泣きっ面に蜂


その鬼を目にした途端、死を覚悟した。
二度目の鬼狩りの任務を終えた直後の事だ。初めての任務では鬼の首を斬る事ばかりに気を取られ、隙を突かれて厄除の面を破壊され、羽織もボロボロにしてしまった。その反省点を心に留めて、二度目の任務はひたすら鬼の攻撃を見極めて回避し、隙を見て刀を振るうことに集中した。結果、傷を負うことはおろか、羽織も傷一つ付けることなく無事に鬼の首を斬り落とす事が出来たのだが、その安堵から吐息を零して振り返った先に見えたその鬼の姿に、安堵は霧散した。
天高く昇った三日月の淡い月明かりを受けてそこに立つその鬼は、頭から角を生やしている事以外は普通の女性とそう変わらないように見えたが、異様な気配をしていた。藤襲山にいた鬼や、今ほど首を斬った鬼とは確実に違う。腹の底をずるりと冷たいものが這い、頭から血の気が引いていく。気圧されて、いる。女鬼の纏う気配を認知した途端に悟った。この鬼は相当人を食らっている。自分が今まで首を斬ってきた鬼達とは比べ物にならない。強い。
女鬼は私の手にある日輪刀を見て、不思議そうに首を傾げた。

「童子の鬼狩りとは……初めて見たのぅ」

今までの鬼狩りはどれも硬そうな男ばかりであった、と女鬼が独り言のように呟き、にたりと不気味に笑った。ぞわりと背筋に走った悪寒に促されるように刀を構えると、女鬼は笑みを深めた。

「"本物"の童子は久方ぶりじゃ。刀を放って大人しくすれば痛い思いをさせずに食ろうてやろ」

食われると分かっていて大人しくする奴が何処にいるのだ。馬鹿かこの鬼は。思わず内心でそう悪態を吐いて目を瞬いた次の瞬間には、女鬼が目前に迫っていた。焦燥感に駆られて咄嗟に刀を振るった。

「漆ノ型、雫波紋突き」

水流の気を帯びた刀の突きは容易く避けられ、女鬼がこちらの首に向かって腕を伸ばす。咄嗟に首を傾けて避けたが、完全には避けきれなかったようで右耳に鋭い痛みと熱が走った。我慢できない程の痛みではない。引っ掻き傷ができた程度の負傷だろうと痛む耳を意識の外へ追いやり、女鬼の腕に向けて刀を振るった。

「壱ノ型、水面斬り」

水流を纏った刃が女鬼の腕に食い込む。腕を切り落とすつもりで振るった刃だった。鬼は腕を切り落とされても新たな腕が生える。最終選別で何度もその光景を見てきたので、この攻撃が鬼にとって致命傷とならないことは知っている。しかし、腕が再生するまでに多少の時間が掛かる。腕を切り落とせば女鬼の攻撃の手段を減らせる。女鬼の攻撃の手段が減ればこちらが攻撃する機会が増える。攻撃の機会が増えれば勝機は見えるはず。短絡的とも言える咄嗟の判断だったが、それが最善の策のように思えた。刀が女鬼の腕の半分程まで食い込み、動けなくなる迄そう思っていた。あまりの硬さに驚くと、女鬼が刀の向こう側でニタリと笑ったのが見えた。ほぼ同時に脇腹に衝撃が走り、吹き飛ばされるように地面に転がった。体は無意識のうちに受身をとっていたが、脇腹に走る鈍痛で呼吸は乱れた。無理矢理体を跳ね起こして息を吸い込んだ時には、女鬼の鋭い爪が目前に肉薄していた。深く息を吸う間もなく水の呼吸を放った。

