縁壱という人
縁壱さんの屋敷で養生している間、ご飯はお粥のようなものを与えられていた。脇腹の傷のことがあるので風呂には入れなかったが、縁壱さんがお湯の入った手桶と手拭いを渡してくれたのでそれを使って垢も落とせた。それらは全て縁壱さんが全て準備してくれているのだと思っていたのだが、それは間違いだったと気付いたのは産屋敷さんと会った次の日の事だった。
鱗滝さんの家で朝ごはんの準備の為と早起きしていた習慣はどこに行っても出てしまうみたいで、縁壱さんの屋敷に来てからも自然と早朝に目が覚めていた。昨日までは縁壱さんが朝御飯を持ってきてくれるまで大人しく布団の中で待っていたのだが、花柱さんの「動いてもいい」というお墨付きを貰った今、布団の中で縁壱さんを待ってなくてもいいだろうとこっそり布団から出て、昨日、縁壱さんから頂いた着流しに着替えた。
最終選別で着ていた着物と袴は鬼の攻撃を受けてあちこち裂けていたせいなのか、縁壱さんの屋敷で目を覚ました時には既に違う着物に着替えさせられていて、あれ以来見ていない。もしかしたら、あまりにも酷い裂けっぷりで捨てられてしまったのかもしれない。
用意された着流しは縁壱さんのお古なのか、袖を通したら手も出ないし丈も盛大に余った。自分の体の小ささを突きつけられてるようで少しイラッとした。いやだいぶイラッとした。縁壱さん上背あるからな、仕方ない。私が小さいだけじゃない。きっとそうだ。襷掛けをしてどうにか手を出し、余った丈については腰の辺りで一度折り返してどうにか帯で留めた。今夜にでも裁縫道具を借りて丈を詰めさせて貰おう。
どうにか着替え終えると、部屋を出て厨に向かって歩き出した。まだ朝御飯の匂いもしないし、準備中なのであればお手伝いをしようと着替えながら考えてはいた。鱗滝さんの家が見つかるまでお世話になるのなら、それくらいの事はしたい。せめて出来ることはしておかないと申し訳なさ過ぎて落ち着かない。幸いな事に鱗滝さんの家でもご飯の支度などは任されていたので、人並み程度ではあるが料理はできる。手際も悪くは無い方だと思う。
広い屋敷の中をウロウロと彷徨い、やっと厨らしき場所へ辿り着いたが、そこには誰もいなかった。というより、屋敷の中に人の気配すら感じなかった。縁壱さんは出掛けているのだろうか。家主がいない屋敷の厨を勝手に使う訳にはいかないしなぁと大人しく部屋に戻ろうと踵を返したが、腹が控えめに空腹を知らせてきた。この程度の空腹なら我慢できないことも無いし、勝手に人様の家の厨を漁るのは申し訳ないと思って部屋に戻ろうと歩みを進めようとしたが。
グゥ、と間抜けな音が腹から響いてしまって足を止めた。暫しの間その場で悩んで、腹を決めて厨へと戻った。朝御飯の準備はまだのようだし、いっその事このまま朝御飯を作ってしまおう。そう一人頷いて、釜の蓋をカパリと開いてみた。ありえないものを見て一度蓋を閉めた。一呼吸置いてから再び蓋を開けた。見間違いではなかった。釜の底に蜘蛛の巣が張っていた。鱗滝さんの家では到底ありえなかった光景だ。はて、これまでのお粥は違う釜で炊いていたのだろうかと辺りを見回したが、手に持っている釜以外に他のものは見当たらない。鍋もあったのでそちらも手に取ってみたが、同じ有様だった。包丁は新品同様に輝いていて使い込まれた形跡もない。竈も暫く使われた形跡がなかった。近くの棚に収納され、申し訳程度に揃えられた皿や飲水を貯めている水瓶だけは辛うじて使われた形跡があった。水瓶に入っている水を試しに一口飲んでみたが変な味もしない。恐らく最近汲まれたものだ。飲んでも問題はなさそうではある。
