夢幻の彼方からの願い事
巌勝さんが幼児化してから二日経った頃、その来客達はやってきた。
巌勝さんと縁壱さんと三人での朝ご飯を食べ終え、二人へ薬を飲ませていた時のことだ。玄関から聞き覚えのある声がした。花柱さんか、と声の主に検討をつけて玄関へ向かうと、やはり花柱さんだった。花柱さん以外にも幼い少年が二人いた。見覚えのある少年達の面差しに、まさか、と状況を察して顔を引き攣らせると、三人の来客はそのまさかだ、と言いたげに苦々しい顔をした。縁壱さんから件の鬼を狩る任務を引き継いだ水柱さんと風柱さんも例の鬼にしてやられたらしい。幸いな事に二人は中身まで幼児化することは無かったが、鬼には逃げられたとの事だった。
先に幼児化し、花柱さんの調合した薬を既に服用している巌勝さん達の様子を確認しに来たという花柱さんの言葉を受け、早速三人を客間へ案内して巌勝さん達を個別に診察してもらったが、薬は効いていないという頭を抱えたくなるような結果だけが告げられた。
「藤の花でも中和出来ないとは……厄介な血鬼術ですね」
いつも穏やかな微笑を湛えている花柱さんが珍しく苦々しい表情でそう言うと、風柱さんは腹立たしげに舌を打った。幼児化している分面立ちは幼いのだが、目つきの鋭さは健在しており、見る者を震え上がらせるような雰囲気を纏っている。何か思い詰めているような表情の水柱さんも普段のように落ち着いた雰囲気を纏っているので、傍から見てもただの子供ではないと思わせるような風格がある。同い年程に見える少年達の異様な雰囲気に圧されたのか、巌勝さんは緊張した面持ちで風柱さんと水柱さんを見つめていた。後でこの二人は何者なのか問われそうだな。二人の少年を何と説明すべきか、と頭を悩ませていると、水柱さんが真剣な面持ちで縁壱さんへ話し掛けた。
「そのことを含め、御館様からも相談されたのだが、」
水柱さんはそう言いながら、こちらをチラリと見た。縁壱さんはそれだけで何かを察したらしく、水柱さんの言葉を遮るように「水柱殿、暫し待たれよ」と声を掛けてから、こちらに視線を向けた。
「律、兄上と共に席を外してくれるか」
「あ、はい……巌勝さん、行きましょう」
鬼狩りについての話だろうか。ならば部外者である私と、今は鬼狩りの記憶が無い巌勝さんが聞いては不味い話なのかもしれないと、巌勝さんを連れて部屋を退出した。暫し何処かで巌勝さんと時間を潰そうか、と思いながら縁側を歩いていると、「律、」と後ろを歩いていた巌勝さんに呼ばれた。足を止めて振り返ると、不思議そうな、少し戸惑っているような面持ちの巌勝さんに話しかけられた。
「律、あの者達は何者だ?」
「今の方達は……大人の方は花柱さんという方で、巌勝さんをここに連れてきてくださった鳴柱さんと同じく鬼狩りの方です。お連れの二人は、」
水柱さん達をどう説明すべきか一瞬躊躇して、「……花柱さんの、お弟子さんです」と苦し紛れに言葉を紡ぐと、巌勝さんは驚いたように目を見開いたが、神妙な面持ちになって「そうか」と素直に納得されたようだった。貴方と縁壱さんと同じ鬼狩りの剣士である水柱さんと風柱さんです、と言えれば良かったのだが、今の巌勝さんは見た目同様に中身まで幼児化して鬼狩りの時の記憶が無く、鬼狩りの剣士を誰一人として覚えていない。挙句に自分と縁壱さんは時を超えてここにいるのだと信じきっている。そんな巌勝さんに「実はあの二人は本当は大人なんですが、血鬼術で幼児化しているんです。中身は大人ですよ。ちなみに貴方も縁壱さんもです」とは言い辛い。
「私と同じ歳のように見えたが……あの歳から鬼狩りを目指しているのだな」
