着ぐるみのお仕事
本日の橘黎斗のアルバイトは遊園地にいる着ぐるみの中の人である。
本日纏う着ぐるみは白兎の着ぐるみで、ふわふわ感を出すために外側の生地は純白の毛布のような布地で作られている。手袋や靴は予め外側の布地と合体しているタイプの為、外靴を履いた状態で着ぐるみの皮を纏い、セット品である頭部の被り物を被るだけで可愛い白兎さんが出来上がるという、良くいえば身1つで完成する簡単仕様、悪く言えば人間本体が骨組み代わりの安物仕様、という代物だ。
遊園地の運営が厳しい時に作成された低予算の着ぐるみなので着ぐるみの内側にウレタンも発泡スチロールも無い。あくまで外面だけふわふわ感を出しただけなので抱きしめられようものなら中身の人間の体つきがはっきり分かってしまう為抱き心地はよろしくない、という余計な話はさておき。
黎斗はまさに今、その着ぐるみを身に纏い、風船の束を持ち、小さな子供達へせっせと風船をプレゼントしていた。
子供達の笑顔を間近で見守れるこの仕事はわりと気に入っている。頭の被り物のせいで周りは見えづらいし、中はサウナのような熱さで汗だくになるし、着ぐるみの生地が汗で肌に張り付くこともあってウンザリすることもあるが、それを踏まえても子供達の楽しげな笑顔が見られるのは何よりもほっこりできた。被り物の中で連られて笑顔になってしまうこともあるぐらいだ。
その日も兎のキャラクターらしく動きを演じながら大きな広場で風船配りをしていた。天気も良く、遊園地に訪れる人が多い休日ともあって風船は次々と子供達の手に渡っていく。とうとう手持ちの風船が無くなってしまって子供達からブーイングを受けてしまうくらいには大盛況だった。
「ふうせーん!」
「もう無いのー?」
「せっかく待ってたのに!」
目の前で健気に並んで待っていた不満げな子供達から大きなブーイングの声が上がる。泣きそうな子供も出始める始末である。ごめんねぇと両手を合わせて可愛く謝罪のポーズを取るも、ブーイングが止む気配はない。たかが風船、されど風船。止む気配のない小さき者たちからのブーイングの圧にたじろぎ、「と、とってくるから待ってて!」と思わず声を出しかけた、その時の事だった。
ドン、と後ろから衝撃を受け、思わずよろめいた。どうやら誰かがぶつかってきたらしい──もしや、風船を求める子供がとうとう癇癪起こして背中のファスナーに狙いを定めて攻撃を始めたんじゃああるまいな、と着ぐるみの中で黎斗は真顔になった。
着ぐるみの背中には着脱の為の大きなファスナーがある。そこを開けられたら黎斗本体の背中が「こんにちはー」してしまい、自力で閉めることは不可能だ。最近の子供達の中には着ぐるみの中に人がいることを知った上でファスナーを狙ってくる悪質な確信犯もいる。着ぐるみを着ている時はいつも背後に気を配る癖がついてしまい、背中に衝撃が走れば「ファスナーが狙われてる」と条件反射で警戒するくらいには、黎斗も何度か狙われた経験をしていた。あれは立派な業務妨害だと常々憎らしく思っている。
「今の衝撃……もしや」と、つい殺気立ってしまうのも見逃して欲しい。実は既に今日5回もファスナーを狙われている。しかもどれも悪意に満ちた悪ガキによるものだった。
そういう訳で、こういう時は逃げられないように子供の肩を抑えて捕まえるのが手っ取り早いと黎斗は学習している。ファスナー狙いでなかった時のことも考えて「人にぶつかった時はごめんなさいしようね」と優しく言い聞かせるシミュレーションを脳内で展開しながら、後ろにいるであろう子供の肩を抑えようと、万歳のように両手を振り上げ、素早く後ろを振り返ると同時に振り下ろした。
が。ボスり、硬い感触と共に着ぐるみの手が触れたのは、明らかに成人済みと思しき人物の両肩だった。振り返って黎斗の視界に真っ先に見えたのは子供の顔ではなく、明らかに成人済と思しき男性の顔だった。
「え……」
知らない男性だった。歳は分からないが身長は黎斗とそう変わらないくらいだろうか。黒っぽい服装に身を包んでいるせいか青ざめた顔色が目につき、片脇腹を両手で押えたその姿は今にも倒れそうにふらついていた。子供じゃ、ない。
