水面に映るはの影か


日も暮れかけてきた頃、真剣な面持ちの炎柱殿が屋敷に訪ねてきた。表情からただ事では無いと判断して屋敷へ上がるよう勧めようとした矢先に、炎柱殿は「瀕死の律殿が花柱邸に運ばれた」と告げた。思考が白く塗り潰され、脳裏に律の顔が浮かんだ。「巌勝さん、縁壱さん、行ってきます」と告げたあの時の笑顔が。
己が動揺していると自覚したのは、少し間を置いてからだった。先に炎柱殿を出迎えていた縁壱は微動だにせず、容態を尋ねるどころか、口を開くこともなかった。いつも通り、無に等しい表情で炎柱殿を見返している。鬼という異形のモノと戦う剣士は、死と隣り合わせの存在と言っても過言ではない。鬼狩りに加わってから一つの季節も過ぎていないというのに、鬼狩りの剣士の訃報や瀕死の怪我を負った等の話を幾度か耳にしている。後から鬼狩りに加わった自分よりも鬼狩りとして長く在籍しているであろう縁壱は私以上にそれを耳にし、目にもしてきただろう。慣れていると言えば聞こえは悪いが、それ故に共に住む者が怪我を負ったと聞いても平静を保っていられるのだろう。狼狽えた様子もない縁壱の静かな佇まいにそう納得すると同時に、僅かでも心が揺れた己の未熟さを突きつけられているようで、心の底で暗い感情が揺らめいた。このような所でも奴とは差があるのか。歯噛みしたくなる気持ちを堪え、律の詳しい容態を尋ねようと炎柱殿に視線を向けると、炎柱殿は気遣うような眼差しで縁壱を見詰めていた。

「縁壱殿」

炎柱殿が呼び掛けても、縁壱は返事どころか身動ぎすらしなかった。そこで縁壱の様子がおかしい事に漸く気付いた。口数が少ないとは言え、縁壱はどんな人物に呼びかけられても律儀に反応する男だ。それが、今は頷くこともせずに固まっている。そんな縁壱に対し、炎柱殿は眉尻を下げて口を開いた。

「手当は済んでいるようだが、怪我の影響なのか、意識が戻らぬようだ。花柱殿からは見舞いの許可も下りている。様子を見て参られては……?」

そう話し掛けられても縁壱は言葉を話すことも、動くこともなかった。炎柱殿から困惑の気配が滲んでいると気付いた途端、己がすべき事を理解した。腹に力を込め、少し声を張るようにして「縁壱」と名を呼ぶと、静けさを纏っていた縁壱の体が微かに揺れた。
名を呼ばれていたことに今気付いたと言わんばかりに、ゆるり、とこちらに向けられた顔は相変わらずいつも通り何を考えているのか分からぬ無に等しい表情だったが、眼差しはどこかぼんやりとしているようにも見えた。幾度もの修羅場をくぐり抜け、この手の話に慣れているが故の沈黙だったのだろうと思い込んでいた為に、縁壱が動揺のあまり放心していたのだと気付くのに一瞬の間を要した。
この男でも、狼狽えることがあるのか。そう思うと妙な心地だった。

「炎柱殿の話を理解していたか?」
「……はい」
「参るのか?」
「参り、ます。兄上は、」
「共に参る。炎柱殿、お忙しいところ足を運んでお知らせ頂き、縁壱に代わって感謝申し上げる。まことに忝ない」

頭を下げると、炎柱殿は驚いたように目を瞬かせ、それからいつものように声を張り上げて笑った。

「いや、何、大したことではない!縁壱殿にはこちらこそ世話になっている故、お気に召されるな。私も共に参ろう!」

縁壱はそんな炎柱殿へ会釈をするなり、あっという間に土間から降りて草鞋の支度を整えた。先程の微動だにしなかった様子とは打って変わった素早いその動作に溜息をつきたくなるのを堪え、三人で花柱邸へと急いだ。花柱邸に辿り着くと花柱殿が直々に出迎えてくれ、挨拶もそこそこに律を寝かせている部屋へと案内してくれた。布団に横たわる律は首に布を巻かれている事以外は、特に大きな怪我をしているようには見えなかったが、炎柱殿の話の通り意識が戻っていないのか、目は固く閉じられている。縁壱は律の姿を見るなり幽鬼のような足取りで部屋に足を踏み入れ、音もなく律の傍に正座して律を見詰めた。炎柱殿が縁壱のその姿を痛ましいものを見るかのような眼差しで見詰めていたが、こちらの視線に気付くとその表情を打ち消して微笑んだ。