「……縁壱さん霞でも食ってるのかな」
思わず口から零れた声は呆れに染っている。厨の隅々まで探索すると、火を起こすための火打石と薪はあったが、食材は米と塩しか無いことが判明した。それと茶葉。鱗滝さんの家ではありえない事だ。思わず呆然と立ち尽くしてしまった。いや、まぁ、お粥はお米と塩と水があれば多少は何とかなるのは分かる。しかし、縁壱さんはこれまでどうやってご飯を食べていたのだろう。想像力も働かない。
「……とりあえず米炊くか」
釜をさっと水で洗い、火をおこして鱗滝さんの家でしていたように米を炊いた。問題はおかずだ。はて、食材も無いのにどうやって作るべきか。釜の前で頭を抱えて悩んでいると、背後から微かな物音がした。咄嗟に振り返ると、そこには縁壱さんが突っ立っていた。驚いているのか、その目は僅かに見開いている。いつからそこにいたんだろう。気配しなかったんだが。驚きのあまり声も出なかった。
縁壱さんはこちらを見つめたまま動こうとしない。なんと声をかけるべきか迷いに迷った。厨を勝手に使ってしまったことを謝罪すべきか。それとも朝の挨拶からすべきか。いや、この家に米と塩以外の食材があるかどうかを確認すべきか?いやそれは後回しだ。なら、何から口にすべきか……悩めば悩むほど口が重くなってしまう。何か、言わないと。焦って口を開こうとした時、縁壱さんが声を掛けてきた。
「傷は、大事無いか」
「えっ……あ、はい。大丈夫です」
この通り動いても平気です、と両手を上げたり下げたりして見せると、縁壱さんは小さく吐息を零した。表情は無に等しいが、どうやら安堵している……らしい。多分。
この屋敷で養生している間も思っていたが、縁壱さんは驚くほど表情が乏しい。話し声も平坦で起伏が少ない。おかげで縁壱さんが何を考えているのか一切分からない。縁壱さんの屋敷で世話になる以上、彼が不快になる言動や行動をしないようにしようとつぶさに彼の反応を観察してきたが、一ヶ月経った今でもよく分かっていない。微かな雰囲気の変化でどうにか「和んで、る……?」とか「今日は機嫌がい、いのか……?」と半信半疑で機嫌を察するぐらいにまでは漕ぎ着けたが、正直、それぐらいしか分からない。感情表現豊かな錆兎や義勇、真菰に囲まれて過ごしてきたせいか、余計にそう感じる。
いや、今は縁壱さんの機嫌はさておき。今直面している問題は朝御飯のおかずだ。このままでは朝御飯が塩おにぎりだけになってしまう。直面している問題を解決するべく口を開いた。
「あの、縁壱さん。お野菜とかありますか?ご飯は炊けたんですけど、食材が見つからなくておかず作れてないんです」
「……飯、炊けたのか」
「あ、勝手に厨使ってしまってすみません……朝御飯の準備まだのようでしたので、お手伝い出来ればと思って」
差し出がましい真似をしてしまってすみません、と慌てて頭を下げると「構わない」と平坦な声色で返された。
「悪いが、この屋敷に野菜は無い。後で花柱邸から野菜を貰うことになってはいるが、明日になる」
そう言われて落胆しなかったと言えば嘘になるが、表に出さないよう細心の注意を払った。
「では、朝御飯は塩おにぎりで済ませましょうか。ご飯丁度炊けた所なので、もう少し待っていてください。今握りますので」
「手伝おう」
「あ、ありがとうございます」
炊きたてのご飯を飯櫃に移し、さておにぎりを握ろうかと気合いを入れ直し襷がけを締め直したところで、縁壱さんから注がれる視線に気付いた。
「あの、何か……?」
「……水柱殿から、共に町へ行かないかと言付かっている。呉服屋で身丈にあった着物を見繕っておいた方が良いと」
