継国巌勝という人
巌勝さんが屋敷に来てからわかった事がある。巌勝さんは超がつくほど己に厳しい人だ。前世でもこんなに自分に厳しい人に出会ったことは無かった。姿を見かける時は大抵、木刀で素振りをしているか、縁壱さんと手合わせをしているか、縁壱さんから日の呼吸という型と呼吸法を教わっていた。食事の時を除けば鍛錬している姿しか見かけないので、体は大丈夫だろうかと心配になったほどだ。実際、縁壱さんも「それ以上の鍛錬は体に毒となります」と止める時もあったのだが、巌勝さんはそれでもやめなかった。木刀を振るう姿や縁壱さんと手合わせをしている姿を見れば、巌勝さんが強い剣士であることは分かった。それでも巌勝さんは己を追い込むように鍛え続ける恐ろしい程にまでストイックな人だった。全集中の呼吸を会得しても鍛錬を欠かさずに続けるその姿に自然と「私も鍛錬頑張らないとなぁ」と影響すら受けた。ただ、巌勝さんが自分の限界を超えるような勢いで鍛錬を行う隣でえっちらおっちらと全集中の呼吸や水の呼吸の鍛錬を行うには自分の剣の技術の稚拙さが少々、いやだいぶ恥ずかしかったので、巌勝さんが鍛錬を行っている庭からは見えない場所にある裏庭でこっそり鍛錬をするようになった。それでなくとも、水柱さんや鳴柱さんにヘロヘロな水の呼吸の型を見られて恥ずかしい思いをしたのだ。これ以上恥は掻きたくないと裏庭でコソコソと鍛錬を続けた。裏庭は巌勝さんが鍛錬を行う庭と比べれば面積は狭いものの、木刀を振るうには充分なスペースもあるし、人目も少ないし、何より井戸があるので水分補給にも困らない居心地の良い鍛錬場所だった。
その日も裏庭で鍛錬をしていた。全集中の呼吸がだいぶ続けられるようになってきたので、全集中の呼吸をしながら刀で素振りをしていた。素振りを千回終えても息切れをすることはなくなった。水柱さんの言う通り、全集中の呼吸の効果が現れているのだと喜ぶあまり、調子に乗って水の呼吸の型も振るった。最終選別へ向かったあの時と同じくらいにまでは体力も筋力も取り戻しつつある。このまま鍛錬を続けていれば以前と同じように刀を振るえるだろうかと期待を抱きながら、水柱さんに指摘された箇所に注意して壱から拾の型まで振るっていると、何やら首筋が粟立つような感覚がして動きを止めた。何だろう。虫でも留まったかと咄嗟にそこへ触れてみたが、じんわりと汗をかいている事以外、特に何の感触もしなかった。気の所為か、と首を捻り、とりあえず汗を拭こうと、縁側に置いている手拭いを手にしようと振り返ったところで、見えた光景にギョッとした。縁側には巌勝さんと水柱さんが立っていた。巌勝さんは至極真剣な表情で、水柱さんは穏やかな表情でこちらを見ていた。え。いつから二人はそこに立っていたのだろう。全く気付かなかった。もしや、先程首筋が粟立つような感覚がしたのは二人の視線を感じていた為か。だとすると、鍛錬している姿を二人に見られていたという事になるのか。あのヘロヘロの水の呼吸を振るっている姿を。
「……まじかァ」
またこのパターンか、と恥ずかしさのあまり両手で顔を覆うと、水柱さんの穏やかな声が聞こえた。
「以前見た時より太刀筋が良くなっている。鍛錬の成果が現れているな、律」
「あ、ありがとうございます……水柱さんが仰っていた全集中の呼吸を続けて、どうにかここまで……あの、い、いつから見られて……?」
「壱の型の辺りからだな」
なるほどつまり水の呼吸は全て見られていたという事ですねまた水柱さんに不甲斐ないヘロヘロの水の呼吸を全て見られた訳だ死にたい。しかも巌勝さんにまで見られてしまった。あの不甲斐ない太刀筋を。なんで二人とも声を掛けてくれなかったのだろうと恥ずかしさのあまり顔を両手で覆ったまま無言で悶えていると、水柱さんが「律が良ければの話だが、呼吸の稽古をつけるか?」と声を掛けてくれたのでそのまま「ありがとうございますお願いします」と答えた。人に頼む態度じゃないなと思い直して手を下ろし、居住まいを正して「水柱さん、稽古、よろしくお願いいたします」と頭を下げると、水柱さんが苦笑した。