「瀕死と聞いていたが、出血は無いようだな」

炎柱殿の言葉を聞いた花柱殿がやれやれと言いたげに溜息をこぼした。

「まったく……どこからそんな話が広がるのやら……確かに未だ目を覚ます気配はありませんが、今すぐ命に関わるという程の傷はありません。とはいえ、頭も激しく打っていたようですし、軽傷とは言えない怪我も負っていますから目を覚ますまではこのまま安静にした方が良いでしょう」

命に関わる程の怪我はない、と語られた花柱殿の言葉に安堵から吐息を零しかけたが、何かを思い出したように花柱殿が「ただ、」と顔を曇らせた。

「律殿の日輪刀が……」
「日輪刀?」

刀が、どうしたのだろうか。思わず炎柱殿と顔を見合わせると、花柱殿は「持ってきた方が話が早いですね」と言うなり、律のものと思しき鞘に収まった日輪刀を持ってきた。花柱殿が慎重な手つきで鞘から刀身を抜くと、それは目に飛び込んできた。青い刀身の真ん中に広がる大きな亀裂。一度でも衝撃が加われば砕けてしまいかねないような酷い損傷だった。刀としてはもう二度と振るえまい。炎柱殿も同じことを思ったようで「新しい日輪刀の手配が必要だな」と言葉を零していた。しかし、花柱殿はその言葉に目を伏せた。

「私もそう思ったのですが、この亀裂を目にした時の律殿が……その、酷く狼狽えていたものですから。気を失った後もなかなか日輪刀を離そうとせず、刀鍛冶殿達へ連絡するのもはばかられてしまって……」
「ふむ……日輪刀が折れたことに余程動揺したのだろうな。俺も初めて日輪刀が折れた時は心底魂消たものだ!」
「動揺……確かに、あの時の律殿は動揺していましたが……いえ、動揺しているというより、あれは……」

花柱殿は言い淀み、寝ている律の方へ視線を向けた。なんと言えばいいのか考えあぐねているような素振りを見せる花柱殿は上手く言葉を見つけられないようで、暫しの間口を閉ざしていた。花柱殿の伝えたい事を推察できないかと、これまでの会話を振り返っていると、ふと思い出した事があった。花柱邸を訪れるよりももっと前の出来事。私の日輪刀を打った刀鍛冶が屋敷に訪れた時のこと。気が付くと、口を開いていた。

「その日輪刀、兄弟子にあたる人の刀だと、律から聞いた事がありますが……」

思わずそう口にすると、炎柱殿が目を丸くして「兄弟子の刀だと?」と不思議そうに呟いた。そんな炎柱殿とは対照的に、花柱殿は何かしらの得心が得られたように息を呑んで日輪刀を見下ろした。歪な亀裂の入った日輪刀を見下ろすその顔は、先程、炎柱殿が縁壱を見ていた時と同じような顔をしていた。

「そうでしたか……兄弟子の……律殿には可哀想ですが、炎柱殿の言う通り、この刀はもう振るえないでしょう。新しい日輪刀の手配が必要となるでしょうね」

そう告げた花柱殿の言葉は炎柱殿が零した言葉を肯定するもので、今後の律の鬼狩りとしての人生の事を考えれば正しい意見のように思えた。その言葉に同意しようと頷きかけたのだが、律の顔が脳裏に過ぎって思い留まった。刀鍛冶が私の日輪刀を持って屋敷へ訪ねてきた際に、刀鍛冶に請われて持ってきた青い刀身の日輪刀を見つめながら、兄貴分の刀なんです、と穏やかな眼差しで語る律の姿が、何故だかその時の光景が脳裏にちらついて離れなかった。己の命を預ける武器を見る眼差しではなかった、あの優しい眼差しがどうしても。きっと、律にとって兄弟子の刀は大切なものだったのだろう。それこそ、鬼の血鬼術に掛けられて幼子になっていた時に律が見せてくれた、鬼に壊された厄除の面のように。砕けた厄除の面を見せてくれた律は泣いていた。自分が至らなかったばかりに壊れてしまったと。もっと上手く立ち回っていればと自分の弱さを悔いていた。亀裂の入った青い刀身を見た時も、律はきっと。泣いている律の姿が脳裏を過った途端、口が自然と言葉を紡いでいた。