どうやら私の今着ている着物のサイズが明らかに合っていないことを気にしているようだ。確かに、襷がけしないと手は出ないわ、腰辺りで一度折り返さないと丈は長すぎるわ、なかなか見苦しい格好をしていると自覚はしている。だとしても、わざわざ町へ服を買いに出掛けるとなると縁壱さん達にお金を出してもらう事になるのでそれは申し訳なさ過ぎる。裁縫道具があればちょっと丈を詰めたりできるので気にしないで欲しいのだが。それに、丈を詰めておけば後で身長が伸びても丈の調整ができる。今の見苦しい格好ももう少し経てば身長も伸びてマシになるかもしれない。決して見栄を張っている訳では無い。断じて。
「縁壱さん、上背がありますからね。少々見苦しいかもしれませんが、裁縫道具があれば丈を詰められますから……どうか気になさらないでください。それより、町へ行くのであれば食材や調味料を先に買いませんか?花柱さんから後で野菜を頂けるのでしたら、折角ですから調理出来るよう準備した方が……縁壱さん?」
話の途中で縁壱さんから注がれる視線が気になりすぎて、今度は何だろうかと声を掛けると、縁壱さんは口を開いた。
「律は、裁縫と料理ができるのか」
「え……?あ、えぇっと、多少ならですが……ご飯の支度を専ら担当してましたので、ある程度なら。裁縫は錆兎と義ゆ……弟分達がよく剣術稽古で服に穴をあけてたので、それを繕っているうちに嫌でも身に付いたといいますか……あの、何か……?」
「……いや。良い事だと思う」
「あ、ありがとうございます……?」
何故褒められたのだろう。首を傾げていると、縁壱さんが飯櫃に視線を移し、躊躇もなくご飯に向けて手を伸ばしたのでギョッとして縁壱さんの腕を掴んで阻止した。縁壱さんは驚いたように目を瞬かせてこちらを見た。その目は「何故止める」と語っている。いや、何故止めるも何も、飯櫃によそったばかりのご飯はまだ熱いし、手を水で濡らさずに握ると掌にご飯粒がつきやすい。しかも襷がけをしないでおにぎりをつくろうものなら着物に米粒がつく可能性も高い。ご飯粒がついた着物は悲惨だ。ご飯がすり潰された状態でついた時なんて洗濯のことを考えて憂鬱になるほどだ。そりゃあ止めるに決まってるだろうと思いを込めて見つめ返したが、伝わらなかったらしい。不思議そうに首を傾げられた。もしや、縁壱さんおにぎり初心者か……?
「縁壱さん、先に襷がけして袖を汚さないようにしましょう。襷紐はお持ちですか?」
「ある」
「では、まず襷がけを。その後は水で手を濡らしましょう。炊きたてのご飯は熱くて掌に引っ付きやすいので、それを予防する為に水で手を濡らします」
「……わかった」
説明すると、縁壱さんは驚くほど素直に受け入れた。懐から襷紐を取り出し、手際よく襷がけをしてから水で手を濡らした。そして私の方を見て、じ、と視線を送ってくる。もしかしてこちらの指示を仰いでいるのだろうか。赤みを帯びた瞳に見つめられてドギマギしながら「掌を出してください」と伝えると、縁壱さんは素直に掌を出した。そこへ少量の塩を振り、飯櫃からご飯を少し出して縁壱さんの掌の上にそっと置いた。熱いだろうに、縁壱さんはピクリともしないでそのままでいる。いや、そのまま三角に握って欲しいんだが。
「あの、もう握っても大丈夫ですよ」
「分かった」
こくりと頷き、縁壱さんが掌のご飯をにぎにぎと三角形に握り出す。手の動きはぎこちないが、まぁ握れているようなので問題ないだろう。