「相変わらず力加減は出来ぬが、それでも良いか?」
「構いません。吹き飛ばされるのは筋力が足りないという証ですし、受け身の鍛錬にもなりますので。むしろ本日も遠慮なく吹き飛ばして貰えると」
「そう言って貰えると有難いが……律の爪の垢を煎じて教え子達にも飲ませたいものだ」
水柱さんは今にも溜息をこぼしそうなくらい憂いた様子で独り言のように呟いた。そう言えば、鱗滝さんについて何者かと問われた時、水柱さんは他の鬼狩りの剣士達にも水の呼吸を教えたと言ってたなぁと、ふと思い出した。水柱さんの言葉から察するに、どうやら水の呼吸を教えている教え子さん達との稽古が上手くいっていないらしい。まぁ、水柱さんとの手合わせ稽古、水柱さんが力加減出来ない人なので全力で吹き飛ばされるしなぁ、と教え子さん達に同情した。私自身も「これは受け身の鍛錬でもあるのだ」と自らに言い聞かせて何とか耐えているが、水の呼吸を極める事だけを目指して水柱さんと稽古をしていればあっという間に心は砕けてしまうだろう。それ程までに水柱さんは全力で相手を叩きのめしてしまう。自分より強い人と手合わせすることで技術を吸収しようだなんて思う間も与えてくれない。ただただ、圧倒的な力の差で心をバキボキにへし折られる。教え子さん達の気持ちも分かってしまう分、水柱さんへどう言葉を返せばいいのやらと困ってしまった。
「あの、私も水の呼吸を壱から拾ノ型まで扱えるようになるまで兄貴分達に散々コテンパンに伸されてましたので……私の出来が悪いというのもあるんですけど……出来なくてもやれと、出来るようになるまでやれと兄貴分達に自尊心バキバキに折られるぐらい稽古をつけてもらっていたので、人より伸され慣れているだけと言いますか……」
どうにかそこまで言葉を絞り出すと、水柱さんはキョトリと目を瞬かせて、笑みを零した。
「……成程。律が打たれ強いのはその兄弟子達の努力の賜物か。律は良い兄弟子に恵まれたのだな」
思わぬ言葉に目を見張ってしまった。水柱さんのその言葉は確かに兄貴分達を褒める言葉だった。ふと、兄貴分達に稽古をつけてもらっていた時の光景が脳裏に過って、懐かしい過去の思い出に自然と笑みが溢れた。
「……えぇ。それはもう面倒見が良くて、優しくて、強い人達で。本当の兄弟のように可愛がって貰えて……自慢の兄貴分達でした」
最終選別へ向かうまで、最期まで彼らは良い兄貴分達だった。もう一度会いたかった。生きて、鱗滝さんの家で「おかえりなさい」と迎えたかった。そんな思いが込み上げてきて、目頭が熱くなる。慌てて額の汗を拭うふりをして袖で目元を拭って前を向くと、水柱さんと巌勝さんは労わる様な眼差しでこちらを見ていた。どうやら、泣きそうになっていたのはバレているらしい。二人に突っ込まれる前に誤魔化そうと無理やり笑った。
「巌勝さん、お庭のほうを少々お借りしても良いですか?」
いつも庭で鍛錬をしている巌勝さんへそう伺うと、巌勝さんは一拍遅れて頷いた。
「あ、あぁ」
「ありがとうございます。では、水柱さん、庭の方へ行きましょう」
「……そうだな。参ろう」
刀を鞘に仕舞い、縁側に上がって早歩きで庭を目指す。のんびり歩いているとまた涙が込み上げてきそうだった。