神妙な面持ちでそう呟いた巌勝さんの様子が気がかりで、思わず「どうされましたか?」と問い掛けると、巌勝さんは一瞬考え込むように俯き、顔を上げた。巌勝さんから向けられる眼差しがあまりにも真っ直ぐで、一瞬たじろいでしまった。
「鬼狩りとは、誰でもなれるものなのか?」
「……そう、ですね。なりたいと門を叩けば、迎えてくれるような気もしますが」
侍一門の当主であった巌勝さんがなれたのだし、身分を問われる事は無いのだろうなぁと思いながら返答すると、巌勝さんは続けて問い掛けてきた。
「縁壱も、鬼狩りの弟子なのか?」
その言葉にギョッとしてしまった。何故そう思ったんです、と問い掛けそうになって、先程の縁壱さんと水柱さんの様子を思い出した。鬼狩りの弟子である少年から相談したいことがあると言われ、それに応じるように人払いをした弟。縁壱さんが実は大の大人で鬼狩りに属していると分かっている身としては「鬼狩りに纏わる事で何か相談事かな」とぼんやり察したが、巌勝さんからしてみれば謎だろう。何故自分だけ退出させられたのか。あの三人は鬼狩りの剣士とその弟子だと聞いて考えた末に行き着いた結論が「縁壱さんは鬼狩りの弟子だから、あの三人と対等に話ができるのだ」という事なのだろう。縁壱さんは弟子どころか、鬼狩り当人そのものなのだが。しかし、それを伝えた所で巌勝さんは混乱してしまうだろうと思い、その言葉を肯定しておくことにした。
「はい。縁壱さんも鬼狩りのお弟子さんです」
「……そうか。あの縁壱が……」
巌勝さんは何とも言えない表情で俯いた。安堵しているとも、困惑しているともとれる複雑なその表情は子供が浮かべるにはあまりにも大人びていて、声を掛けることは何だか躊躇われた。何故、そんな顔をするのだろう。鬼狩りの弟子になった縁壱さんを心配しているのだろうか。幼い巌勝さんの思考を汲み取ろうと自分より低い位置にある後頭部を見つめていると、巌勝さんがゆるりと顔を上げた。
「私達が時を超えたのは、血鬼術という鬼の妖の術によるものだと聞いたのだが、その血鬼術は術者である鬼を倒せば解けるのか?」
「……恐らくは。大丈夫ですよ、花柱さん達が鬼を必ず倒します。そうしたら巌勝さん達は元の時代に、」
「縁壱だけでも、この時代に残す事は出来ぬだろうか?」
「え?」
巌勝さんから問われた言葉を脳裏で繰り返す。縁壱さんだけでも、この時代に残す。巌勝さんは何を言っているのだろう。思わず巌勝さんと視線を合わせるように膝をつき、「どういう事ですか?」と静かに問い掛けると、巌勝さんは一瞬だけ目を伏せて、何かを決心したように視線を合わせてくれた。
「元の世に戻っても、縁壱は継国の家に置いて貰えぬのだ。父上の命によって住まう部屋も着るもの教育も、食べ物でさえも粗末にされ、十歳になれば寺へ追いやられる。ここに残れば、縁壱は剣を教える師にも仲間にも恵まれ、暖かな飯と寝床も享受できる。律のように面倒を見てくれる者もいる。ここで暮らした方が、縁壱は幸せなのだ」
巌勝さんの言葉はあまりにも想定外で、衝撃のあまり言葉を失ってしまった。頭の中では「そもそも縁壱さん達に掛けられたこの血鬼術は時空を超えるモノではなく、対象者を幼児化させるものだ」と理解している。血鬼術が解けても縁壱さん達は元の大人の体に戻るだけだ。そう分かっていても、脳裏では巌勝さんの言葉と疑問が飛び交っている。継国に置いて貰えないというのはどういう事なのだろう。どうして縁壱さんはそんな目に遭わなくてはいけないのだろう。どうして縁壱さんのお父さんはそんな事をするのだろう。辛うじて絞り出せたのは「どうして、そんな目に」という、幼い頃に縁壱さんが受けたであろう冷遇の原因を尋ねる言葉だった。その問いかけに、巌勝さんは泣きそうな表情でたった一言だけ告げた。