予想外な相手に驚いてしまって声も出なかった──男が呻き声を上げてこちらに倒れかかってくるまでは。
「う、わ……!」
咄嗟に腕を突っ張らせて支えようとしたが踏ん張れず、無様にも尻もちを着いた。黎斗の下半身の上に覆い被さるようにうつ伏せで倒れ込んできた男はピクリとも動かなくなった。
何が起きたのか、目を白黒させながらも現状を理解しようと男の全身をサッと眺めた黎斗はそこで、男が庇うように押さえていた片脇腹の異様な光景に気づいた。男が両手で押えていたそこから黒い柄のような物が生えており、男の手の隙間から赤い液体がぽたぽたと流れ出ている。
特に意識しないままそこへ片手で触れると、着ぐるみのふわふわした白い大きな指先が薄暗い赤へ滲んでいくのが見えた。赤。赤に。着ぐるみの手袋越しでも黎斗の片手がヌルッとした湿り気を感知した。赤。男の脇腹から滲み出た薄暗い赤が着ぐるみの白くふわふわとした足をしっとりと侵食していく。黎斗本体の足にもしっとりと湿り気が降りてくる。赤。広がっていく赤。これは。
ヒュッと空気を飲み込むと同時に、黎斗は現状をこう理解した。
黎斗の上で、男が事切れている。
後頭部の後ろがじんわりと痺れていくような感覚がして、夢を見ているかのように周りの音や映像が遠くに感じた。鼓膜裏に心臓が移動してきたかのようにドクリと大きく脈打つ音だけがはっきりと、聞こえて。
男の姿に何かがダブって見えた気がした。倒れる人影。広がる暗い赤。自分達を囲むように立つ数人の男達の影。黎斗はその男達を知っている。月に1度会う人達だ。目だけが笑っていない笑みを貼り付け、男達は言うのだ。難しい事は言っていないのに、と。過去に数回、見た光景だ。お金を渡しに行く時に見た。自分と同じような目に遭った人の、成れの果ての姿。ただ、その時の黎斗は男達の背後からそれを見ていた。声もかけずに。息を殺すようにひっそりと。こうして囲まれてなどはいない。男達は背後から黎斗が見ていると分かっていながら今更気付いたように反応するのだ。見ていたのか、と。君は持ってきたかな、と。
ズキリ、と鈍い頭痛が。
瞬きをした次の瞬間には、黎斗を囲むように立つ、影など無い。幻覚。まやかしだ。今自分が見たのは、全て。過去の記憶。フラッシュバック。倒れてきた男が呼び水となって見えたのか、黎斗には分からない。
それでも自分の下半身に覆いかぶさっている男が、脳裏に過ぎる過去の映像とシンクロする。この男もまやかしなのではないか。下半身の感覚が鈍い。その重みに現実味がなくて、自分の上に覆い被さる男から周りへ視線をゆらりと移す。すぐ傍を通り過ぎながら何事かとこちらを伺う大人達の視線。何人かが男の違和感に気付き顔色を変えた。軽快な遊園地の音楽と不釣り合いなその大人達の顔から下半身に覆い被さる男へ、それから周りにいた子供達へ視線を移し、真っ直ぐな子供達の目が自分の下半身の上の男を見ていると認識した瞬間、黎斗は我に返った。まやかしでは無い。
気がついたら子供たちの視線から男を遮るように上半身を丸めて叫んでいた。
「見るなっ!」
その声が引き金だった。周りの大人達から悲鳴が上がり、その場はパニックになった。黎斗と男の周りから人が一斉に離れ、辺りは騒然となった。
黎斗は震える手で頭の被り物を外し、汗対策として頭に巻いていたタオルを外して男の顔から脇腹にかけた。男の脇腹付近のタオルが直ぐに赤く染っていくのを見てたじろぐ。すごい出血だ。事切れている、と黎斗はさっき咄嗟に思ったが、本当に亡くなっているのだろうか。もしかしたら。呼吸を確認したかったが、素手を出す為には着ている着ぐるみを一度全て脱ぐ必要があり、背後にしか着脱用のファスナーがないこの着ぐるみでは、下半身を固定され、身動きが取れない今の黎斗には不可能だった。どうしよう。どうしたら。パニックになる黎斗に駆け寄る小さな1つの人影があった。
「黎斗さん!」
