大変だが、全集中の呼吸も続けていると疲労が溜まる。疲労が溜まると集中力が乱れ始める。集中力が乱れればイメージしていた静かな水面は激しく波打つ。もしかして私は更なる苦行を自分に課してしまっているのでは、と漸く気付けた頃にはじわりと背中に汗が吹き出し始める程度に疲労が蓄積し始めていた。縁壱さんの「瞑想でも己を追い詰めそうなのが律だ」という言葉が今になって漸く理解できた。確かに私は瞑想だけでも自分を追い込んでいる。しかし、全集中の呼吸を途中で止めてしまうのも鍛錬を放棄しているようで癪で、どうにか気合を振り絞って続けた。
全集中の呼吸を続けながら瞑想を始めてどれくらいの時間が経っただろうか。度々乱れるようになってきた水面のイメージを鎮めようと四苦八苦していると、突然、何の前触れも無く縁壱さんから「律」と名前を呼ばれ、驚きのあまり飛び上がってしまった。
「はっはい!?」
驚きすぎて跳ねまわる心臓を必死に宥めながら縁壱さんの方に顔を向けると、驚いたように僅かに目を見張る縁壱さんと目が合った。どうやら驚いて飛び上がった私に驚いているらしい。直ぐにいつも通りの無に等しい表情になったものの、申し訳なさそうな雰囲気を纏っていた。
「驚かせて済まない」
「い、いえこちらこそ……あの、何でしょう?」
もしや、全集中の呼吸をしながら瞑想をしていたことを今になって咎められるのだろうか、と身構えながら縁壱さんの方へ体ごと向くと、予想外な言葉を掛けられた。
「律、今続けていた呼吸、苦しくはないか?」
「……へ?」
予想外というか、何を言われたのかいまいち理解できなくて間抜けな声が出てしまった。呼吸が、苦しい?今続けていた、ということは、瞑想しながら続けていた水の呼吸の基礎、全集中の呼吸の事なのだろうか。え。全集中の呼吸って苦しいものだと思うのだが、違うのだろうか。もしかして、正しい呼吸術をしていれば苦しく感じることは無いとかそういう意味なのか。だとすると、私は全集中の呼吸から既に誤っていたのだろうか。思わず真顔になって「私の水の呼吸……全集中の呼吸、どこ間違えてますか?」と聞き返すと、縁壱さんは首を横に振った。
「いや、律が続けていた呼吸に間違いはない。それは確かに水柱殿が扱う呼吸術だ」
その言葉を聞けて安堵したものの、先ほどの縁壱さんの言葉がますます理解できなくて困惑した。「呼吸が苦しくはないか」とはどういう意味なのだろう。
「あの、じゃあ、さっきの言葉はどういう意味でしょうか……?」
改めて問い掛けると、縁壱さんは思案するように暫しの間黙り込んでいたが、ふと、何かを思いついたように突然立ち上がって私との距離を詰めて座りなおすなり、こう告げた。
「律、普通の深呼吸をしてみせてくれ」
「え……?あ、はい」
言われた通り何回か深呼吸を繰り返す私を縁壱さんはじぃ、と見つめていた。いや、私を、というよりは、私の胴体部分を見ている、と言えばいいだろうか。目線は一切合わなかった。縁壱さんは一体何を見ているのだろう、と不思議に思っていると、縁壱さんから深呼吸を止めていいと言われた。それから少し黙り込んだかと思えば、縁壱さんはこう告げた。
「私がこれから行う呼吸を真似してほしい」
「……?分かりました」
状況がよく分からないが、鍛錬のようなものだろうか。そう思って素直に縁壱さんの行う呼吸に全神経を研ぎ澄まして観察した。息を吸って吐くまでのブレスの長さ。呼吸音。息を吸うタイミング。一通り観察してからその呼吸を真似てみると、縁壱さんは私の行う呼吸を細やかに修正するように色々指示してくれた。もっと肺を膨らませて。呼吸の緩急をつけて。息を吐きだす時は少しゆっくりめに。言われた通りに呼吸の修正を繰り返し、縁壱さんから何も指示されなくなる頃には、水の呼吸とは全く異なる呼吸法を習得していた。この呼吸法は一体何なんだろう。改めて縁壱さんの最初の言葉と今習った呼吸法の関係性を不思議に思いながら縁壱さんを見上げると、穏やかな眼差しで見つめ返された。