「私達が、双子だからだ 」
双子。そうか、だからあんなにそっくりなのか、と場違いな納得をしたが、納得出来たのはそれだけだった。何故、双子というそれだけの理由で縁壱さんはそんな目に。戸惑いのあまり、咄嗟に言葉が溢れてしまった。
「え、それだけですか?」
「なっ」
巌勝さんは目を見開いて驚いていた。驚愕という言葉を体現したようなその顔にこちらも驚いた。え。何で。何でそんなに驚かれるのだろう。理由はそれだけかと問いかけただけなのに。もしや、今生では双子に何か特別な意味でもあるのだろうか。前世での記憶では可愛いとか双子コーデとか好印象なイメージしか無いのだが。もしや、また私はやらかしたのでは。頭から血の気が引いていく音を聞いた気がして、しまった、と自分の発言を悔いていると、巌勝さんは恐る恐るといった様子で話しかけてきた。
「双子、なのだぞ……?」
「……その。あの、お恥ずかしい話なのですが、私はどうにも今生の知識……じゃなくて!世の常識に疎いところがありまして……ふ、双子って同じ日に同じお母さんから生まれた子供、という事くらいしか知らなくて……」
それ以外にも何か特別な意味があるのでしょうか、と問い返すと、巌勝さんはポカンと口を開いてしまった。うわ、よっぽど常識的な話らしい。庭に穴を掘って埋まりたい。羞恥心が熱となって顔に集まるのが嫌という程わかってしまって、そんな情けない顔を巌勝さんに見られている事が恥ずかしくて咄嗟に顔を隠すように俯くと、巌勝さんがポツリと言葉を紡いだ。
「双子は、忌み子なのだ」
「いみご……?」
なんだそれは。思わず呆けた顔で巌勝さんを見ると、こちらの顔を見た巌勝さんは明らかに戸惑っていた。「いみご」という言葉も知らないのかコイツとか思われているのだろうか。きっとそうだろう。また恥を晒してしまった、と俯くと、巌勝さんは困惑を滲ませた声色で説明してくれた。
「忌み子というのは、忌み嫌われる存在だ。特に双子は跡目争いの原因となる故、武家の中では不吉の象徴として忌まれる。それ故に父上は私を跡継ぎと決め、縁壱を忌み子として差をつけて育て、十歳になったら寺へ出奔させるのだ」
故に、縁壱は継国の家に戻っても不遇な目に遭うのだと、巌勝さんは淡々と語った。巌勝さんの説明のおかげで全て理解した。しかし、何故そのような迷信めいた話が今生で闊歩しているのかまでは理解できなかった。前世では少子化云々と散々騒いでいたくせに、何故今生ではそのような迷信めいた話が闊歩して更に少子化を進めるような事になっているのだろう。今生では少子化問題は解消されたのか。いや、少子化云々の問題などどうでもいい。問題は、大人の勝手な都合で二人の子供が肩身の狭い思いをしているという事だ。ただ、同じ日に生まれただけなのに。それだけの理由で血の繋がった兄弟は差をつけて育てられ、息の詰まるような思いをしている。今になって漸く、巌勝さんがこの屋敷にやってきて言っていた言葉の意味と、縁壱さんに対する余所余所しい態度の理由を理解した気がした。幼少の頃に別れたのはきっとそういう事情があったからで、巌勝さんはその事が気掛かりだったのだろう。縁壱さんの幸せを願い、この世に縁壱だけでも残せないかと告げた巌勝さんの思いを察し、胸の奥がギュウ、と紐で縛り付けられているかのような痛みを訴えた。気がつくと、巌勝さんの頭を撫でていた。
「縁壱さんの事は、手を尽くしましょう」
縁壱さんに掛けられた血鬼術は時を超えるものでは無いが、目の前の小さな少年を安心させたい一心でそう告げると、巌勝さんは目を瞬かせた。
「まことか……?」