「参ノ型、流流舞い」

女鬼の爪を、腕を斬りつけながら背後に回り込む。手に伝わる肉を断つ感触があまりにも薄く、今の斬りこみも浅かったかと歯を食いしばった。呼吸を整えずに技を放ったせいか。次の攻撃こそは女鬼の腕を斬り飛ばす。不自然に動きを止めた女鬼を見据えながら刀を構えて呼吸をしっかり整えていると、それは見えた。女鬼は斬りつけられた腕を見ていた。血に塗れた切り傷だらけの腕の傷がみるみるうちに塞がっていく。その治癒の速さに肌が粟立った。治癒が、早すぎる。最終選別で倒した鬼とは比べ物にならない。先程刀が食い込んだ傷は既に無かった。あんなに回復が早ければ幾ら斬りこんでもたちまち回復されてしまう。このままでは女鬼の首を斬るまで長期戦になるだろう。もしかしたら、朝まで続くやも。もしくは。脳裏に過ぎった敗北の文字を握り潰すように刀の柄を握る手に力を込めた途端、それは女鬼から聞こえてきた。

「弱いのぅ」

ポツリ、独り言のように呟かれたその声に思わず体が強ばるのを他人事のように感じた。弱い。女鬼の言葉が脳裏で繰り返される。よわい。最終選別の時に遭遇した奇妙な鬼にも同じことを言われた。それを思い出した途端、腹の底で猛々しい感情が渦を巻いた。激しい怒りだ。こちらを弱いと称した鬼の傲慢な態度に対する怒りか、それとも弱いと称された自分の実力に対する怒りなのか、はたまた両方か。それとも。何にせよそれを認めてはいけないと激しい怒りが腹の底で吼えている。気がついた時には呼吸を整える間も惜しんで女鬼に斬り掛かっていた。女鬼は片手の指二本だけでそれを挟むように受け止めた。たった、二本の指で。すぐ目の前にある女鬼の顔は酷く愉快そうに笑っていた。

「出会う鬼狩り全てに血鬼術を掛けてきたが、とうとう"本物"の童子が鬼狩りをするようになるとは……鬼狩りも必死よなぁ。斯様な童子にまで鬼狩りをさせるとは、どちらが本物の鬼か分からぬなぁ。お主のような非力な童子が鬼狩りをしているぐらいじゃ。妾は鬼狩りの全てを童子に変え終わったということかの?」
「……は?」

女鬼の最後の言葉に縁壱さん達の顔が脳裏に過ぎった。鬼狩りの殆どを、童子に変え終わった……?もしや、縁壱さん達を幼児化させた鬼とはこの目の前の女鬼なのか。だとしたら、この女鬼を倒せたら縁壱さん達は元に戻るのでは。
閃いた思考に頭から水をかけられたような心地になり、腹の底で渦を巻いていた怒りが急激に冷えていく。それと同時に現状の厳しさを思い知って歯噛みした。縁壱さん達のような柱という剣士達が幼児化させられた程の鬼だ。そりゃあ強いに決まっている。それなのに怒りに身を任せて刀を振るい、挙句に動けなくされるなど馬鹿の極みでしかない。兄貴分達に見られていたら怒鳴られていただろう。刀の柄を握る手に力を込めて幾ら手前に引いてもビクともしない。だからと言って刀から手を離せばこちらの武器が無くなる。どうすべきか。焦燥に駆られながら思考を巡らせていると、女鬼の空いている手がこちらに伸びてきた。迷う暇もなかった。咄嗟に刀から手を離して後ろへ跳ぶと、女鬼は「兎のようによく跳ねる童子よの」と愉快げに笑い、手にしていた刀を足元に落として踏みつけた。ギシリ、刀の軋む音が聞こえた気がして体が硬直した。女鬼はこちらの様子を伺うように、じぃ、とこちらを見つめながら下卑た笑みを浮かべた。