動けなくなるぐらい体を動かしていれば、込み上げてくる兄貴分達への思いも、涙も引くだろう。そんな一心で水柱さんとの稽古に打ち込んだ。何故か、巌勝さんは縁側に座って水柱さんと私の稽古をじ、と見ていた。あまりにも視線が気になるので、巌勝さんは自分の鍛錬をしないのだろうか、というか縁壱さん姿が見えないけどどこに行ったのだろう、等と稽古の途中で意識を散らしてしまったが、即座に水柱さんの剣撃で吹き飛ばされたので、それ以降巌勝さんの事を気をかける事は無かった。というか、ぶっちゃけ気にしている余裕はなかった。見られていると分かっていながら稽古に励むのは何とも気恥しかったが、結局、水柱さんが「ここまでにしよう」と稽古を終わりにするまで、巌勝さんはずっと見ていた。
稽古をつけてくれた水柱さんを屋敷の外まで見送ってから玄関に戻ると、巌勝さんは私の姿を上から下まで見下ろして、少し呆れたように吐息を吐いた。
「手ぬぐいを持ってくる故、そこで待て」
要するに、そのまま屋敷に上がるなと存外に告げるその言葉に恐縮した。本日も水柱さんにこれでもかと吹き飛ばされ、途中、受身を取るのに失敗して派手にもんどりを打ちながら地面に転がった為、全身土埃まみれだ。このまま屋敷に上がれば確実に屋敷を汚してしまうだろう。そりゃ止められるわけだ。
「お手数おかけします……」
申し訳なさから身を縮こませていると、巌勝さんに頭頂部をそっと触られた。頭に泥でもついていたのだろうか。確かに一回頭を打ったような気はしたが、まさか髪にまでついているとは。左右へ微かに髪を揺らすようなぎこちない手つきにそんなに泥がついているのかとますます申し訳なくなり、「頭の泥、そんなに酷いですか……?」と恐る恐る話しかけると、頭頂部にあった巌勝さんの手が離れた。
「……いや」
巌勝さんはどこか気まずそうに視線を逸らしてそれだけを呟き、屋敷の奥へと行ってしまった。恐らく、手拭いを取りに行ってくれたのだろう。本当に申し訳ない。巌勝さん、自分の鍛錬をしたいだろうに。居候の子供に鍛錬場所の庭を暫く占領されたのに文句一つ言わず、挙句に泥を拭う手拭いすら取ってきてくれるなんて。巌勝さん、自分に厳しいだけの人じゃないんだな、と失礼にも程がある事を思いながら少し感動した。少しでも泥を落としておこうと戸口の近くで全身の泥を叩き落としていると、巌勝さんが手拭いを手に戻ってきた。手渡された手拭いは湿っていて、どうやらわざわざ濡らしてきてくれたようだった。
「巌勝さん、ありがとうございます」
巌勝さんの細やかな気遣いに感謝しながらあちこちを手拭いで拭っていると、巌勝さんに「ここにまだ泥がついている」と頬を指で示された。そんなところにまで泥ついてるのか。今日も派手に転がったからか。指摘された頬を入念に拭ったつもりだったが、どうやら拭い漏れていたらしい。呆れているようにも見える何とも言えない表情で「……手拭いを」と言われて手を差し出されたので、汚れた面を裏返しに畳んで渡した。巌勝さんはその場に膝をついて目線を同じ高さにし、ぎこちない手つきで私の頬をちょいちょいと拭い始めた。ぎこちない手つきだったが、痛くはなかった。痛くは無いのだが、力加減が何とも絶妙で擽ったい。あまりの擽ったさにふるりと身体を震わせると、巌勝さんが心配そうに顔を覗き込んできた。視界いっぱいに端正な顔が近付いてきて思わず真顔になった。
「痛むか?」
「あ、いえ。平気です。ちょっと擽ったくて」
と馬鹿正直に告げると巌勝さんはきょとりと目を瞬かせて、それから微かに、本当に微かに、口許を緩ませた。
「打ち身があるのではと心配したが……大丈夫なようだな」
笑って、いる。本当にごく淡い微笑を。巌勝さんが。いつも真面目な表情ばかりで笑ったところを見たことがないあの巌勝さんが。巌勝さん、笑うとこんな顔なのか。じ、と巌勝さんの淡い笑顔を見ていると、笑顔はあっという間に消えてしまった。不思議そうに巌勝さんが「どうした?」と聞いてきたので慌てて「何でもありません」と首を横に振った。巌勝さんの淡い微笑に見蕩れていたなんて恥ずかしくて言えるわけもない。端正な顔の人の笑顔は破壊力抜群だなと脳裏に過った雑念を振り払うように刀を握り締めたが、どうにも心が浮き足立ってそわそわしてしまう。これはいけない。雑念を払うためにももう一回鍛錬してくる必要がありそうだ。真顔でそう悟り、回れ右をして裏庭に行こうとすると巌勝さんに呼び止められた。