せっせと不格好な大きなおにぎりを握る縁壱さんの姿は、まるで初めて家事を手伝っている小さな子供のような危うさがあって目を離せない。いやまぁ、包丁を持たせているわけではないので危険は無いのだが。いや、大の大人に包丁を握らせてハラハラするのもそれはそれでどうなのだろう。そう思っていると昨日の花柱さん達の「縁壱さんを頼んだ」という言葉が脳裏に過った。今になって彼等の言葉の意味を分かった気がした。たぶんこういう意味ではないと思うが。
棚から少し大きめの皿を取り出し、「おにぎりはこちらへ置いてください」と縁壱さんに伝えて自分の掌も水で濡らし、塩を少し手に取っておにぎりを握り始める。米は四合ほど炊いたのだが、どうやらおにぎりを握るコツを掴んだらしい縁壱さんの手によってあっという間に飯櫃の中の米は全ておにぎりへと変化した。小さいおにぎりと大きなおにぎりの二種類が皿を埋め尽くす様は少し面白かった。水で手を洗い、手拭いで手を拭きながらおにぎり達を観察する。大きなおにぎりは所々不格好な形のものがほとんどだが、幾つかは綺麗な形に整えられている。小さなおにぎりは一定の大きさで均一に握られている。
どっちが握ったのか分かりやすいなぁと思わず口元を綻ばせると、視線を感じた。視線の感じた方へ目を向ければ、案の定、縁壱さんがこちらを見ていた。どうやら手は洗い終わったらしい。手拭いで手を拭きながら、こちらをじ、と見ていた。相変わらず無に等しい表情をしていたが、心做しか、その顔は安堵しているように見えた。いや、おにぎりを握って安堵はおかしいから、楽しそう、だろうか。いや、それも違う気がする。
この縁壱さんは何て思ってるんだろう、と見つめ返して首を傾げると、残念なことにその不思議な淡い表情は消えてしまった。
いつも通り感情が読み取りづらい雰囲気に戻った縁壱さんがおにぎりの載った皿を手にして、どこかへ向かって歩き出す。その後ろ姿についていくと、日当たりのいい縁側に出た。縁壱さんは迷うことなくその縁側へ座り、皿を置いた。どうやらそこで食べるつもりらしい。まぁ、天気もいいし、暖かな日に当たりながら食べるおにぎりというのも美味しそうではある。おにぎりの皿を挟むようにして縁壱さんの隣に腰掛け、近くにあった不格好な大きなおにぎりを手に取った。これは間違いなく縁壱さんが握ったものだろう。断言出来る。縁壱さんは小さなおにぎりを手に取っていた。
「いただきます」
呟くように言葉を紡ぎ、大きなおにぎりを頬張った。形は歪だが、塩加減は丁度いい。見た目は少しアレだが、美味しいおにぎりだ。たまにはシンプルに塩おむすびも悪くないな、と思いながらもくもくとおにぎりを食べ進めていると、縁壱さんがポツリと言った。
「おにぎりとは、こんなに美味いものだったのだな」
隣を見ると、縁壱さんはぼんやりと手の中の小さなおにぎりを見つめていた。小さなおにぎりは半分ほど齧られて歪な形をしている。縁壱さんはそのおにぎりを一口で頬張り、皿の上にあるおにぎりへと手を伸ばした。小さなおにぎりを選んで二口程で食べ終わり、また皿の上にある小さなおにぎりへ手を伸ばす。掌の大きさの関係もあるだろうが、私の握るおにぎりは縁壱さんにとって小さ過ぎて物足りないのではないかと思うのだが、縁壱さんは何故だか小さいおにぎりばかりを選んで頬張っていた。おかげで残りは大きなおにぎりしかない。まぁ、何にせよ、どうやら縁壱さんも塩おむすびがお気に召したらしい、と判断して口を開いた。
「今日、町に出たら、梅干し探しましょうか。鰹節と醤油があればオカカもできますよ。乾燥ワカメがあれば混ぜこみご飯も出来ますし」
そう言うと、縁壱さんはこちらを見た。表情は無に等しいが、きょとりと瞬いたその顔は驚いているようだった。
「おにぎりの具は、そんなに種類があるのか」