「本当は童子の肉が食いたかったのじゃ。しかし、鬼狩りが邪魔ばかりしてのぅ。腹が立って鬼狩りを殺して食ろうたところで、どれも肉が固くて飲み込むのも苦労するでなぁ。仕方なく血鬼術で童子の姿に変えて何人か食ろうてみたら、なかなか美味くてのぅ。"本物"の童子より肉が筋張っておったが、味は悪くなかった。童子にすれば首を一捻りするだけで事切れるしのぅ……朝が近づいたせいで何人かは食い損ねたが。あぁ、この間食い損ねた鬼狩りなぞは、童子の姿になっても生意気にも斬りかかって来よったなぁ。あの鬼狩りもお主と同じ水を纏った剣技を扱っておった。お主より幼い童子の姿に変えてやったというのに、なかなか煩わしい腕をしておってのぅ。日が昇る前に堪らず逃げたが……あぁ、今思い出しても忌々しい鬼狩りであった。あと少しで食ろうてやれたのに」

女鬼の足の下で刀が、兄貴分から預かった日輪刀がギシギシと軋んでいる。やめろ、と言葉が零れたが女鬼は足を退けなかった。女鬼の足が徐々に、ほんの少しずつ下へ沈んでいく。ビシ、と何かに亀裂が走るような小さな音を耳にした途端、女鬼に向かって駆け出していた。頭の隅で武器もないのにと理性が叫んだが、それでも止められなかった。日輪刀のように鬼に通用する有効な手段とは言えないが、兄貴分達から組手も習っている。女鬼を倒すことは出来なくても刀から足を退かせるくらいならばと出来るかもしれないと、女鬼の腹を目掛けて中断蹴りを繰り出した。が、女鬼に足首を掴まれて阻止される。咄嗟に掴まれた足を軸にして女鬼の頭に回し蹴りを叩き込むと女鬼の頭から鈍い音がしたが、掴んだ足が離されることも、日輪刀を踏みつける足が退く事もなかった。女鬼は嗤っていた。

「──お主は日が昇る前に食えそうじゃ」

そう言って、女鬼は掴んだ足を握る手に力を込めてきた。激痛と共に骨が軋む音がする。このままでは足の骨が折れる。何とかしなければ。このままでは鬼の首を斬る前に自分が戦えなくなる。もう一度回し蹴りを叩き込めば、と思ったが、足を掴まれたまま地面に叩きつけられた。背中から落下した衝撃で呼吸困難に陥り、意識が一瞬飛んだ。気付いた時には地面に仰向けに倒れていて、その上に女鬼が覆い被さり、首を絞められていた。痛みよりも息が出来ない苦しさが上回っていた。そういう締められ方をしているのだ。息が、できない。呼吸が。水の呼吸が。全集中の呼吸も。息を吸う事自体を許されないように首を絞められて体が強ばる。目の前が赤く点滅する。あぁ、ヤバい、と頭の中で誰かが言った。ヤバいって何だ。まるでこのままでは死ぬみたいな言い方をして。否。これは死ぬ。このままでは。首を絞める女鬼の手を力の限り掴んでも引っ掻いても外れない。視界が徐々に狭まっていく。死が。もうすぐ、そこまで。何にも成せないまま。あの家に帰ることも出来ないまま。私は、ここで。


「肆ノ型、紅花衣」


暗くなっていく視界の中で、花の香りを嗅いだ気がした。女鬼の忌々しそうな舌打ちと共に首を絞めていた女鬼の手の感触が突然消え、呼吸が出来るようになった。勢いよく息を吸い込んだ為に噎せていると、聞き覚えのある声で労わるように話しかけられた。

「律殿、ご無事か」

その声が花柱さんの声だと気付いた瞬間、視界が回復した。自分の上に覆い被さっていた女鬼はとっくにいなかった。慌てて上半身を起こすと、すぐ近くに首を絞めていたと思われる女鬼の腕がごろりと落ちているのが見えた。少し離れたところには刀を構える花柱さんの後ろ姿と、その奥に対峙するように立つ女鬼の姿も見えた。花柱さんに助けられたのか、と状況を理解した途端、花柱さんが動いた。驚くような速さで女鬼に肉薄し、女鬼の首を目掛けて刀を振るう。女鬼は後ろに跳んでそれを避けたが、花柱さんが更に踏み込んで刀を振るった。