「──磨上げては、如何だろうか」

刀は刀身が折れれば修復は不可能に等しいが、損傷の度合いによっては、磨上げる事で脇差や短刀として使える場合もある。日輪刀として振るえなくとも、脇差や短刀としてなら律の手元に残せるやもしれませぬ、と告げると、花柱殿と炎柱殿は目を見開いていた。

「日輪刀を磨上げ、ですか……」

花柱殿の呆然と呟かれた言葉は驚きに染っていた。まるで考えもしなかった、と存外に語るその言葉を不思議に思ったものの、そういえばこれまで会ってきた鬼狩り達は誰一人として脇差や短刀を腰に差していなかったということに今更気付いた。武士にとって折れた刀とは戦場で数多の敵将と戦ったかを示すものであり、それを磨上げて脇差や短刀として身につけるのは武勲のある武士として誉高い事だった。どんな剣豪が使おうとも刀は必ず摩耗する消耗品であり、武勲を上げれば上げるほど脇差や短刀へ磨上げられる刀もそれなりに増える。人外の力を持つ鬼との戦闘で刀を振るう鬼狩りともなれば刀の一振りや二振り、磨上げていてもおかしくはなさそうなものだが。日輪刀が損傷する事は滅多にないのだろうか。それとも、日輪刀は磨上げが出来ない造りなのか。そう不思議に思って炎柱殿へ「日輪刀の磨上げは可能で?」と問うと、困ったように眉尻を下げられた。

「不可能ではない、と思うが……日輪刀を磨上げるという考えがなかった故、試した事はありませぬな」
「……まことですか?」
「うむ。日輪刀が破損した場合は刀鍛冶殿達に新しい日輪刀を鍛刀してもらっていた」

そんな返答が返ってきて、そこで漸く気付いた。鬼狩りにとって磨上げとは一般的では無いのだと。武士の間では磨上げられて出来た脇差や短刀は戦闘に用いられる武器ではなく、あくまで護身用の武器か己の武勲を示すモノとして扱われ、磨上げられる前のように主流の武器として扱われることはない。鬼を狩る事を目的にしている鬼狩り達にとって、護身用の武器や己の武勲を示すだけの武器とは無用の長物も同然の代物でしかなく、磨上げという手段を用いてまで破壊された日輪刀を手元に置こうという考えは思いつきもしなかったのだろう。彼らにとって破損した日輪刀とは鬼を倒す手段が無くなるという危機意識を抱かせるものでしかないのだ。花柱殿達が磨上げという選択肢に驚いた理由を悟り、未だに武士としての振る舞いが抜けきれていない己の未熟さを突きつけられたようで居た堪れなくなり、二人から目を逸らすように俯いた。

「日輪刀を磨上げるなど、戯言でしたな……忘れてくだされ」
「あ、いえ、決して戯言などでは……!形を変えども、兄弟子の刀が手元に残れば律殿も喜ぶと思います!」
「あ、あぁ!花柱殿の言う通り、実践に用いることが出来ずとも手元に残る事で為せる意義もあるだろう!」

慌てた様子の二人に磨上げという選択肢を肯定されたが、どうにも気遣われたように思えてならなかった。素直に二人の肯定を受け止めることが出来ず、かと言って強引に意見を下げるのも二人の気遣いを無下にしてしまうようで、結局、持ち主である律に日輪刀をどうしたいか聞いてから処理を考えようと、苦し紛れに絞り出した意見を提示することしか出来なかった。二人があっさりとそれを受け入れた事でその場が収まったので、律が目を覚まして日輪刀の話題に触れたら直ぐにでも話が出来るよう、一先ず日輪刀は花柱殿へ預けておく事になった。花柱邸を訪れた本来の目的である律の怪我の具合も確認できたので、あまり長く屋敷に滞在しても花柱殿に迷惑だろうと、律から離れようとしない縁壱を引き摺るようにして屋敷へ連れ帰った後も、居た堪れなさは痼のように心に残っていた。
翌日、任務の合間を縫って律の下へ見舞いに参じる縁壱に付き合って訪れた花柱邸で、目を覚ました律が縁側の床を這う姿を見るまで、その痼は残っていた。
痛む足のせいで歩けないのか、床を這いずって部屋から出てきた律が真っ先に口にした言葉を耳にした刹那、痼は消えた。