隣で名前を呼ばれて黎斗は身体をビクリと震わせた。錆び付いたブリキ人形のようにぎごちない動きで視線を向けた先に、見知った少年がいた。
「コナン、君」
黒縁メガネを掛けた小学校低学年くらいの少年。咄嗟に名を呼んでしまっていた。眼鏡の奥の視線がタオルをかけられた男を見つめていることに気付き、慌てて「コナン君見ちゃダメだ!離れて!」と声を上げてその視線を遮ろうと手を伸ばした。少年、コナンはハッとした様子でこちらに視線を移し、何かを言いかけた。
そんなコナンの後ろから一人の人物が飛び出してきた。コナンの隣に膝を着くなり、自分が着ていた上着を素早く脱いで赤く滲み始めていたタオルの上に重ねる。
その意図に気付き、弾かれたようにその人物を見つめる。柔らかそうな明るい茶髪。眼鏡の奥に見える柔和そうな細い目。黎斗より上背があるように見えるすらっとした体付き。理知的で優しげな雰囲気を纏う端正な顔立ちの、黎斗より幾らか歳上に見えるその青年に目を奪われて、彼が男の顔付近のタオルを少し捲って首筋の脈を確認する様を呆然と眺めていた。
少し時間を置いて青年が首を横に振った。
「駄目ですね」
その言葉に息を飲んだ。やはり、亡くなっているのか。
途端に、自分の下半身に覆い被さる男が恐ろしいモノに成り代わったような気がして。じわりじわりと着ぐるみの足を浸透して黎斗本体の足を濡らしていくその生暖かな液体の感触にゾワリと肌が泡立つ。
物言わぬ肉塊となったそれから離れたいと、生理的嫌悪に近い恐怖の感情が背筋と横隔膜を震わせた。まるで、そのままでいたらそれに引っ張られて何処かへ連れていかれそうな。ゾワリ、背筋を舐めるように這う寒気が脳裏で誰かを叫ばせる。俺は違う。俺は持ってきたと。まだ自分は生かされている。俺を道連れにするな、と。下半身のそれから一刻も早く離れなければ。逃げなければ。そうしなければ連れて行かれてしまうと、それを蹴り飛ばしてでも自分の上から退かせてその場から逃げ出したいと強い衝動が駆り立てる。しかし、体がその通りに動くことは無い。体が動くことを拒否している。心は逃げたがっているのに、体がついてこないのだ。
息を吸っているはずなのに上手く吸えていない気がして、声にならない吐息が喉元から出ていく。息が苦しいと分かっているのにどうにも出来ない。自分に覆い被さるそれから目を離せなくなっていて、呼吸の間隔が浅く、早くなっていることに黎斗自身気付けずにいた。代わりに気付いたのは黎斗を観察するように静かに見つめていた青年だった。
「コナン君」
骸となった男の様子を脳裏に刻みつけるように見つめていたコナンへ、青年が鋭く小声で呼びかける。我に返ったコナンは直ぐに黎斗の様子に気付いた。
「黎斗さん」
呼びかけられ、ビクリと体を大きく震えさせた黎斗がゆっくりとコナンへ顔を向ける。しかし、その目線はコナンに向かっているとは言い難い。ふらつく視線がぼんやりとコナンの方向へ向けられているだけで、焦点が合っているとは言えない。冷や汗が黎斗の額から流れ落ち、首筋を伝っていく。呼吸が乱れ、浅く、早く、呼吸を上手く吐き出せていない。過呼吸になりかけている、と誰が見ても明らかだった。
普段は温厚で、話しかけると優しい顔をしてしゃがみこんで目線を合わせてくれる優しい青年が、端正な顔を強ばらせて言葉もなくパニックに陥る姿にコナンも目を見開いた。
「警察に、電話、しなきゃ」と黎斗が震える声で呟きながら辺りに視線を彷徨わせるのを見て漸く、コナンは1つの判断を下すことができた。
「ボクと沖矢さんで警察とスタッフの人呼べるから、黎斗さんはあそこで休もう?」
コナンが指先で示したのは、ここから少し離れた木陰のベンチだ。黎斗はゆるゆると視線をそこへ向けて咄嗟に「でも」と囁く。労わりの声色で紡がれたその提案に、黎斗も自分がパニックになっていることを自覚した。自分より遥かに幼い子供に気を遣われているという事実に後頭部を殴られたように感じて、我に返る。遊園地スタッフとしてその提案に従うには少し抵抗があった。
躊躇う黎斗を諭すように青年、沖矢も柔らかい声色で言葉を紡ぐ。