「伍ノ型、徒の芍薬」

目で追うことが出来ないほどの連撃が女鬼を猛追した。まるで温めたバターを斬るように女鬼の腕が、足が、胴がバラバラと容易く斬られて地面へ転がっていく。女鬼はあっという間に腕を無くした上半身と首だけになって地面に転がっていた。私が腕を斬り落とす事すらも叶わなかった女鬼の体が、あんなに容易く。柱という名を戴く鬼狩りの実力を目前にし、呆然とした。何事かを喚き散らす女鬼の首目掛けて花柱さんが無言で刀を一閃すると、女鬼の首は容易く斬られ、ごろりと転がった。私が首を斬る事も出来なかった女鬼の首が。女鬼の首を呆然と見つめていると、目に文字が刻まれていた鬼や女鬼に言われた言葉が脳裏に過った。

よわい

腹の底が重く感じた。弱い。確かに、私は弱い。花柱さん達が容易く斬る鬼の首どころか体の部位ですら、私は斬る事が出来ない。最終選別で遭遇した鬼やある程度の鬼を斬ることが出来たとしても、それだけだ。目に文字が刻まれた鬼や女鬼には歯が立たない程度の力でしかない。私の実力はそんな程度でしかないんだと思った途端、自分があまりにも情けなく弱い生き物のように思えて、腹の底が重く感じた。もっと、強くならなくては。鬼狩りの任務すらまともにこなせない程度の実力では最終選別を突破する事もできない。このままではいけないのだと歯を食いしばった途端、花柱さんがこちらに振り返った。

「律殿、お怪我はありませんか?」

ありません、と言うつもりで声を出そうとしたが、咳き込んでしまって声にならなかった。先程の女鬼に首を絞められた時の影響か、と忌々しく思いながら喉を摩っていると花柱さんが素早く駆けてきて、直ぐ傍で片膝を着いた。花柱さんの手が喉に触れると鈍い痛みが首全体に走って体が強ばった。

「首の膂力を痛めていますね。暫しの間、声を出さない方が良いでしょう。他に痛む所は?」

花柱さんの言葉に促されて、他にも体に異常がないか確かめるために立ち上がろうとした。背中と片足に鈍い痛みが走って体勢を崩しかけたが、花柱さんが片腕を持って支えてくれたので地面へ尻もちをつくことは無かった。

「……背中と、片足も痛めていますね」

不自然な体使いだけで判断したらしい花柱さんに驚きつつ、声を出さない方がいいと言われた手前、肯定の意味を兼ねて小さく頷くと、花柱さんが眉尻を下げた。

「もっと早く駆けつけていられれば……」

見るからに後悔していると分かるその言葉に驚いた。早く駆けつけるも何も、私は花柱さんに助けられてこうして生きている。大きな怪我をしている訳でもない。せいぜい首と片足を痛め、背中を打撲している程度だ。花柱さんが駆けつけてくれたからこの程度で済んだのに、何故そんなに悔しそうなのだろう。
私は大丈夫ですよ、と伝えるつもりで腕をぶんぶんと上下に振ってみたが、すごく真剣な表情で「傷が悪化しますので大人しくしてください」と言われてしまった。どうやら私の伝えたいことは伝わっていないらしいとしょんぼり肩を落とすと、花柱さんが目の前でしゃがみ込んだ。デジャブを感じる、とその背中を見下ろしていると、花柱さんは首だけ振り返ってこう言った。

「その体で歩いて帰ると傷が悪化します。さぁ、おぶさってください」

思わず「マジかぁ」と声に出しかけて何とか堪えた。丁重に断ろうと思ったが、何時ぞやの縁壱さんに対する時のように花柱さんが笑顔で威圧してきた。あっ、これ従わないと怒られるなと察知して大人しく花柱さんの細身の背中に手を掛けたが、少し離れたところで転がっているある物が目に見えた途端、痛む足を引き摺ってそれに向かって駆け出していた。後ろから花柱さんが「律殿!」と焦ったような呼び声を掛けてきたが止まれなかった。地面にめり込むように埋まっているそれの下まで駆け寄り、膝を着いて恐る恐るそれに手を伸ばした。それの青い刀身には、稲妻のような歪な亀裂が長く走っていた。触れてしまえば今にも消えてしまいそうな悲しい姿をしたそれを目にした途端、視界がぼやけた。