「かたな、どこですか」

不安と焦燥に染まった声色で紡がれたその言葉を耳にした途端、何とも言い難い感情が胸を過って言葉が詰まった。わたしのせいで、と己を責める言葉を紡ぐ弱ったこの子供にあの刀を見せたらどうなってしまうのか、容易に想像がついた。そして、それは決してこの子供の為にならぬ事も。恐らく同じ結論に辿り着いたらしい縁壱が言葉を選ぶようにゆっくりと何かを言いかけたが、その言葉を遮るように肩に手を掛けてしまった。人格者である縁壱の事だ、自分よりも律を慮った言葉を紡げるだろうに、何故その言葉を遮るような真似をしてしまったのか、自分でも不思議だった。何の手配もしていない日輪刀は刀鍛冶に預けてあると嘯き、安心したように表情を緩ませた律の顔を見た途端、律の日輪刀を磨上げようと決意した。きっと律が望んだ形で手元には戻らぬだろうが、それでもこの子供の心を支えるには充分だろうと。律に子守唄を歌う縁壱には心底魂消たが、心に楔のように打ち込まれた決意はその程度の驚きでは決して揺るがなかった。律が眠りに落ちたのをしかと確認してから花柱殿の下へ赴き、律の日輪刀を預かって早々に刀鍛冶へ文を出した。刀鍛冶はそう日も空けないうちに屋敷を訪ねてきて律の日輪刀を預かっていった。
磨上げられた日輪刀が律の下へ届く前に、律に磨上げの事を話さねばならぬと何度も覚悟を決めて花柱邸へ赴いたが、庭でこっそりと鍛錬をする律の姿を見かける度に伝えるべき言葉は喉の奥へと滑り込んで出てこなかった。まだ、まだこの子供に伝えるには早いと、臆病風に吹かれたように己に言い訳をしながら律の鍛錬に付き合っていると、益々言葉は重みを増して胸の中へと沈んでいった。そんな己にほとほと嫌気が差したが、それ以上に、この子供がまた己の無力さに打ち拉がれぬようにしたいと願う思いに思考が引き摺られた。何故、こんなにもこの子供に心を砕こうとしているのか、自分でも理解出来ぬままにその日は突然訪れた。

律が花柱邸から帰ってきて幾日も経たぬ頃、庭で鍛錬をしていると玄関から大きな物音が聞こえた。誰か訪ねてきたのだろうかと素振りの手を止めて玄関へ向かうと、そこには土下座をする一人の小柄な人物と、その人物の傍らで立ち尽くす律がいた。全く状況が掴めない。困惑して咄嗟に律に声を掛けた。

「律、何があった」

律は弾かれたようにこちらを見た。その顔は困惑の色を濃く映していたが、それと同時に強ばってもいた。

「あの、刀鍛冶さんが、いらっしゃって……」

律が酷く言い辛そうにそう言葉を紡いだことで漸く状況を把握した。土下座をしている人物をよく見れば、それは見知った人物だった。私の日輪刀の鍛刀を受け持ち、律の日輪刀の磨上げを頼んだ刀鍛冶だ。
刀鍛冶は細長い箱を大切にそうに抱えて器用に土下座をしているようだった。頼んでいた律の刀の磨上げが終わって届けに来たのかと思い、結局この日まで律に磨上げの話が出来なかった己の不甲斐なさを内心で叱咤すると同時に、いっそこのまま律へ磨上げの話をしようと腹を括ったところで、刀鍛冶の様子が妙なことに気付いた。漂う緊張感から只事ではないようだと察し、とにかく屋敷へ上がるよう声を掛けた。

「刀鍛冶殿、客間で伺います故、どうぞこちらへ」

刀鍛冶は酷く覚束無い動きで立ち上がった。やはり様子がおかしいとは思ったものの、敢えて触れずに律も連れて客間へと通した。客間へ通した途端、刀鍛冶はまた土下座をした。畳に額を擦り付け、一向に頭を上げる気配がない。いったいどうされたのかと声をかける前に、刀鍛冶が声を発した。