「律、何処に行く」
「えっあ、裏庭で鍛錬の続きをしようかと……あの、手拭いありがとうございました。庭を暫く占領してしまってすみません、巌勝さんもどうぞ鍛錬へお戻りくださ、」
「裏庭に行かずとも、庭で共に鍛錬を行えばいいだろう」
「えっ」
今、巌勝さんなんて言ったのだろう。共に、と言わなかっただろうか。え、一緒に鍛錬しようと言ったのか?巌勝さんと一緒に鍛錬するの……?綺麗な太刀筋で素振りをする巌勝さんの隣で?ヘロヘロの太刀筋で素振りをするの?それなんて地獄?咄嗟にお断りしようと口を開きかけたのだが、巌勝さんが口を開く方が早かった。
「縁壱が御館様の元へ参じていてな。手合わせの相手が欲しいのだ。律さえ良ければ、相手になってくれぬか」
そう言われて、水柱さんの稽古の途中に浮かんだ疑問が一つ解決した。何だ、縁壱さんの姿を見かけないと思ったら出掛けていたのか。なるほどそれなら、と巌勝さんの誘いに頷きかけて、はたと我に返った。いや待て。巌勝さんの手合わせの相手が自分に務まるのか。巌勝さんと手合わせしたことは無いが、素振りをしている姿や縁壱さんと手合わせしている姿を見ていれば巌勝さんが自分より遥かに強いことは何となく分かっている。そんな人の稽古相手に自分が務まるとは到底思えない。
「あの、私、弱過ぎるので巌勝さんの手合わせの相手は務まらないかと……」
恐縮しながらおずおずとそう言い出すと、巌勝さんは驚いたように目を見張り、それから小さく溜息を零した。
「……度を過ぎた謙遜も考えものだな」
「!?水柱さんとの稽古で散々吹き飛ばされまくってたのご覧になってましたよね……?」
「あぁ。わざと吹き飛ばされていたな。相手の剣撃を受け流そうとする刀捌きも見事だったが、水柱殿の膂力が圧倒的に強く完全に力を流しきれないと判断するや否や、わざと体の力を抜いて吹き飛ばされることで空中で体勢を整え、着地と同時に水柱殿に斬りかかっていく判断の速さと身軽さは見事だった」
「え、」
「身軽さを活かして水柱殿の死角を狙う立ち回りも良かったが、水柱殿の方が戦い慣れしていたな。死角を突かれても危なげなく斬り返せる者はそういない。流石は柱であらせられる方だ。水柱殿と比べて体力も力も劣る不利さを補う様に立ち回る様を見る限りでは律も剣の扱いに慣れているようだが、足運びが自由だな。悪い訳では無いが、あの足運びでは重心が安定せず土壇場での踏ん張りが効かぬのではないか?あの足運び故にあれだけ身軽に動けるのだろうが、一撃に重みを載せたいのなら直した方が良い。あの身軽さを生かしたまま刀を振るいたいのならば体幹を鍛えろ。今の状態でもそれなりに体幹があるように見えた故、すぐにコツを掴めるだろう。水柱殿の剣撃を流す際の手首の柔軟さも興味深かったな。受け流し方は我流か?水柱殿の剣撃を何度も受けていたが、手首に異常はないか?相当な柔軟性があると見受けたが、何度も受けていては刀を握る握力が弱まって刀を持てぬようになるぞ。途中、水柱殿の剣撃を受け損ねて派手に地面に転がったのもそれが原因だろう。身軽な足運びを用いて相手の剣撃を躱す鍛錬もした方が良い。剣撃を受ける際の刀の角度も随分と低かったが、あれでよく刃が折れぬな。水柱殿の剣撃を受け流せないと判断する速さ故か?どの時点で受け流すと判断している?」
「あの、」