「っ、」

震える両手でそれをすくい上げるように持ち上げると、微かな音を立てて亀裂が更に伸びた。これ以上動かしてはいけないと強迫観念のような思いに駆られて固まっていると、花柱さんが隣に立った。咄嗟に見上げると、花柱さんはこちらの顔を見て驚いたように目を見開き、それから私の手の中にある日輪刀を見て息を呑んだ。

「……鞘に納めましょう。そのまま持っていては砕けます」

砕ける、という言葉に体が跳ねた。くだける。兄貴分の、刀が。鱗滝さんの、かたなが、くだける?そう思考した途端、思考は白く塗り潰され、全身は動くことを拒絶した。息をするのも躊躇われた。花柱さんが私の腰に差している鞘を引き抜いてこちらに鞘の入口を向けるまで、動くことが出来なかった。

「律殿」

促されるように名前を呼ばれて、漸く手を動かした。これ以上、亀裂が広がらないように。くだけないように。息を詰めて、静かに、緊張で震える手を慎重に動かして、恐る恐る青い刀身を鞘に納刀した。キン、と微かな金属音と共に青が見えなくなった途端、詰めていた息を吐き出した。鞘に収まった日輪刀を花柱さんから慎重な手つきで渡されて咄嗟に抱え込むと、心が軋んだ。自分がもっと強かったら、兄貴分の刀はこんな悲惨な姿になることは無かったのに。もっと、もっと上手く立ち回っていれば。女鬼の足を退けるほど強い蹴りを出せていたのなら。過ぎ去ったことばかりをこうやって悔やむ自分が何よりも情けなくて俯くと、視界がぼやけ、頬に雫が伝っていく。声を押し殺して泣いていると吃逆が出た。幼子のように泣いてしまう自分が疎ましくて必死に涙を止めようと息を殺していると、頭をそっと撫でられた。花柱さんの労わるようなその優しい手つきに鱗滝さんを思い出してしまい、涙が止まらなくなった。ますます自分が疎ましく思えて仕方なかった。泣いてる暇があるなら、沢山鍛えて強くならないと。これ以上大切な物を壊される前に。心の底で固く決意するのと反比例して、視界が暗くなっていく。遠くで花柱さんの声が聞こえた気がしたが、それに応えようと藻掻く意識はあっという間に暗闇に吸い込まれ、何も感じなくなった。


気が付くと、見知らぬ天井を見上げていた。
自分がどういう状況にいるのか掴めず困惑していると、嗅ぎなれない薬草のような香りが鼻につくと同時に、全身のあちこちが酷い鈍痛を訴えてきた。特に傷んだのは背中と首と片足だった。何でこんなに痛むのだろう、と不思議に思いながら痛む首元に手を伸ばすと、そこには布が巻かれているようだった。包帯、だろうか。何で首に包帯が、と益々現状が掴めなくて混乱していると、脳裏に日輪刀の事が過った。大きな亀裂の走った、青い刀身。それを思い出した途端、全てを思い出して上半身を跳ね起こしていた。背中と言わず首や頭も酷い鈍痛を訴えてきたが、構わず周りを見渡した。見知らぬ部屋だった。身の回りには水の入った手桶が一つあるぐらいの何も無い和室で、布団に寝かされていたようだった。殺風景なその部屋を幾ら見渡しても刀は無かった。それを理解した途端、腹の底が冷えた。刀が。鱗滝さんの刀が。立ち上がろうとすると片足が酷く痛んで布団の上に崩れ落ちた。思うように動かない自分の体が酷く疎ましく思えて、立てぬならば、と這いずって障子に手を掛けて横に引くと、眩しい程の陽光が目に飛び込んできて視界が白に染った。何度か瞬きを繰り返すと陽光の明るさに目が慣れ、色とりどりの花に囲まれた美しい庭が見えてきた。そして、目に沁みるような青い空も。青。青い刀身。全身に走る鈍い痛みを歯を食いしばって堪えて部屋から這い出た所で、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「律、」