「スタッフの人ももう直ぐ駆けつけるみたいですし、あそこで休みましょう。顔色が真っ青ですよ」
そう言いながら、沖矢は黎斗の下半身に覆い被さるそれをそっと持ち上げ、脇に退かした。その際、黎斗は男が覆い被さっていた自分の下半身、着ぐるみの足が2色の歪なコントラストを描いているのを見た。太陽の光を受けて輝く白と、薄暗い赤。思わず目眩を覚えた。視界が暗く明滅して、込み上げる吐き気を誤魔化そうと口元に手を当てようとして、上げた片手に視線を向けて固まる。その手も薄暗い赤で汚れている。喉まで飲みあげてきた胃酸を何とか飲み下し、胃酸でじわりと痛む喉に耐えきれず咳き込んだ。濡れた足の感覚が先程のパニックを呼び覚ますように黎斗を追い詰める。カタカタと全身が細かく震えて、力が入らない。
そんな黎斗に気付いたのか、沖矢が膝裏と背中に腕を回し、平然と持ち上げて歩き出した。人並みより細いとはいえ、170センチもある黎斗を軽々と持ち上げて難なく歩き出す沖矢に驚きのあまり言葉を失った。沖矢の後ろでコナンと周囲の人間があんぐりと口を開けてこちらをガン見しているのが見えて、さすがに焦った。沖矢の気遣いも分かる。有難い。だが、と抗議の視線を沖矢の顔に送ると、気付いた彼は微笑んだ。
「肩を貸すことも出来たんですが、こちらの方が早いかと思いまして」
と言っても、男性にする行為ではありませんよね、すみませんと素直に謝罪をしつつも下ろす気配がない沖矢に、黎斗は抗議の気持ちが萎んでいくのを感じた。歩く振動も少なく、危なげなくしっかりと抱き抱える逞しい腕の感覚に落ち着かないと言えば嘘になるが、さすがに男としてのプライドが許さない。もっと鍛えるべきか、と真剣に悩み始めた黎斗の脳裏で誰かが苦笑した。だから鍛える前にご飯をしっかり食べなさい、と。
沖矢が目的地の木陰のベンチにつき、そっと壊れ物を扱うような手つきで黎斗をベンチに座らせた。それからふと黎斗を見下ろすなり、何かに気付いた様子で「ここで待っててください」と言うなりどこかへ走っていった。黎斗にはそれを止める力も元気もなかった。
俯くと自分の手足の惨状が嫌でも目に入るので、意識して上を向いた。血、なんて見ても平気な性質だったはずなのに、と一人心の中でごちる。と言っても、さすがに先程の大量の出血は見たことがない。パニックになっても仕方ないと自分を慰めつつ、先程までいた人集りに走ってきたスタッフがその中心部へ掻き分けるようにして入っていくのが見えて、それにほっとした。きっと中では黎斗の代わりにコナンが状況説明をしているであろう。
本当なら、自分があそこで他のスタッフに状況説明して警察を呼ぶべきだったのに。
思わずため息が零れて、下を俯いてしまった。視界に入った着ぐるみの白さと血の薄暗い赤にドキリと心臓が跳ねる。手は震えるが、先程の幻影を見るほどパニックにはならない。落ち着く為にも深呼吸をしようと、鼻で息を吸い込んだら赤錆びた臭いがして思わず息を止めた……暫く悪夢に魘されそうだ。
不甲斐なさで泣きそうになるのを堪えるように、俯いて目を固く閉じていた。熱くなった目頭が落ち着くまでそうしていようと暫くそのままでいると「あの、」と前方から聞き覚えのある声がした。咄嗟に瞼を開いて顔を上げると、少し大きめの遊園地の買い物袋を片手に提げた沖矢が、こちらにキャップを開けたペットボトルを差し出していた。透明なそれに水だと直ぐに分かった。
「あ、りがとう、ございます」
何とか声を絞り出しながら受け取って1口含む。ゆっくりの喉の奥に流し込んで、ひと呼吸吐いた。少し気が紛らわすことができてホッとした。明らかに少し落ち着いたと分かる黎斗の様子を見た沖矢は隣に腰かけ、買い物袋から長袖のファスナー付きパーカーとズボンを取りだした。ジャージ素材のそれの柄が遊園地のものである事に気づき、お土産として販売されている衣服だと理解出来た時には、沖矢はしれっと黎斗の背中のファスナーを下げていた。
い や 何 し て ん だ こ の 人 。