「えぇ。縁壱さんがこちらの世に残れる術はないか、鬼狩りの皆さんにも聞いてみます」
巌勝さんは今聞いた話を信じられないとでも言いたそうな顔をしていたが、頭を撫でていた手を止めて「指切りしますか?」と小指を差し出すと、話が本当であると信じてくれたようで、その顔を綻ばせた。
「ありがとう、律……!」
「……巌勝さんは、残られないのですか?」
「私は……継国の名を継がねばならぬ故」
剣術の腕を磨いて継国の名を継ぎ、縁壱の元にまで名が轟くような日ノ本一の侍になるのだと、はにかむように笑う巌勝さんの笑顔があまりにも可愛らしくて、つられて微笑んだ。
「巌勝さんならきっとなれますよ。毎日剣術の鍛錬をされてますから」
そう言うと、巌勝さんは不思議そうな顔をした。
「何故、私が剣術の鍛錬をしていると分かったのだ……?」
そう問いかけられて、一瞬、頭の中が真っ白になった。え、いや、毎日あれだけ鍛錬してる姿を見ているので知ってますよ、と言いかけて、ハッとした。いや、私が知っているのは大人の巌勝さんが鍛錬している姿であって、幼児化している巌勝さんの鍛錬している姿ではない。今の巌勝さんが鍛錬している姿は見ていないではないか。
「……!?あ、え、えぇっと……あ、手!手です!巌勝さんの手にタコが出来てましたので……!余程剣術の稽古をされているのだろうな、と!あ、この屋敷にも木刀あるので稽古されてみますか!?持ってきましょう!」
ついうっかり大人の時の巌勝さんを基準に話をしてしまっていた。危ない。うっかりしていた。慌てて自分の発言を誤魔化そうと木刀を持ってくると、巌勝さんは目を輝かせて木刀を受け取った。先程の私の失言についてはもう気にしてないらしい。巌勝さんがどれだけ剣術の稽古が好きなのか伝わってくるようなその目の輝きに、こんなに幼い頃から剣の道を極めるのが好きだったんだなぁと微笑ましく思っていると、巌勝さんに袖を引かれた。
「律、素振りの型を見てくれぬか?」
「あ、はい。私で良ければ」
巌勝さんは嬉々として草鞋を履いて中庭へと駆けていき、素振りを始めた。大人の時の巌勝さんの素振りと比べればその剣筋は稚拙なものだったが、子供にしてはなかなかの鋭さがある。巌勝さんには元々、剣の才能があったのだろう。錆兎や義勇と同じだ。そう思うと、自然と口が開いていた。
「巌勝さん、脇をもっと締めたほうがいいですよ。今より最小限の力で刀を振れます」
「……!はい!」
巌勝さんは言われた通りに構えて素振りをしている。先程の素振りより様になっているそれは、大人の時の巌勝さんにはまだまだ程遠い。大人の巌勝さんと最も違う点として一つ例を挙げるとするならば、呼吸を使っていないという事だろうか。おや、と驚いて思わず声を掛けてしまった。
「巌勝さん、呼吸を使ってませんよ」
「呼吸……?」
素振りをしていた巌勝さんが素振りを止め、こちらに顔を向けて不思議そうな表情を浮かべた。それを見て、あぁ、今の巌勝さんは呼吸を知らないのだった、と思い出し、草鞋を用意して中庭へと降り立った。
「巌勝さん、木刀を構えてみてください」
「こう、だろうか……?」
「えぇ、そうです」
木刀を構える巌勝さんの隣に立ち、肺のある辺であろう胸筋部に手を添えると、巌勝さんは驚いたようにビクリと身体を震わせた。
「そのまま、思いっきり息を吸ってみてください。全身に呼吸を行き渡らせるように」
「こ、こうか……?」
「もう少し息を吸いましょう」
「……?」
「あ、その調子です」
手を添えている胸筋が膨らむのを感じ、今度は「腹の底に力を入れてみてください」と告げて下腹部に手を添えた。
「ここの奥の筋肉です。ここに力を込めて」