「探せばもっとあると思いますけど。マヨネーズとエビがあればエビマヨも出来ます。ただ、マヨネーズって今まで見かけたことないんですよね……需要がないから取り扱ってないんでしょうか」
「まよ、ね……?」
「ご存知ないですか?」
黄色がかった白いドレッシングみたいなものなんですけど、と伝えてみたものの、どうやら上手く伝わらなかったらしい。縁壱さんは不思議そうに首を傾げて「見たことないな」と言った。マヨネーズ、結構前世の記憶に出てきたので一般家庭にある調味料だと思っていたのだが、案外そうでも無いらしい。鱗滝さんの家にもなかった。あれあるとけっこうご飯のバリエーションも増えるのだが。都会にしか売っていないのだろうか。今日の買い物で見かけたら縁壱さんに紹介してみよう。
そう決意しておにぎりを頬張っていると、縁壱さんに頭を撫でられた。暖かくて、優しい手だった。脳裏に鱗滝さんの顔がチラついて少し胸が苦しくなったが、きっと飲み物もなくひたすらおにぎりを頬張っているせいだろうと気付かない振りをして、縁壱さんを見上げた。縁壱さんはおにぎりに手をつけず、こちらをじ、と見つめてただ頭を撫で続けている。もう食べないのだろうか。更にはまだ大きなおにぎりが残っているのだが。
「縁壱さん、もう食べないんですか?」
「私はいい。律が食べろ」
「えっ。あの、私こんなに食べられませんので……」
「子供は沢山ご飯を食べた方がいい」
「はぁ……えぇっと、私、あんまりご飯食べられないので……残すのも勿体ないですし、縁壱さん召し上がってもらえると助かります」
「そうか」
こくりと頷いた縁壱さんは大きなおにぎりをひょいと手に取ってもくもくと食べ始める。しかし、食べる速さは先程よりゆっくりだった。もしかして、お腹いっぱいなのだろうか。だとしたら無理やり食べさせてるみたいで悪い事をしたなと二個目の大きなおにぎりを手に取りながら反省した。正直、私はこの大きなおにぎり二つでお腹いっぱいになりそうだ。縁壱さんは体も大きいしきっとご飯を沢山食べるのだろうと思って勧めたのだが、どうやら間違いだったようだ。
二個目のおにぎりをどうにか食べ終わるとやはりお腹いっぱいになっていた。両手を合わせて「ごちそうさまでした」と言うと、縁壱さんに不思議なものを見るような目で見られた。もうお腹いっぱいなのかとでも言いたいのだろうか。
「お腹いっぱいです」
そう言うと、縁壱さんは私のお腹を見た。もしかして疑われているのだろうか。そう思ったが、縁壱さんは満足そうに一つ頷き、おにぎりを頬張る速さを早めた。突然どうしたのだろう。やはりお腹空いてたのだろうか。それとも胃のピークが近そうで無理やり詰め込んでいるのだろうか。お腹いっぱいなら無理しないでくださいね、と口に出しかけて、寸でのところで堪えた。縁壱さんが無の表情過ぎて苦しそうなのかも判断できない。もし本当にお腹空いてたとしたら止めるのもなぁ、と迷っている間も、縁壱さんはひたすらおにぎりを平らげていく。そんなにおにぎりを頬張って喉につまらないだろうか、と心配になってきたので、お茶でも入れてこようかと立ち上がりかけた時、ミシリ、と縁側の板が軋む音がした。咄嗟にそちらへ顔を向けると、そこには驚愕という表情の見本になりそうなほど目を見開いた水柱さんが立っていた。いつの間にいらっしゃったのだろうか。
「縁壱殿が、握り飯を食べている……?」
独り言のように呟いた水柱さんは声色も驚きに染まっていた。えっ。縁壱さんっておにぎり握るだけでなくおにぎりを食べるのも初心者なんですか?思わず問い掛けそうになって堪えた。流石にそれは無いだろうと冷静な自分が内心突っ込んだ。