「まことに、申し訳御座いません。依頼頂いた日輪刀の磨上げで御座いますが……作業の最中に刀身が砕けてしまい、短刀にすら仕上げることも叶わず、」

震える声で言葉を紡ぎながら、刀鍛冶は抱えていた細長い箱を目前に置き、蓋を開いた。中に収められていたのは鞘に収められた一振の刀と──見覚えのある青い刃をした、三本の小さな刃物。短刀よりも遥かに小さなそれは、小柄のようだった。きっと、刀鍛冶が砕けた刀身でどうにか仕上げたものなのだろう。短刀が無理ならばせめて小柄で残せられないかという、刀鍛冶の執念を感じるような仕上がりのそれは、柄に緻密な龍の装飾を施され、日輪刀であった頃の刀身の青さをそのまま残す刃の青さと相まって芸術品のような美しさだった。三本ともに全く同じ仕上がりで揃えられており、見事としか言い様がないその出来栄えに思わず感嘆の吐息が零れたが、刀鍛冶の玄人としての誇りは依頼された形に仕上げられなかった事を許せないのか、ひたすら「申し訳御座いません」と震える声で謝罪していた。
謝罪をすべきは無理難題を頼んだ己の方であるというのに。あの酷い損傷の刀をよくぞここまで仕上げてくれたと労りの言葉を刀鍛冶へ掛けようとしたところで、隣から華奢な腕が伸ばされ、一本の小柄を手に取った。隣に座る律に視線を向けると、律は微かに目を見開いて、手の中の小柄を無言で見詰めていた。その目が微かに揺らぎ、じわりと薄い涙の膜が張るのを目にした途端、小柄の出来栄えに感動していた心は掻き消えた。律の黒曜石のような瞳から雫が溢れ、手の中の小柄へと滴り落ちていく様を呆然と見詰めながら、磨上げという選択肢を選んだ事が正しかったのか、今更になって分からなくなっていた。果たして、本当にこれが律にとって良かったのだろうか。涙を零す律の表情があまりにも呆然としていて、悲しんでいるのか、怒っているのか、絶望しているのか、どういう心持ちで手の中の小柄を見詰めているのか分かりかねて声を掛けるのも躊躇われた。しかし、もし律が刀鍛冶を責めるような事を言い出しそうになったその時は、言わねばならないことがある。律の日輪刀を相談もせずに磨上げるように刀鍛冶へ頼んだのは紛れもなく私であると。日輪刀の磨上げを試みた刀鍛冶には何一つ非は無いのだと。律が刀鍛冶を責める前に、伝えねば。そう覚悟を決めて静かに息を吸い込んだその時、律が目を閉じて小さく深呼吸をした。袖で涙を拭い、静かな眼差しで刀鍛冶を見詰め、「刀鍛冶さん」と声を発した。その声色があまりにも優しく、律の言葉を遮ろうと決めた覚悟はあっという間に霧散した。

「ここまで仕上げるの、大変でしたよね」

正直、このような形で刀が帰ってくるとは思いもしませんでしたが、と続いた声は震えていたが、恐る恐る面を上げた刀鍛冶に向けて深々と頭を下げ、紡がれた声色は凛としていた。

「日輪刀を打ち直してくださって、ありがとうございます。大切な刀なので、こうして再び使える形に再生して頂けたこと、とても感謝しています。本当にありがとうございます」

感謝を繰り返して伝えるその言葉を耳にした途端、律が刀鍛冶を責めるのではないかと心配していた己を恥じた。刀鍛冶を責めるどころか、日輪刀を小柄に仕上げるまでの苦労を慮り、感謝の言葉を述べるその人格者の如きその振る舞いは縁壱がここにいるのではないかと錯覚してしまう程で、些か胃の腑が焦げ付くような心持ちになった。違う。縁壱は外出している。ここにいるのは縁壱ではなく律だ。あの縁壱と共に暮らしていることで人格者の振る舞いが自然と身についたのだろう。育ち盛りの律にとってはよき影響ではないかと懸命に心を宥めていると、刀鍛冶が肩を震わせ、また面を伏せた。

「っ斯様なお言葉、私には勿体のう御座います……!ご依頼頂いた仕上がりには程遠い仕上がりで、刀鍛冶の名を名乗るのも烏滸がましいというのに……!」

未だ恐縮して謙る刀鍛冶に戸惑ったのか、律が顔を上げて困ったように微笑んだ。

「いえいえ、本当に素晴らしい仕上がりですから!柄の装飾といい、とても繊細に仕上げて頂いて……龍は水の神様とも言いますし、水の呼吸を扱う者としてこれ以上ないほどの縁起のいい装飾までして貰えて……」