下腹部の筋肉のどこに力を入れるのか分かりやすく説明しようと触れたのだが、巌勝さんはまたもやビクリと体を震わせた。巌勝さんは案外、擽ったがりなのかもしれない。集中力を返って切らさせてしまっていたら申し訳ないな、と思って手を離すと、巌勝さんの全身が強ばっていることに気付いた。緊張しているのだろうか。落ち着かせるために背中を摩ると、巌勝さんが驚いたようにこちらを見た。
「余分な力は抜いて、先程私が触れた腹の奥の筋肉に力を込めるよう意識してください。木刀を握る掌にも力を込める事を忘れずに。あ、肩は力ませないで。そう、その姿勢です。足の裏をしっかりと地面につけて、下半身に重心を置いてください。その状態で先程教えた呼吸をしてください。全身に空気を循環させるつもりで、繰り返してみてください」
巌勝さんなら出来ますよ、と声を掛けると、巌勝さんは目を瞬かせ、表情を引き締めて頷いた。その真剣な表情に大人の時の巌勝さんの面影が重なって見えて、あぁ、目の前のこの少年は巌勝さんなんだなぁとしみじみ実感した。言われた通りに全身から力を抜き、深い呼吸で肺を満たして、しっかりと地に足をつけて木刀を構える姿は先程の素振りよりも様になっている。言われた通りに直ぐに再現出来る巌勝さんの器用さには舌を巻いた。きっと、自分の体をコントロールする術をこの年で既に身につけているのだろう。そこに加えて、指摘されたところを素直に受け止め、自分の中へ取り込む思考の柔軟さもある。言われた通りに再現出来るのもそれらのおかげだろう。その根幹には、大人の巌勝さんにもあった、剣の道を極めたいという強い意志があるのだろうと何となく予想ができた。幼い頃から心の中にあるその意志を大人になっても絶やさず持ち続け、弛まぬ努力を重ねられる巌勝さんだからこそ、あそこまで剣術の才能を開花できたに違いない。
私が初めて兄貴分達に同じように指示された時は言われた通りに全く出来なくて、何度も繰り返し練習させられては自分の不甲斐なさに泣きそうになって、兄貴分達に「男の癖に泣くな」とよく怒られたものだ。今考えると理不尽な叱り方だ。こちとら女なんだが。まぁ、何にせよ、一回指摘されただけでコツを掴んだ巌勝さんとは大違いだった。巌勝さんの剣の才能と器用さを羨ましく思ってしまう自分がいることに気づいて、つい苦笑いした。自分には無い才能を羨ましがったところで、巌勝さん程の鍛錬を積み重ねていない時点で私が羨ましがるのはお門違いというものだ。ぼんやりとそう達観していると、巌勝さんがこちらを見上げた。
「律、後はどこを直せばいい?」
「いえ、もう直すところは無いですよ。その姿勢と呼吸を忘れず、その状態で素振りをしてみてください。最初のうちは呼吸が続かず辛く感じますが、その呼吸に慣れてくると素振りを長く続けていられるようになります。そうすると、体の筋力が通常の鍛錬より付きやすくなります」
「まことか!?」
顔色を輝かせてこちらを見上げる巌勝さんがあまりにも可愛らしくて、つい顔が綻んでしまった。相当だらしない顔をしているだろうな、と慌てて表情を引き締めたが、直ぐに表情筋が緩んでしまう。素直な年下の子供にはどうにも弱いらしい。今更発覚した己の弱点に頭を抱えたくなったが、どうにか堪えた。
「三十回素振りしてみて、息が切れたら休憩してください。呼吸が整わないうちに素振りしても鍛錬にはなりませんから、焦らず筋肉を休めながらコツコツと続けていきましょう」
そう微笑みかけると、巌勝さんが生き生きとした眼差しでこちらを見上げてきた。
「人に剣術を教えることに慣れているようだが、律は他の鬼狩りの者にもこうして剣術を教えているのか?」