縁壱さんも水柱さんに気付いたらしく、おにぎりを頬張りながら水柱さんの方に向けてぺこりと頭を下げた。いや、縁壱さんせめておにぎりを皿に一旦置きましょう。さすがにそれは水柱さんに失礼です。そう突っ込もうと思ったが、ちょっと迷って止めておいた。
代わりに、縁壱さんを見つめたままピクリとも動かなくなってしまった水柱さんの様子が気掛かりで、どうしたのだろうかと様子を伺っていると、水柱さんが油を刺し忘れたロボットのようなぎこちない動きでこちらを見た。
「……律。あれは律が握ったのか?」
あれ、とはおにぎりのことだろうか。縁壱さんが頬張っているおにぎりは少し形の綺麗な大きなおにぎりだった。あれは縁壱さんが握ったおにぎりだな、と判断して首を横に振った。
「いいえ。あれは縁壱さんが握ったおにぎりです」
なんだか下手な英文和訳みたいな言葉になってしまった。水柱さんに返した言葉に内心そう突っ込んでいると、水柱さんはまたピクリとも動かなくなってしまった。どうしたのだろう。とても驚いているようだが。
「縁壱殿が……握り飯を……に、にぎ……真か……あの縁壱殿が?それは真なのか律?」
「え、はい。朝ご飯にしようと炊いたお米を握ったんです。塩をかけただけの塩おむすびですが」
突然変な問い掛けをされて困惑しつつそう答えると、水柱さんは呆然としていた。縁壱さんがおにぎりを握って食べているのがよほど珍しい光景なのだろうか。まぁ、おにぎりを握っていた手つきがぎこちなかったのでこれまで作ったことは無いのだろうが。さすがにおにぎりくらいは縁壱さん食べたことあるだろうよと心の中で水柱さんへ語りかけていると、縁壱さんがおにぎりを食べ終えた。皿の上におにぎりは一つもない。どこか満足気な雰囲気を纏う縁壱さんに念の為聞いてみた。
「縁壱さん、お腹いっぱいになりましたか?」
「あぁ」
目を見てこくりと頷かれた。四合も炊いたご飯があっという間に無くなるとは、という驚きと、縁壱さん結構食べる方なんだなぁという意外な発見をした新鮮さが胸にじんわりと広がる。今日の晩御飯、作らせてもらえるのであれば少し多めに作っておいた方がいいのかもしれない。そう思っていると、縁壱さんに頭を撫でられた。
「美味かった」
僅かに口の端を上げ、そう言ってくれた縁壱さんに驚いた。なんだ、この人笑えたのか、等と失礼な考えが頭に過ってしまったのは許して欲しい。そう思ってしまうくらい、今まで観察してきた表情の中でかなり笑顔に近い表情だった。驚くほど淡い笑顔だったが。よほど塩おむすびに満足したらしい。たかが塩おむすびなのに美味しかったと言われるとは予想もしてなくて少しむず痒い心地になったが、まぁ、不味いと言われるよりは断然良い。塩おむすびだけであの縁壱さんから極淡い笑顔で美味しかったと言われたのだから、素直に喜んでおくべきだろう。鱗滝さんの家でご飯を作っていた時とはまた違った満足感を味わいながら、まぁ、これはこれでご飯の作り甲斐があるかと自然と口元が綻んだ。
「お粗末様でした」
そう笑いかけると、縁壱さんが目をまん丸にした。視界の隅で水柱さんも目を見開いていた。え。何で。私の笑顔そんなに驚くことだろうか。思わず真顔になると、縁壱さんはいつもの無に近い表情になった。水柱さんは何故か残念そうな顔をしていた。いや何故。居た堪れなくなっておにぎりを載せていた皿を厨に手早く片付けると、そのまま縁壱さんと水柱さんに連れられて町に出かける事になった。