弾かれるように沖矢から距離を取ろうと腰を上げた時には、纏っていた着ぐるみは足元にずるりと落ちていた。黎斗が立ち上がると同時に沖矢の手が着ぐるみの袖を下に向けて引っ張り、完全に脱げたのだ。これではまるで幼稚園生の着替えである。浮かんだ比喩に頭を抱えたい気分だった。勿論、黎斗は全裸ではない。遊園地から支給された半袖ハーフパンツを着ぐるみの下に着用していたので、現在の格好は傍から見ても「少し肌寒そうだな」ぐらいにしか思われない服装である。
このアルバイトを始めた当初、着ぐるみの中は蒸し暑いから下着みたいな格好の方が楽だぞとアドバイスしてくれた先輩がいたが、支給された衣服をきちんと着用しようと心に決めていた過去の自分に物凄く感謝することで一瞬だけ現実逃避した。
頬が引き攣っていることを自覚しながらも、抑えられない怒気を孕んだ声で「何してんすか」と一応聞いてみた。沖矢は悪びれもせず「あぁ、中に服を着用されていたんですね、良かった」と安心したようにニコニコと微笑んでいる。全く答えになっていない。
目の前の人は話が通じる相手だろうか。ついこの間まで違う人へ向けていた言葉を今度は半目と共に沖矢へ向けた。
「さ、座ってください」とこちらの様子を気にも留めない様子で買い物袋から新たなペットボトルと、またもや遊園地のお土産品であるタオルを取り出し、満遍なく湿らせるようにタオルを濡らし始めた沖矢の動向を直立不動で監視した。今度は何する気だ。まさかこの半袖ハーフパンツすら剥ごうっていうのか。警戒心を剥き出しにするその姿に沖矢が内心「猫みたいだな」と思った事など黎斗は勿論知る由もない。
仕方ない、と言いたげに肩を竦めた沖矢はさり気なく黎斗の手を取った。着ぐるみ越しに血が浸透して赤く汚れている手だ。その手を払おうとする黎斗の行動を見越してか、濡らしたタオルを素早くその腕に当て、丁寧に、優しく赤を拭いとっていく。唖然とタオルを見下ろす様子が可笑しかったのか、沖矢の唇が緩やかな弧を描いた。
「このままではこれ、固まってしまいますから」
最もなことを言われてしまって反論の言葉もない。大人しくベンチに腰掛けると沖矢は満足そうに微笑み、使っていたタオルを裏返して畳直し、こちらに差し出してきた。もう片方の手にはいつの間にか別の新しいタオルを持っている。
「君は足の方をお願いします。僕は腕を拭きま」
「いや自分で拭けますので」
言葉を被せてタオルを奪い取り、せっせと血を拭いとっていく。幸いなことにハーフパンツまでは浸透しなかったようで一安心した。粗方拭い取ると、目の前に汗ふきシートが差し出された。ここまで来るといっそ感心するレベルの気遣いだ。短く感謝の言葉を述べて簡単に汗の処理と、念の為タオルで拭き取った所も拭いた。差し出されたゴミ袋につい誘導されるようにゴミを捨ててしまって一瞬ハッとしたが、ゴミは全て沖矢の隣へ綺麗に集められていた。血を拭き取ったタオルも足元にあった着ぐるみもいつの間にかその中へ回収されており二度見してしまった。全く気付けなかった。
それから沖矢に手渡されたパーカーとズボンを大人しく受け取り、今の服の上から重ね着して着用した。ズボンの中のハーフパンツは少しモゾモゾするが、我慢できないほどでない。
漸く落ち着いてベンチに座ることが出来てほっと息をつき、隣へ視線を向けた。それが分かっていたかのように沖矢は微笑んでいた。
「先程よりも顔色が回復しましたね」
「……お陰様で。あの、ありがとうございます。助かりました」
「いえいえ、困った時はお互い様ですから」
そう穏やかに会話してそこで初めて、沖矢は自己紹介をした。大学院生だという沖矢に黎斗は目を見張った。大学に通っていた頃にそういう道もあると聞いてはいたが、その時はまるで考えもしなかった道を歩む沖矢に少し興味が湧いて、先程までの警戒心は溶け消えた。
「俺は、」
「橘黎斗君、ですよね?コナン君からお話は聞いています。何でも屋をされているとか」