「呼吸は水柱殿と全く同じであったな。師は水柱殿か?型を振るう太刀筋に水流のような気を纏っているように見えたが、あれが水の呼吸か。縁壱の振るう日の呼吸とはまた違った美しさと力強さがある。水柱殿の振るう剣は滝のような荒々しさと清流のような清らかさがあって舞のようにも見えた。律も鍛錬を怠らなければ何れはあのように刀を振るえるだろう。確か、歳は十四と言ったな。であれば体はまだ育つ。鍛錬を怠らなければ膂力も鍛錬に見合った分だけ付く故、焦らずに鍛錬を積み重ねれば良い」
「み、巌勝さ、」
「しかし、身軽に動く足といい、刀を振るう腕といい、律は細いな。あれだけ水柱殿と手合わせしてその程度の擦り傷で済むということはそれなりに膂力はあるのだろうが、その細さでは踏ん張りが効かぬだろう。水柱殿の刀を受け流しきれない原因はそこかもしれぬな。攻撃を受け流すには柔軟さだけでなく、圧倒的な力を一時的にでも受けとめる膂力も必要だ。縁壱が食べさせたがるのがよく分かった。食うものを食わねばつくべき膂力も付かぬ。今夜からは無理をしても食した方が良い。体は資本だ。体を肥やさねば付くべき実力も付かぬ。その腕の細さで真剣を振るえている事が不思議なくらいだ。刀の重さも利用して振るっているのか?後で刀を振るう姿をもう一度見せてくれ。手合わせをしながら見た方が早いが……私の刀はまだ出来上がっておらぬ故、それはまた次の機会の方が良いか……木刀でもあの足運びは可能か?縁壱の使う木刀ならすぐに用意できる故、木刀での手合わせで見せてくれぬか?……律、どうした?」
水柱さんと私の手合わせについて感想を述べていた巌勝さんが、こちらの様子を見て不思議そうに首を傾げた。一方の私はというと、巌勝さんの怒涛の解説っぷりに恐れ戦いていた。水柱さんとの稽古を見られていると分かってはいたが、まさかここまで体使いや剣捌きの癖などをつぶさに観察されていたとは露にも思わなかった。ここまで分析されてしまうと丸裸にされたような心地でだいぶ恥ずかしい。というか、巌勝さんがこんなにも話す人だとは思わなかった。いつも縁壱さんと言葉少なに語り合っているか、黙々と一人で鍛錬をしている姿しか見てこなかったのでてっきり巌勝さんも縁壱さんと同じように多くを語らない人なのだろうと勝手に思っていた。ところがどうだ。水柱さんと私の稽古の様子を語る時の巌勝さんの目は活き活きと輝いているように見え、普段の物静かな姿からは到底想像もつかないような聞くものを圧倒する量の言葉を流暢に紡ぐではないか。紡がれる言葉が自分を分析したものだと思うと恥ずかしくて内容の半分は頭に入ってこなかったが、少年のように真っ直ぐな眼差しで語る巌勝さんを見て分かったことがある。
巌勝さん、超がつくほど剣の道が好きなんだろうな。
剣の腕も技術も遥かに未熟な私の剣に己には無い要素を見つけると、年下の子供相手に躊躇もせず「今の動きはどうやった?」と素直に尋ねることができる程に。剣の道を極めたいが為に知らないことは知りたいと物語るその直球さは剣馬鹿と言っても過言ではないだろう。失礼だから絶対言わないけど。例え相手が自分より技術の劣る者でも、己が素晴らしいと思ったところを素直に賞賛できるのは凄いことだ。歳を重ねれば重ねるほど、人間というのは恥や外聞を気にする。それらに一切引き止められることも無く、幼い少年のように素直に相手を賞賛し、問いかけ、手合わせをしようと声を掛けられる巌勝さんは凄い。普段の落ち着いた寡黙な様子からはとても想像できないその姿に正直驚いたが、剣の道にひたむきなその姿勢には好感が持てた。無に等しい顔で黙々と一人で鍛錬をしている姿や、縁壱さんと苦しげに手合わせをしている寡黙な姿よりも、生き生きとした眼差しの今の巌勝さんの方が親しみやすいと感じて、ふと思った。もしかして、この巌勝さんの姿が素なのではないだろうか。この屋敷に来て巌勝さんは初めて、素で接してくれているのではないだろうか。そう思うと、普段は思慮深い静かな眼差しをしている巌勝さんの目が活き活きと輝いているこの時間が酷く貴重なものに思えてしまって、気が付けば口を開いていた。