それが縁壱さんの声であると気付くのと、声が聞こえた方へ首を向けるのはほぼ同時だった。少し離れた縁側に、縁壱さんと巌勝さんが立っていた。幼児の姿ではない。二人とも元の大人の姿だった。二人は微かに目を見開いてこちらを凝視していた。二人が大人の姿に戻っている、という事は、やはりあの女鬼が例の鬼だったのだろう。血鬼術の主が倒されたことで幼児の姿の変化は解かれたようだ。二人がいるということは、ここは鬼狩りの里の誰かの屋敷なのか、と思考の片隅で現状をどうにか理解したが、そんな事よりももっと大切な事が知りたかった。声を出そうとすると、喉が酷く痛んで噎せてしまった。微かな音も立てずに縁壱さんが驚く程の素早さでこちらに駆けつけ、痛む背中に触らぬように器用に体を起こしてくれた。縁壱さんは目を微かに見開いたまま、微かに揺れる赤みがかった瞳でこちらを凝視していた。

「律、まだ動くな。体が、」
「かたな、が」

縁壱さんの言葉を遮り、痛む喉からどうにか声を発すると、縁壱さんはピタリと口を閉ざした。こちらの言葉を聞こうとしてくれている縁壱さんの姿勢に安心して、もう一度声を絞り出した。

「うろこだきさんの、かたな、きれつが」

あの悲惨な青い刀身を思い出した途端に心が軋み、鼻の奥がツンと染みて視界がぼやけた。泣いてたまるかと歯を食いしばり、縁壱さんの腕を力の限り握った。

「かたな、どこですか、かたな、わたしの、せいで」

女鬼に踏まれ、固いものにヒビが入ったようなあの音を覚えている。亀裂の走った悲惨な青い刀身も。あのままでは壊れてしまう。兄貴分から預かった、鱗滝さんの刀が。あの家に帰るのだと、見える形で私を励ましてくれていた私の唯一の三つの持ち物が、よすがが、また欠けてしまう。真菰の厄除の面は初めての鬼狩りの任務で鬼の攻撃を受けて壊れてしまい、鱗滝さんとのお揃いの羽織は鬼の攻撃でボロボロになってしまった。厄除の面は修復のしようがなくて、羽織だけがどうにか繕えた。三つあったよすがが羽織とあの刀の二つだけになってしまったばかりだというのに。これ以上失わないように、大切にしようと心から誓ったのに。私が弱いせいで、と己の弱さを責めた途端、涙が零れた。

「かたなは、」
「律の、日輪刀は」

赤みがかった瞳が揺れた。何かを言おうとしたのか、縁壱さんが口を開いた。しかし、それを遮るように縁壱さんの背後から肩に手を置く人がいた。手の主は、巌勝さんだった。縁壱さんはピタリと言葉を紡ぐのを止めて口を閉ざし、代わりに、静かな眼差しをした巌勝さんが口を開いた。

「律の日輪刀は、刀鍛冶に預けてある」
「……かじ、」
「そうだ。損傷が酷かった故、打ち直すよう手配している」
「っ、兄上、」

珍しく、縁壱さんが僅かな焦りの色を含ませた声を発したが、巌勝さんが視線を向けると口を閉ざした。二人の中で何か意思が通じあっているようだったが、私にはさっぱり分からなかった。それよりも、巌勝さんの言葉が頭の中でグルグルと渦を巻いている。
刀鍛冶。損傷。打ち直し。
あの青い刀身に広がっていたあの亀裂が、直るのだろうか。元の姿のように、傷一つ無い鮮やかなあの青い刀身に。刀鍛冶。巌勝さんの日輪刀を打った人の事だろうか。鬼狩りの剣士達が振るう日輪刀を打つ専門の人達。ひょっとこの面を被った変わった人。鱗滝さんの刀を打った刀鍛冶と同じ技術を持った人達。あの人達が、刀を打ち直してくれる。刀が見えない不安と焦りに駆られていた心に、一筋の光明が差したようだった。刀が、あの亀裂が直るのだ。それをやっと理解して詰めていた吐息をゆっくり吐き出すと、全身から力が抜けた。