沖矢の言葉に思わず目を見張った。確かに、コナンには何でも屋の事を告げている。過去には、彼が居候している毛利探偵事務所に使いっ走りとして度々雇われたこともあった。と言っても、毛利小五郎が眠りの小五郎として有名になる前のことである。その時にコナンとは顔見知りとなり、今では兄のように慕ってくれるようになった。が、コナンは決して人のことをペラペラと話す子ではない。そんな彼が沖矢に自分の事を話していることが少し意外に思えて、コナンと沖矢の関係性が気になった。
黎斗の聞きたいことが分かったのか、沖矢は変わらず微笑を浮かべたまま口を開く。
「僕は今、事情があって工藤新一君のお家に居候してまして。コナン君にはその掛橋となってもらったことがきっかけです」
最近めっきり姿を見せなくなった名探偵高校生の名前を聞くと、脳裏に毛利小五郎の一人娘が自然と浮かぶ。工藤新一本人とはまだ会ったことは無いが、一度、コナンの案内で工藤新一邸を訪れたことはある。が、あの大きな邸宅に居候しているのか。
あれだけ家がデカいと清掃大変そうですね等と世間話をしていると、パトカーのサイレンが聞こえてきた。警察が来てくれたようだ。先程の光景を思い出して目が眩む思いだが、第一発見者というか、事情を詳しく話せるのは自分しかいない。そのうちここへやってくるだろう警察にすぐにでも話ができるよう現場に向かっていないと。そう思って立ち上がろうとした矢先に、沖矢にそっと手を引かれた。咄嗟に彼を見ると、控えめな微笑が返ってきた。
「まだここで休んでいましょう。先程より回復したとはいえ、まだ顔色悪いですよ」
「いや、そうも言ってらんないですよ。警察も来ましたし」
「鏡があったらお見せしたいぐらいなんですが……ほんとうに倒れそうですよ君」
「もともとこういう顔ですけど」
「それは……失礼しました」
淡々とそんな会話をしつつ立ち上がる。沖矢も併せて立ち上がり、そっと黎斗の背を支えるように手を回してきた。有難いし心強いが、そこまでヤワじゃない、俺も一人の男だと丁重にお断りして現場に向けて歩き出す。
現場に着いた途端、まだそこにある被害者の姿に目眩を起こし、事件が解決するまで沖矢の腕に支え続けられた黎斗だった。
スコープ越しに覗いた"あの時"の顔と目の前の青年の顔を見比べながら、沖矢昴に扮する赤井秀一は不思議な気持ちで橘黎斗を観察していた。
FBIの情報局より、黒の組織とはまた別に追いかけていた組織のマフィアが、米花町でベルモットと運び屋を通して取引をするという情報を掴んだ。そして、公安がその取引を追いかけているという情報も。個人的には黒の組織側の動きを追いたいところだったが、上司であるジェイムズから運び屋の確認をするようにと命令を受けて、取引現場である公園の近くにある空き家に潜んで身を隠し、スコープで取引現場のベンチ周辺を覗いた先に黎斗は現れた。
運び屋としてはあまりにも華奢と形容するに相応しい細身の体躯。無駄な肉がない引き締まった体どころか、もう少し肉をつけるべきでは、と赤井ですら彼の体つきに妙なことを思い、まるでやせ細った野良猫のようだと浮かんだ比喩に思わずスコープから顔を離し、浮かんだ比喩に自問自答する程度には、橘黎斗という人物はあまりにも運び屋という言葉からかけ離れた姿をしていた。
気を取り直してスコープを覗くと、黎斗は取引場所のベンチに座り、手にしていたバッグをベンチの下へ滑り込ませた。
いかにも安心したと言わんばかりにベンチに深く座り直し、背もたれにもたれ掛かるように背を預けたその姿は、人間のいない路地裏で寛ぐ野良猫を連想させた。任務完了とはいえ、あまりにも油断している。玄人は任務完了しても基地に戻るまで油断はしないものだ。やはり素人だな、と思わず口が歪むと同時に、橘黎斗という人物がどこまで"出来る"人間なのか、試してみたい気持ちも湧いてきた。
素人とはいえ、彼がここまで到着するのに公安を完全に撒いたとキャメルから報告があった。そう報告するキャメルも電車内で撒かれてしまった1人である。今回は運び屋として雇われたが、本業は何でも屋とも聞く。話を聞く限り、この米花町の地理や電車に詳しいようだが、それ以外にも能はあるのか。