「──木刀でも、大丈夫です」
一瞬、自分が何を言っているのか理解できなかった。言葉を聞いた巌勝さんは微かに口許を綻ばせ、「そうか。では、庭で待っていてくれ」と告げて屋敷の奥に去っていった。その後ろ姿を見送り、巌勝さんの姿が見えなくなったところで漸く自分の放った言葉を理解して頭を抱えた。
いや、なんだ木刀でも大丈夫ですって。なんで巌勝さんと手合わせするのを前向きに検討してるんだ。あのヘロヘロの太刀筋で巌勝さんと手合わせするのか。恥ずかしいことこの上ないぞ。わざわざ裏庭でこっそり鍛錬していた意味がないではないか。巌勝さんの活き活きした眼差しに釣られてついOKの返事をしてしまうとは。暫くその場に立ち尽くして自分の愚かさを呪っていたが、諦めてトボトボと庭へと足を向けた。無意識とは言え、OKを出したことに変わりはない。ここは大人しく巌勝さんの手合わせの相手になるしかない。水柱さんとの稽古のように吹っ飛ばされる未来しか見えないが。
深い溜息を零したところで、木刀二本を携えた巌勝さんが戻ってきた。手渡された木刀は刀に近い形状をしているものの、やはり刀と比較すると軽かった。木刀に触るのは久しぶりだ。錆兎と義勇と三人で稽古した以来になるだろうか。数ヶ月は触っていない。懐かしいなぁ、と木刀の柄の感触を確かめていると、巌勝さんが少し離れた距離で木刀を正眼に構えたのが視界の端で見えた。どう見てもやる気満々だった。まさか、あのヘロヘロの太刀筋で巌勝さんの剣を迎え撃つ日が来ようとは。溜息と共に肺の中の息を全て吐き出し、全集中の呼吸で肺を膨らませて木刀を下段に構え、巌勝さんに体を向けた。こうなったら少しでも不甲斐ない剣筋を見せないよう心して巌勝さんの相手をするしかない。直ぐにボロが出るだろうが。さていつまで巌勝さんの相手をしていられるだろうか、と気を遠くに飛ばしかけたその時、巌勝さんが手合わせの始まりを告げた。
「──参る」
瞬きの間に巌勝さんが目の前に迫っていた。どういう脚力してるんだろうと思わず真顔になってしまった。斜めから振り下ろされる攻撃を受け流そうと木刀を構えようとして、巌勝さんに先程言われた言葉が脳裏を過った。身軽な足運びを用いて相手の剣撃を躱す。思考するより足が動いた。振り下ろされる攻撃とすれ違うように斜め前に踏み出して攻撃を回避、巌勝さんの脇腹目掛けて木刀を一閃したが、斬り返された木刀で弾かれる。反応速度の速さに驚きを通り越して呆れすらした。巌勝さん、人間辞めてるんじゃないだろうか。きっと今の攻撃も見切られていたのだろうと何気なく巌勝さんの顔を見たのだが、驚いたように目を見開いていた。見切って防いだ訳では無いのだろうか。だとしたら巌勝さん相当ヤバい。人間辞めてるどころか、攻撃に自動で反応する機械か何かだ。それとも剣が優れた人だと人の攻撃を無意識に躱してしまうことなど造作もないのだろうか。そこまで自分を鍛えられるだろうか。途方もない道程の剣の道を示された気がして気が遠くなりかけたが、体はその道程に踏み込もうとするように巌勝さんの懐に踏み込み、水の呼吸の型を放っていた。
「壱ノ型、水面斬り」
巌勝さんは木刀を縦に構えて防いだ。錆兎と義勇との稽古でも聞いたことの無い鈍い音を立てる木刀と手に伝わる衝撃に正直ビビった。これ、木刀折れるんじゃないだろうか。そう怯んだこちらの隙を見逃さなかったらしい。巌勝さんが木刀を振るった。
「──飛輪陽炎」