「よか、た」

心からの思いが口から溢れると、巌勝さんと縁壱さんは一瞬だけ顔を見合せ、巌勝さんが小さく頷いた。縁壱さんはそれを感情の乏しいいつもの表情で暫し見つめ、やがて目を逸らすようにこちらを見た。こちらを見下ろすその顔は、いつも通りの縁壱さんだった。

「……花柱殿の見立てでは、後七日程の養生が必要だ。刀が出来るのはもう暫し後になる。故に、それまで安心して体を癒せ。良いな、律」

まるで小さな子供に言い聞かせるように言葉を紡ぐ縁壱さんに「子供扱いはやめてください」と反論しようとしたが、縁壱さんに突然横抱きにされたので危うく舌を噛みそうになって諦めた。先程まで寝ていた布団に運ばれ、丁寧な手つきで寝かされて布団をかけられた。このままもう一度寝ろとの事らしい。何時ぞやの仕返しかと思ってしまうぐらい身に覚えのある流れだった。正直、体のあちこちが鈍痛を訴えてくるので寝るに寝られないというのが本音だったが、縁壱さんは寝かせる気満々のようで、何を思ったか、添い寝するように隣で横寝になった。部屋に入ってきた巌勝さんが凄い顔をして縁壱さんを無言で見下ろしているのが見えて思わず真顔になったが、縁壱さんは気にも留めていないように口を開いた。

「こんこん小山の子うさぎは、なぁぜにお目々が赤うござる」

それは、歌だった。子守唄、だろうか。初めて聞く子守唄に驚くあまり、縁壱さんをまじまじと見つめてしまった。赤みがかった瞳が逸らされる事はなく、こちらをじぃ、と見つめている。いつも通りの無に等しい表情だったのに、何故か鼻の奥がツンと染みた。鼻をすすると、縁壱さんが布団の上からお腹をポン、ポンと撫でた。一定の調子でそれは続けられるそれに痛みが遠のいていくような気がして困惑していると、ふと気付いたことがあった。子守唄に寝かしつけだなんて、今生では記憶にないな、と。前世の記憶を思い出す前の、それこそ生まれたてから幼児の頃までは経験していたかもしれないだろうが、記憶には残っていない。それ故に、覚えている子守唄は前世の母親から教えて貰った子守唄だけだった。今生での子守唄はこんな歌なのか。どこか民謡に近いメロディだなぁ、とぼんやり聴き入っていると、いつの間にか視界が暗くなっていた。目を閉じてしまっているのだと気付いて慌てて目を開こうとしたが、いつの間にか忍び寄ってきていた睡魔がそれを億劫にさせた。痛みで眠れないと思っていたが、余程自分の体は疲労しているらしい。鬼の首を斬れなかったのに。腕一つすら斬り落とせなかったのに。それなのに、体は傷付いて疲労している。軟弱という言葉が当て嵌る自分の弱さがほとほと嫌になった。いつになったら私はあの家に戻れるのだろう。最終選別に再び挑めるのだろう。答えの見えない自問自答を最後に、意識はそこで途絶えた。