キャップを外そうとした黎斗の項に向けて、敢えて殺気を込めてスコープを覗いてみた。ここの空き家から黎斗のいる場所までそう離れていない。"こういう"気配には敏いのか。路地裏へ小石を放り込む子供の気持ちで赤井は試した。ジェイムズからは抹殺の指令を受けていない為、あくまで覗くだけだ。さぁお前はどうする、と問い掛けるように唇を歪ませた。
スコープ越しの黎斗は一瞬、体を強ばらせた。キョロリ、と辺りを素早く見回してその場から足早に立ち去った。公園からその姿が消えるまで、敢えてスコープ越しに追い続けた。思わず「ホー」と少しの感嘆を混ぜた声が漏れた。素人にしては感が鋭いようだ。それなりの訓練を積めばまぁまぁ使い物になっただろうに、とすら思う。何でも屋とはまた惜しいなと笑みを浮かべた赤井の脳裏には、スコープ越しに見えた、緊張で固くなった端正な顔が刻まれている。
そんな張り詰めた運び屋の時の顔と、目の前にある顔は同じ端正な顔立ちをしている。同じ人物だから当然だろう。だが、運び屋の時とは明らかに違う顔をしている、と赤井は興味深い気持ちで眺めている。
コナン率いる少年探偵団の子供達と遊園地へ運転手ポジションとして同行したら、偶然にも殺人事件に居合わせ、まさか第一発見者とも言うべき立ち位置に立たされた黎斗と遭遇したのだが。
運び屋等という仕事をしたぐらいだ、"そういう現場"にも立ち会ったことくらいあるだろうと人混みの中から観察していたが、その反応はあまりにも一般人だった。遥かに年下であるコナンの方がしっかりして見えるほど、橘黎斗という人物は目の前に突然現れた死に動揺し、怯えていた。おや、と興味を惹かれた時には、隣を歩いていたはずの小さな名探偵が飛び出して行った。黎斗の名を呼んだコナンに驚きはしたものの、なるほど坊やとも繋がりがあるのかと不思議な縁を面白がりつつ後を追って飛び出していた。
それから怯える彼を宥めて様子を伺いながら甲斐甲斐しく世話をすると、どうやらコナンの知り合いという立ち位置が彼の内側に大きな影響を及ぼしたようで、猫のように毛を逆立てて警戒していた様子が徐々に落ち着き、体に触れても警戒されない程度にまでは心を開いてくれるようになった。
小さな名探偵が訪れた警察を誘導して名推理を披露している今も、隅に設置されたベンチの更に端っこで黎斗は身を潜めるようにしてこっそり座っている。敢えて距離をそんなに空けずに隣に座ってみると、ちらりと顔は見られたが、その目に警戒の色はない。野良猫を手懐けた心地で沖矢として微笑を見せた。
「もうすぐ事件解決ですよ」
「そうですか……さすがですね、コナン君」
口元に微かに浮かんだ微笑を見つめる。出会って数時間経つが、初めて見せたその微笑は彼の年齢の割には大人びたもので、思わず見入ってしまう魅力があった。
さすが、と言葉をつけるあたり、彼の中身のことは知っているのだろうか。それともあの年頃の子供にしては勘が冴え渡っていると認識した上での信頼なのか。どちらとも言えないその言葉に深く突っ込むことはせず、曖昧に頷き返すだけに留めておいた。
コナンが警察を誘導してとうとう犯人を見つけると、安心したのか、隣からそっと吐息を零す微かな声が聞こえてきた。第一発見者ともあり、警察がきて事情聴取で話を聞かれた時には犯人候補の1人とも疑われていたのだ、自分ではないとはっきり証明され、漸く安心できたのだろう。どこからどう見ても一般人のその反応に嘘臭さはない。どこかの組織の女の変装ばりに演技が上手ければ話は別だが。
こうして観察していてもはっきりとその道のプロどころかズブの素人だと分かるのに、運び屋の時のように追跡のプロを撒ける技術は、素人にしてはなかなかの腕前だ。キャメルの報告を聞く限りではまるでプロの技を見て覚えた素人の独学のようにも思えた。手馴れているような印象を受けるのは、しっかりと自分の中で使い込んで自分のやり方として身につけたからなのだろう。一体どこで覚えたのやら。