その太刀筋は美しかった。美しいが、見本のように美しすぎて刀の軌道が分かってしまうほど実用的ではない綺麗な一閃が手元を狙ってきた。太刀筋は綺麗すぎると剣の軌道を読まれて避けられやすい。綺麗すぎるのも考えものだなと思いながら、後ろに飛びずさってその一閃を避けた。木刀の切っ先が地面に沈む程の衝撃を受けるまで、完全に避けたと思っていた。
「え、」
何が起きたのか分からなかった。木刀を構え直そうと思った時には、巌勝さんは目前に迫っていて木刀がピタリと沿うように喉元に当てられていた。木刀ではなく、これが真剣だったら。この手合せが実践の戦いだったら間違いなく死んでいたと腹の底が冷え、頭から血の気が引いた。何が起きたのか分からぬまま、勝敗は決していた。
「参り、ました」
そう告げると、巌勝さんは木刀を喉元から引いてくれた。木刀は引いたが距離感は何故かそのままで、巌勝さんは困惑しているとも取れるような複雑そうな淡い表情を浮かべてこちらを見下ろしていた。
「何故受け流さなかった」
「え?」
静かに問われて困惑した。受け流す、とは、最初の攻撃を避けた時のことを言っているのだろうか。巌勝さんからアドバイスを頂いた通りに動いてみたのだが、もしかして、受け流す時の私の手の動きを見たかったのだろうか。だとしたら申し訳ないことをした。申し訳なさ過ぎて、受け流すのではなく避けた理由をもごもごと告げた。
「巌勝さんから指摘された事、実践してみようと思って……」
そう言うと、巌勝さんは驚いたように息を呑んだ。折角アドバイスして貰ったので実践してみようと軽い気持ちでやってみたのだが、どうやら早速実践で用いられるとは思わなかったようだ。巌勝さんの言う通り、受け流す時より体力の消耗も抑えられるし、避けるのも有りだなと手応えがあったのだが。水柱さんの攻撃を受け流した時と比較すれば、体力の消耗具合は段違いだ。これなら刀を振るう時間が増え、攻撃に転じるタイミングも定めやすくなる。つい錆兎達との手合わせで癖のようになってしまった攻撃の受け流しを出来るだけ避ける手法に変えていけば、次の最終選別の時にはもう少し上手く立ち回れるかもしれない。最終選別の時はあっという間に体力を消耗して動きが悪くなっていったから、体力の消耗を抑えた戦い方を学べば、次の最終選別突破の未来も見えてくるだろう。そう思うと、巌勝さんからアドバイスされたことはとても有難かった。鍛錬の新しい目標が見えてくると現状の自分の不甲斐なさや足りないモノを目前に突きつけられた気がして気が遠くなるが、それらを会得出来れば最終選別を突破できるのだと思えばやる気は湧いてくる。今度こそ、鱗滝さんの不名誉な噂を晴らすためにも。兄貴分達は凄かったのだと周囲に見せつけるためにも。鱗滝さんに自分の無事を伝えられない心残りはあるが、あの家に戻れた時に強くなった自分を見てもらう為にも。そして、今度は心から最終選別へ送り出してもらう為にも。
ヘロヘロの太刀筋を見られることばかりを気にして巌勝さんとの鍛錬に後ろ向きだった自分が恥ずかしい、と自分を恥じていると、巌勝さんが吐息混じりにポツリと言葉を零した。
「私との手合わせで実践されるとはな」
「折角ご指導頂いたので……やってみて分かりました。確かに、受け流すより避けた方が体力の消耗も抑えられました。巌勝さんのご指導、とても的確で凄いです。教えてくださってありがとうございます」
「……大したことではない。縁壱ならばもっと為になる指導を行える」
巌勝さんは苦いものでも口に含めたように微かに眉を顰めて視線を逸らした。何故ここにいない縁壱さんの名前が突然出たのだろうと不思議に思ったが、ふと気付いた。巌勝さんは縁壱さんから呼吸や型を習っている身だ。そんな自分がアドバイスするよりも、師である縁壱さんの方がもっと実になるアドバイスを出来た筈だと思ったのだろうか。そう思うと、少し心がモヤモヤした。あれだけ綺麗な太刀筋を振るう巌勝さんが言うのだ。縁壱さんも勿論素晴らしい剣士なのだろう。だが、こうして自分にアドバイスをして手合わせをしてくれたのは巌勝さんなのに、と思いながらつい口を開いてしまった。