刀を私に預けた兄貴分も羨ましがると思います、と冗談めかして告げる律の表情は穏やかではあったが、揺れる眼差しにはどこか痛ましさを感じる感情も見え隠れしていた。人格者のように振る舞っていても、大切にしていたという日輪刀が元の形で戻らなかったという衝撃は相当堪えているようだった。それを表に出すまいと懸命に取り繕うその姿は、縁壱と似ても似つかない。縁壱ならばそのような葛藤すら抱かないだろう。それに心の底から安堵している己がいてなんとも言い難い複雑な感情が胸を占めたが、律の視線が箱の中に収められた一振の日輪刀へ向けられた事に気づき、その感情を振り払うように声を掛けた。

「律の日輪刀だ。日輪刀の磨上げと共に新たに鍛刀するよう私が依頼した」

序に磨上げの件も併せてそう告げると、驚いた表情の律が刀とこちらを交互に見た。

「巌勝さんが、私の……?」
「……?鬼狩りに日輪刀は必要不可欠だろう」
「確かに、そうですが……これが、私の……」

困惑したようにまじまじと日輪刀を見詰めるばかりで手に取ろうとしない律に業を煮やしたのか、刀鍛冶が恐る恐るといった様子で箱から日輪刀を取りだし、鞘から抜いた抜き身のそれを律に恭しく差し出した。

「律様の日輪刀に及ばぬ刀やもしれませぬが、心を込めて打たせて頂きました。気になる所がありましたら直ぐに打ち直します故、どうか手に取って見ていただければ……」
「え、あ、はい」

戸惑いつつも、どこか緊張した面持ちで鈍色の刀身を見下ろす律が刀の柄へと手を伸ばす。きっと青い刃になるのだろうと思いつつも鈍色の刀身から目を離せないでいると、律が柄を握り、刀鍛冶が刀身から手を離した。瞬間、色変わりの刀とも呼ばれるその刀身は見る見るうちに色を変えた。


「え、」


その声を漏らしたのは、果たして誰だったのか。
根元からじわりと現れた色に、律が驚いたように手を離した。重い音を立てて畳の上に転がった刀身の色の変化は止まらず、切っ先までその色で染まった。それは酷く見覚えのある色に似ていた。見間違いかと何度瞬いても、刀鍛冶が震える手でその刀身を持ち上げても、その色は決して見間違いではなかった。以前、刀鍛冶が言っていた言葉が脳裏に蘇った。現れた色によって持ち主に適した呼吸の型も分かる。だが、これは。この色は。咄嗟に律を見れば、律もこちらを見上げていた。途方に暮れているとも、困惑しているとも取れるその表情はこちらに何かを訴えかけているようだったが、それを推し量る前に律が刀の柄を掴んで部屋を飛び出した。

「律、」

伸ばした手は紙一重の差で届かなかった。裸足のまま庭へ飛び降りた律が、着地とほぼ同時に虚空に向けて刀を振るう。

「壱ノ型、水面斬り」

しぃ、と独特の呼吸音と共に放たれる水の気を纏った斬撃。手合わせで律が度々振るっていた型だ。見間違えようがない。しかし、見慣れていたはずのそれに違和感を覚えた。纏う水の気が淡い。鍛錬で見たそれよりも明らかに水の気が薄れている。律もそれを感じたのか、呆然とした面持ちで陽の光を反射する刀身を──藤紫の色に染る刀身を見下ろしていた。その顔に絶望の色が滲んでいく様を目にした途端に悟った。
目の前のこの子供は、私と同じなのではないか、と。
縁壱の振るう日の呼吸に焦がれて鍛錬を重ねたにも関わらず、私の日輪刀は縁壱のそれとは異なる色に染った。水の呼吸を振るう律の日輪刀も水の呼吸の適性を示す鮮やかな青色とは異なる色に染まり、律は顔色を変えた。望んでいた色はこれでは無いとでも言うかのように。

「律」

名を呼んでも、律は絶望に染った表情のまま日輪刀を見下ろしていた。日輪刀が紫に染まった時の私も、同じような顔をしていたのだろうか。そんな思考が脳裏を過ると、激しい衝動が腹の底から這い上がってきた。認めてはならぬ。その絶望に身を浸してはならぬ。焦りを帯びた衝動に突き動かされ、草鞋を履くことも忘れて庭へ降り立つと、律がぽつりと言葉を紡いだ。