次に目を覚ましたのは、それから三日が経ってからの事だった。どうやら私がいるこの屋敷は花柱さんの屋敷だったらしく、目を覚まして直ぐに診察された。たかだか打撲程度だろうと思っていた容態は、そんな程度のものでは無かった。引っかき傷程度だろうと思っていた耳の傷は予想以上に抉られていたらしく、傷跡が残るだろうと言われた。女鬼に掴まれた足は脱臼寸前の酷い捻挫で酷く腫れ上がっていた。地面に叩きつけられた事で頭は脳震盪を起こし、背中や肩の筋肉もあちこちに大きな内出血を起こすほどの損傷を負い、肋骨にもヒビが入っていたようだった。背骨が折れていなかったのが奇跡だと花柱さんは言っていた。女鬼に首を絞められたことで喉の筋肉も痛めており、喉には女鬼の手形の痣が残っていたが、無理に声を出さないように努め、軟膏を塗っていれば直に良くなると言われた。なかなか予想以上に満身創痍で驚いていると、花柱さんに暫し屋敷で養生していくようにと言い渡されてしまった。
花柱さんの屋敷で養生生活を送るようになってから七日程経つと首の痣も薄くなって声を出せるようになり、松葉杖を突いてなら歩くことも出来るようになっていた。しかし、花柱さんからは「油断は禁物です」と言われてあまり歩くことは許されなかった。あまり寝てばかりいると体がまた訛ってしまうので、花柱さんに見つからない程度に体を起こしては庭を散策して回り、縁側からは見えない死角の空間を見つけ、そこで松葉杖を木刀代わりに素振りをしてこっそり鍛錬をした。花柱さんには見つからなかったが、何故かたまに見舞いに来る縁壱さんにはすぐに見つかって問答無用で部屋に連れ戻されて子守唄と寝かし付け攻撃を食らった。別の日に見舞いに来た巌勝さんに見つかった事もあったが、巌勝さんは何も言わずに鍛錬の様子を眺めるだけで、次に見舞いに来た時にはこっそり木刀を持ってきてくれて鍛錬に付き合ってくれた。
そんな日々を更に暫く繰り返していると体の打撲痕等はすっかり癒え、足の腫れも引いて花柱さんから「無理のない程度の運動ならば大丈夫ですよ」とお墨付きの退院許可を貰った。喜んでその日のうちに縁壱さんの屋敷に戻ったら、庭で鍛錬をしてきたらしい巌勝さんと縁壱さんに遭遇して目を見開かれ、何故か二人に付き添われて花柱さんの屋敷に連れていかれた。後で知ったのだが、どうやら花柱さんの屋敷から脱走してきたと思われていたらしい。神妙な顔をした二人に付き添われて戻ってきた私を花柱さんは不思議そうに迎えたが、事情を知ると爆笑していた。花柱さんから退院の説明を受けると、二人は気不味そうな雰囲気で謝罪してくれた。とりあえず謝罪は受け付けたものの、二人の中の私の立ち位置を問い詰めたくなった瞬間だった。
縁壱さんの屋敷に戻ってからも二人は暫くこちらの動きを監視するように見ていた。まぁ、退院明けなので心配してくれているのだろうなぁ、とは思ったが、縁壱さんのは度が過ぎていた。朝ご飯の支度の時から就寝間際まで、それこそ就寝しようと布団の用意を始めたら堂々と部屋に入ってきて布団に入って寝るまで監視を続けるので胃に穴があきそうだった。我慢の限界に達して巌勝さんに相談すると、巌勝さんは何とも言えない表情をしていた。それからは縁壱さんからの監視の目が薄くなったので、恐らく巌勝さんから縁壱さんに注意してくれたのだろうと思う。
それから暫く経たないうちに、ひょっとこの面を被った刀鍛冶さんが細長い箱を抱えて屋敷を訪れた。その人物が巌勝さんの刀を打った刀鍛冶さんだと気付いたのは、その人が玄関に入り、たまたま庭に出ようとしていた私と鉢合わせするなり、土下座をして声を発してからだった。

「申し訳御座いません」
「……え」

何で、土下座しているんだろう。この人、刀鍛冶さんだよな、と困惑しながら顔を上げてもらおうとその肩に触れた途端、刀鍛冶さんは続けて言葉を発した。


「お預かりした日輪刀を、打ち直すことが出来ませんでした」


ミシリ、と心が激しく軋む音を聞いた気がした。
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