「縁壱さんも確かに素晴らしい剣士ですが、私に指導して手合わせしてくださったのは巌勝さんです。巌勝さんのご指導のおかげで私は強くなれる道を見つけられました。縁壱さんではなく、巌勝さんのおかげなんです。どうか卑下なさらないで下さい」
そう告げると、巌勝さんは驚いたように目を見張り、戸惑った様子で何かを言いたそうに口を開いた。が、結局言葉を放つことは無く、静かに吐息を零した。
「……卑下等ではない。縁壱が戻ったら剣を見てもらうといい。彼奴は私には見えないモノも見える故、より詳しい指導を受けられるだろう」
思慮深い静かな目でこちらを見下ろして、巌勝さんは諭すように告げた。師である縁壱さんに教わった方がいいと勧めてくれる巌勝さんは私のことを考えて言っているのだろうと分かってはいるものの、どうにも心のモヤモヤが晴れない。巌勝さんに呼吸や型を教える縁壱さんに剣を教わるのは今後の自分にとっても良い事だと頭で理解していても、心は納得してくれない。つい、食い下がるように言葉を放ってしまった。
「あの、では、縁壱さんが戻ってくるまでもう一度手合わせして下さいませんか……?巌勝さんから指導頂いた足運びの方も試してみたいんです」
巌勝さんは驚いたように目を見張った。戸惑った様子で「構わぬが」と直ぐに了承してくれたが、明らかに顔は釈然としないと告げていた。まぁ、確かに「師である縁壱にも見てもらえ」と言っているのに「もう一個アドバイスされた方も今から見て欲しいです」と言われればそりゃあ「こいつ話聞いてたのか?」とはなるだろう。いや聞いていた。聞いていたが、私に指導したという自らの功績を鼻にもかけずむしろ縁壱さんのほうが凄いのだと自らを卑下するように告げる巌勝さんの態度があまりにも放って置けなかった。巌勝さんが笑顔で「後で縁壱にも聞くといい。より詳しく指導してもらえるぞ」とでも告げれば随分印象も違って素直に引き下がれただろうが、悔しそうとも、自嘲しているとも取れるような巌勝さんの表情と言い方が気になってしまった。縁壱さんから呼吸や型を教わっているとはいえ、巌勝さんも素晴らしい剣士なのになぁ、とモヤモヤする思いを抱えながら、巌勝さんと距離を取って再び向かい合い、再び手合わせを開始した。
結局、縁壱さんが屋敷に戻ってくるまで、途中で何かのスイッチが入ったらしい巌勝さんと何十回も手合わせをすることになり、水柱さんと手合わせするよりもボロボロになった。戻ってきた縁壱さんに「過度な鍛錬は良くない」と静かに説教されながら背負われて温泉に浸かりに行く羽目になり、帰ってきたら巌勝さんの手によってこれでもかとご飯をいつもより増やされて無理やり食べさせられる羽目になった。「もう食べられません」と両手で口を押えてギブアップしても「あと一口はいけるだろう」と至極真剣な顔でご飯茶碗と箸を突きつけられた時は正直地獄すぎて泣きそうだった。縁壱さんは控え目に食べさせようとしていたが、巌勝さんは遠慮が無かった。縁壱さんは「律に構いすぎだ」と怒っていた巌勝さんが己と同じように甲斐甲斐しく世話を焼く様を至極満足そうな雰囲気を漂わせて見つめ、巌勝さんを止める気配は微塵もなかった。この屋敷に私の味方はいないのだと心から絶望した瞬間だった。
普段そんなに仲良さそうに見えないのに阿吽の呼吸で世話を焼いてくる二人が私の小さい体と膂力を育てようと気遣っているのだと思うと子供扱いしないでくださいと怒る気力も湧いてなかったが、「早く体大きくして強くなってこの世話焼き兄弟から解放されたい」と新たな鍛錬目標が静かに打ち立てられたのだった。