「適性が、無くても」

感情が抜け落ちたようなその声音を耳にした途端、体が硬直した。藤紫の刀を見詰めながら、律は言葉を続ける。

「血反吐吐いても、苦しくても、我慢して沢山鍛錬して、」

寝る間も惜しんで。休憩の間も惜しんで。只管に刃を振り抜いて。誰に何と言われようとも。ただひたすらに鍛錬を積み重ねていたら、そしたら、いつの日か。

そこまで言葉を紡いだ律の黒曜石の瞳が揺らぎ、その目から雫が溢れる様を、呆然と見詰めた。



「適性の無い呼吸でも、極められるんでしょうか」



問いかけのようなその言葉に、心臓を鷲掴まれたような。それは、覚えのある言葉だった。その言葉は、日輪刀が紫へと染まった時に心に浮かんだ自問自答と、全く同じもので。まるで、その時の自分が律という姿になって、目の前に現れたかのような──否。違う。そんな夢のような出来事ではない。これはそのようなまやかしではない。目の前にいるのはあの時の己ではなく、望んだ呼吸の適性を与えられず、あの時の己のように絶望している律だ。そう理解しているはずなのに、まなこからはらはらと雫を零す律の心情が、絶望が、己の事のように分かってしまった。律が望む答えを知っている。その問いかけに答えたくとも、どれだけ鍛錬を積み重ねても未だに日の呼吸を扱えていないという現実が口を重くする。そんな心情を見透かしたかのように律が俯いた。日輪刀を持つ手が震え、藤紫の刃に幾つもの雫が滴り落ちる。絶望に打ちひしがれるその姿が見ていられなくて、歩み寄ってその顔を上に向かせた。驚いたように目を瞬かせたその顔にはまだ絶望の色が残っている。眦に残っている雫を親指の先で拭い、込み上げる衝動のままに、重い口を動かした。

「諦めるな」

零れた言葉に自分が嗤ってしまいそうだった。諦めるなとは、どの口が言うのだろう。焦がれた日の呼吸をまともに振るえない分際で。どれだけ型をなぞって振るっても、縁壱のように刀身に炎が纏うことは一度たりとて無い。どれだけ鍛錬を積み重ねても、あの赫刀のように刃が燃えることは、一度も。それでも日の呼吸を諦められない。例え自分に適していない呼吸だと分かっていても。日の呼吸を振るう縁壱のように剣の道を極めたい、ただその願いのためだけに。未だにその願いを叶えられていない己が律を励ませる立場ではないと分かっていても。それでも。
呆然とした面持ちで見上げてくる律の顔を見下ろしながら、これはただの自己満足に過ぎないと分かっていながら、噛み締めるように言葉を吐いた。

「欠かさず鍛錬を重ねれば、いずれは高みに辿り着けよう。故に、決して諦めてはならぬ」

律が同じ絶望に立ち竦むその様はまるで、その願いを諦めた自分の未来を見せつけられているようで。ただ指を咥えてその姿を見ていることが我慢ならなかっただけに過ぎない。これは決して律の為ではない。自分と同じように絶望している律に自分を重ねて、己に言い聞かせるように戒めているだけだ。剣の道を極める為にも諦めてはならぬと、縁壱のような人格者の真似事をしながら自分を奮い立たせているだけに過ぎない。諦めずもがく事が正しいのだと己を正当化する為に。そうしないと全てが水の泡に帰してしまう。血を吐くような思いで日の呼吸の型を体に叩き込んだ鍛錬が。妻子と家を捨ててまで鬼狩りとなった事が。全て。それが全て無駄であったと認めたくはないが故に。
驚いたように目を見開く律の黒曜石のような瞳から絶望が薄らいでいく様に安堵しながら、その瞳に鏡のように映り込む自分の影を見つめていた。諦めてはいけない。諦めなければ、やがて縁壱のように刀を振るえるようになれる。そうして、いつかは縁壱よりも。その為に、己の為に諦めるなと、律を励ましている体を装って自らを鼓舞する己の浅ましさを嗤いながら、自分はその程度の人間でしかないのだと心の底で独りごちた。

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