おにぎりを握ろうとしていた時に縁壱さんに言われた通り、どうやら水柱さんは私の着物を買いに行くつもりのようだった。裁縫道具を貸してもらえば縁壱さんから頂いた着流しを自分で直しますと告げると水柱さんにはとても驚かれたが、縁壱さんの屋敷に裁縫道具がないと判明すると、縁壱さんに着物数着と共に裁縫道具まで買ってもらってしまった。申し訳なさすぎてしょんぼりしていたら縁壱さんと水柱さんに「気にするな」と頭を撫でられた。いや気にする。お金返せないのにどうやって頂いたものを返せばいいんだ。とりあえず鱗滝さんの家の時と同じように御飯係にでもなればいいだろうか。早速今晩から担当させてもらおう。そう固く心に決めて食材や調味料も買ってもらうと、水柱さんに「これからも縁壱殿を頼む」と深々と頭を下げられた。今にも泣きそうな水柱さんの心情が分からなさすぎてドン引きしながら何とか頭を上げてもらったが、水柱さんは「縁壱殿がご飯を食べる為ならば」とよく分からないことを言いながら、食材やら調理器具やら調味料やらを買い漁った挙句に荷物持ち係まで買って出てくれた。水柱さんがそこまでしてくれる理由が分からなさすぎてまたもやドン引きしてしまった。
縁壱さんの屋敷に着く頃にはすっかり日も暮れていたので、買い物のお財布係と荷物持ち係となってくれたお礼にと、水柱さんを晩御飯に招待したのだが、晩御飯の野菜鍋をつつく縁壱さんを見ながら水柱さんがとうとう泣き始めたので、流石に思い切って尋ねてみた。
「あの、水柱さん。何故そんなに泣くんですか……?縁壱さん野菜鍋食べてるだけですよ……?」
「す、すまない……縁壱殿がまともな食事をしている所を見たことがなくてな……まさか縁壱殿がこのように健啖家だったとは……以前見かけた際には、人参を生のまま齧っておられたので……うっ……そんな縁壱殿が、鍋料理を、食べて……うぅっ……!」
え。縁壱さん料理できないとかそういう次元の人じゃないぞそれ。思わず真顔になってしまった。なんだ、人参を生のまま齧るって。聞いたことないぞ。料理をするスタート時点に立ってすらいない。というか、縁壱さんがそこまで料理出来ないのならば、今までのお粥とか用意してくれていたのは一体誰なのだろう。恐る恐る水柱さんに尋ねてみると、お粥を用意してくれていたのは花柱さんだったという事が判明した。お粥どころか、体の垢を落とすためのお湯等も花柱さんが手配したものらしい。まさかの事実に衝撃が走った。縁壱さんが怪我人の面倒を見れるか不安に思った花柱さんが気遣って手配してくれていたと知り、花柱さんへ感謝の念を抱くと共に、縁壱さんという人がますます分からなくなった。もしかして縁壱さん、お湯の沸かし方も分からないのでは。いや、茶葉もあったしそれはさすがに……どうだろう。縁壱さん、むしろ何が出来るのだろう。剣の腕が立つ人なのは分かるが。とりあえず涙を流す水柱さんを落ち着かせようと背中を擦っていると、縁壱さんの椀の中身が無くなった事に気づいた。
「縁壱さん、おかわりしますか?」
咄嗟に手を差し伸べると、縁壱さんは目を瞬かせた。鍋の中身はまだ少し残っている。あと一人分ならおかわりを出せる量だ。
「律は、もういいのか」
「はい。お腹いっぱいです。水柱さんももうお腹いっぱいのようですから」
縁壱さんの問いかけにそう答えると、縁壱さんはじ、と私と水柱さんの腹を見て、一つ頷いて、椀を差し出した。
「頼む」
「はい」
椀を受け取り、野菜鍋の残りをよそって縁壱さんへ渡すと、縁壱さんは「ありがとう」と一言礼を述べて、野菜を口に運んだ。小動物のようにもくもくとご飯を食べ続けるその様子にまた水柱さんが泣き出した。
「律……これからも、縁壱殿を頼む……うぅっ」
花柱さん達の言っていた「縁壱さんを頼む」という言葉はこういう意味だったのだろうか。思わず真顔で水柱さんを見つめてしまった。