ジェイムズからは問題のない一般人であれば捜査対象から外してもらって構わないと指示を受けている上、黎斗が黒の組織に近しいという繋がりも見えてこないことからも限りなく白に近い一般人、というのが黎斗に対する赤井の判断ではある。しかし、100%の確率ではない。用心に越したことはないだろうと調査を続けることをついさっき決断した。
警察が犯人を連行していくのを見届けると、彼はそっと立ち上がった。事情聴取も終わったし、このまま帰れそうだと告げたその言葉を聞き逃さず、今にもその場から立ち去りそうな彼にすかさず口を開いた。
「帰り道、送っていきましょうか」
子供達も送りますので、と続けると、パチリと瞬きを返される。怪しまれないように敢えて坊や達と一緒に帰れると情報を付けてみたのだが、逆に警戒されただろうか。様子を伺っていると、彼は緩く笑ってその誘いを断った。
「この後別のアルバイトが入ってますんで、大丈夫です」
「……今日はさすがにお休みしては?」
思わずそう口にしたが、黎斗は頑として首を縦に振らない。「休めないんで」と小さな拒絶とも取れる断りの言葉に、彼の中での自分の立ち位置を確認できた。信頼はされたが、心配の言葉を聞き入れてもらえるほどではない、か。やはり猫のようだなと思わず心の中で呟く。
黎斗は今にも歩き出して行ってしまいそうだった。先程、アルバイトの先輩らしき男から「今日はもう上がっていい」と言われているのはこっそりと聞いていたし、その言葉の通りこのまま帰り、違うアルバイトへと働きに出かけるのだろう。
「今日は本当にありがとうございました、沖矢さん。服代とか飲み物代とかもろもろのお金、お支払いしますね」
「いえ、僕がしたくて勝手にした事ですから、どうかお気になさらず」
にこやかに笑いかけたが、恩を売っておいて損は無いだろうというこちらの下心に気付いたのか、はたまた誰かに借りをつくることを良しとしない性格なのか、黎斗の顔色は晴れない。
このままでは今すぐにでもお金を支払われて疎遠にされてしまいそうだなと先を見越し、相手が折れそうで、かつこちらの恩を売ることが出来る手を打つことにした。
「──では、"何でも屋"の黎斗君への依頼を1回分無料にして頂ける、なんてのは如何ですか?」
こちらの提案に黎斗は一瞬固まった。これならば今度会う時にいくらでも理由をでっち上げられる上、相手の気苦労もそう負わないだろうと思っての提案だった。了承を得られればこのまま連絡先交換もできるとも見込んでの申し出だ。
黎斗はそう時間をかけないうちに1つ頷いた。
「いいですよ。沖矢さんがそれでいいのなら」
「決まりですね。では、連絡先を交換してもいいですか?」
「えぇ、もちろんです。あ、でも今スマホ持ってないんで、コナン君から連絡先聞いてもらっていいですよ。番号変わってないですし」
こちらの思惑など疑っていない様子でそう告げた黎斗に「分かりました」と頷き返す。少々不用心ともとれるその無警戒さに彼の内側へ入れたことを再確認できたものの、それで大丈夫なのかとつい問い掛けてしまいたくなる気持ちもある。それだけ信用して貰えたということは喜ばしいとは思うのだが。
「それでは」と会釈して颯爽と去っていく彼と入れ違うようにしてコナンが戻ってくる。すれ違う際に2人とも足を止め、短く会話を交わす。内容は聞こえないが、恐らく自分の電話番号を沖矢へ教えておいて欲しいとでも伝えているのだろうか。会話終わりに「またね」と互いに笑顔で手を振っている光景は、年の離れた仲のいい兄弟に見えなくもない。
コナンへ向けられた無邪気ともとれるその透明な笑顔があまりにも綺麗なものだから、目を離すタイミングを失ってしまって黎斗の背が見えなくなるまでその姿を目で追っていた。
──あそこまでの笑顔を引き出せるほどの信頼は築けないかもしれないが、あの笑顔が向けられた時はさぞ気持ちがいいのだろうな、とらしくもないことを考えてしまって、一人笑ってしまった。
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