「縁壱さん、この呼吸法はいったい……?」
「律の体に合わせた呼吸だ。鍛錬の際はこの呼吸を使うといい。慣れればいつもより疲労が少なくなる」
「疲労が、少なくなる呼吸法……?」
何となく、縁壱さんの言葉に漠然とした不安を覚えた。何かがおかしい、と警告のようにそれは告げてきたが、具体的にどこがおかしいのか全く分からなかった。どこに不安を覚えたのか。何がおかしいのか。いくら自問自答したところで不安の正体は一向に掴めなかった。いったいどこに不安を抱いたというのだろう。縁壱さんはただ、疲れにくくなるという呼吸法を教えてくれただけだ。よほど全集中の呼吸で瞑想している様が苦しそうに見えたのだろうか。そう思うと情けない話だが、慣れれば疲れにくくなる呼吸というのは聞いただけでも興味をそそられる響きがあった。水の呼吸の型を振るう時以外に使えれば、幾らでも鍛錬を続けられるということなのでは。それはなんて素晴らしい呼吸なのだろう。少しでも鍛錬を重ねたい私からすればとてもありがたい呼吸じゃないか。疲れにくくなれば今以上に鍛錬を重ねられ、基礎的な体捌きや剣術が身に付けやすくなるかもしれない。そうなれば適性がないと言われた水の呼吸も以前のように威力が戻り、極められる可能性だってあるかもしれない。そうなったら良いことづくめだ。それなのにどこに不安を抱いたのか。そう自問自答をすると、漠然とした不安はあっという間に霧散した。いったい何だったのだろう。不思議に思いつつ、新たな呼吸法を教えてくれた縁壱さんに頭を下げて感謝を述べた。
「教えてくださってありがとうございます。では早速この呼吸を使って鍛錬を」
「今日は瞑想だけだ」
「あっハイ」
どさくさに紛れて普通の鍛錬をしようとしたがやはり駄目らしい。仕方なく、普通の鍛錬をするのは諦め、教わったばかりの呼吸法に早く慣れるよう、新しい呼吸を意識して繰り返しながら瞑想に没頭した。全集中の呼吸と同じように新しい呼吸を続けながら瞑想していると、慣れない呼吸で肺が圧迫されているのか、全集中の呼吸より呼吸が続かず苦しかったが、鍛錬を更に積み重ねればいずれ楽になるのだからここは我慢で乗り切らねば、と気合でどうにか耐え忍んだ。全集中の呼吸ができるようになるまでも似たような苦労をしただろう、と自分を励ましながら瞑想を続けること数時間後。日が暮れ始め、縁壱さんに「今日はそこまでだ」と言われて立ち上がる頃には、慣れない呼吸法に肺どころか全身の筋肉が付いていけなかったのか、体を一切動かさなかったというのに全身にかかる疲労度がいつもの倍近く酷く、立っているのもやっとという有様で巌勝さんに「大丈夫か」と心配される程だった。正直、ここ最近の鍛錬よりキツかった。呼吸法を変えただけでこんなに苦しいとは。どうにか晩御飯を終えて布団に潜り込んだらあっという間に眠りにつけるぐらいには疲れていた。あんなに寝られなかったのが嘘みたいに快眠だった。
もしかして、これも新しい呼吸法の影響なのだろうか、と感動しながら翌日起床すると、全身筋肉痛で痛みが酷すぎて暫し悶絶する羽目になった。新しい呼吸法と瞑想をしていただけなのに全身筋肉痛とはどういう原理なのかもはや分からなさ過ぎて考えるのも億劫だった。体が慣れていないという理由だけにしてもこの代償は酷過ぎる。もしかして、縁壱さんが瞑想だけだと頑なに譲らなかったのはこれを見越しての判断だったのだろうか。慣れれば疲れにくくなるという呼吸法を教えてくれた縁壱さんに感謝の思いを抱いているのは確かだが、どうせなら頑なに瞑想だけだと言った具体的な理由を「この呼吸に慣れないうちはこういう目に遭うぞ」とでも言って教えてくれれば良かったのに、とほんの少しの恨めしさを抱いたのはここだけの話である。
結局、新しい呼吸法をどうにか扱えるようになり、まともに鍛錬できるようになったのは二日後の事だった。