「え、いやいや、そんなまさか……!鬼狩りの皆さんは優れた剣士の方ばかりですから、むしろ私が教わることが多いですよ。巌勝さんにお伝えした事も全て兄貴分達の受け売りですから」
「そうなのか……とても分かりやすい教えだった。律の兄弟子はさぞ素晴らしい鬼狩りの剣士なのであろうな」
「そう、ですね……素晴らしい人達でした」
巌勝さんの言葉に咄嗟に肯定してしまったものの、兄貴分達は鬼狩りの剣士ではない。鬼狩りと同じ志を持った別組織の鬼殺隊へ入隊しようとしていた剣士見習いのようなものだったのだが、今の巌勝さんへ説明しても混乱させてしまうだろうと口を噤んで曖昧に微笑むと、巌勝さんが不思議そうに首を傾げた。何かを言おうとしていたのか、巌勝さんが口を開きかけたところで、背後から「律、」と縁壱さんの声が聞こえた。振り返ると、縁側に縁壱さんと花柱さん、水柱さん、風柱さんが立っていた。話し合いは終わったらしい。名前を呼ばれたということは、何か用事だろうか。そう思い、巌勝さんに一言断ってから縁側へ歩み寄ると、縁壱さんが口を開いた。
「律、すまないが頼みがある」
「あ、はい。何でしょう?」
そのまま話を聞こうとして、ふと、縁壱さんの纏う雰囲気がいつもと違うことに気付いた。いつも通り無に等しい表情なのだが、なんと言えばいいのか、卵粥やだし巻き玉子を食べてる時のような明るいものではなく、むしろ、正反対と言ってもいいような暗い雰囲気を纏っている。そう、暗い。どんよりとしている。縁壱さんがどんよりとした雰囲気を纏っている姿なんて初めて見た。いったいどうしたのだろうか。花柱さん達との会話はそんなに重い相談内容だったのだろうか。それとも、これから言われる頼み事があまりよろしくない内容なのだろうか。不安に思いつつ、縁壱さんから頼み事について詳細な説明が告げられるのを待ったのだが、縁壱さんはそれ以上口を開こうとしなかった。無に等しい表情のまま、じ、とこちらをただ見つめている。何かを訴えるような眼差しをしているのは何となく分かるのだが、残念ながら縁壱さんの心情は一切分からない。いったいどうしたのだろう。
「縁壱さん……?」
話を促すつもりで名前を呼ぶと、何故か縁壱さんは目を伏せた。表情は一切変わらないのだが、落ち込んでいるとも、申し訳なさそうとも見えるそのどんよりとした姿に益々困惑した。そんな縁壱さんの代わりに言葉を紡いだのは、申し訳なさそうな表情をした花柱さんだった。
「律殿、突然の話で大変申し訳ないのですが、これから私達と共に御館様の屋敷へ参りましょう」
「え」
花柱さんの言葉を聞いて嫌な予感がした。何だろう、この胸騒ぎによく似たこの嫌な予感、どこかで体験したような……あぁ、そうだ。この感じ、以前に炎柱さんが屋敷に訪ねて来て「共に御館様の屋敷に参ろう」と言われた時とよく似ている。あれ、何だろう。物凄く嫌な予感がする。咄嗟に縁壱さんを見つめたが、縁壱さんはどんよりとした雰囲気を纏ったまま俯いて、何も言ってくれなかった。そんな縁壱さんの様子が心配になったのか、巌勝さんが縁壱さんの下まで駆け寄って手を握ると、縁壱さんは益々俯いた。先程、巌勝さんから縁壱さんの不遇な生活を聞いてしまったこともあり、縁壱さんのその姿があまりにも放っておけなくてつい、慰めるように縁壱さんの頭を撫でると、縁壱さんは驚いたように顔を上げて、それから申し訳なさそうに目を伏せて「すまない」とだけ言葉を零した。何に対しての謝罪なのか全く検討が付かなかったが、「ちょっと産屋敷さんの所へ行ってきますね」と告げると、縁壱さんはまた俯いてしまった。
結局、嫌な予感が的中したと判明したのは、花柱さんと共に産屋敷さんの屋敷へ訪れてからだった。