新聞配達のお仕事


橘黎斗の朝は早い。

新聞配達のアルバイトがある為、それはもうとにかく早い。

朝日が昇ると同時に新聞をこれでもかと詰め込んだ大きめの肩掛けバッグを肩に下げ、ポストへ素早く静かに新聞を詰め込んでいく。一見地味なアルバイトだが、意外と根性と体力を使う仕事だ。何せ、配達時間が決まっている。しかも早朝。更にいえば、新聞を購読しているお宅のみに配ると決まっている。エリアで担当をわけられているのだが、そのエリアも意外と幅広い。

新聞を購読しているお宅は目印としてポストにシールを貼ってもらっているのだが、これがまた目立ちにくい場所に貼られていたりすると見逃してしまうこともある。その為、自分の目でしっかりとシールを確認してから投函できるよう、大体の移動手段は専ら自分の足になる。

ポストが密集しているエリアはランニングしながら業務に勤しむが、次のエリアまでポストがない場所はランニングの時より歩幅を大きく広げて駆け抜ける。新聞配達を早めに終えないと朝食の時間が減る為だ。

黎斗はいつもこのアルバイトを終えてから必ず朝食を取るようにしている。朝食を食べないと気が済まない性分というのもあるが、朝食をしっかり食べておかないと力が入らないから、等と可愛らしい理由はない。ただ単に今は亡き母に「朝ごはんはしっかり食べるのよ」と口酸っぱく言われてきて、それが習慣づいているだけの話である。腹に詰め込む内容はさほど拘らない。とりあえず腹が満たされればそれで満足する。

起床して顔を洗い歯を磨き、動きやすい服装に着替えて直ぐ新聞配達の仕事に出かける為、朝食を食べる時間はほぼ無いのだが、新聞配達から次の仕事までの移動時間に手早く朝食の携帯食料を2本詰め込む。正直、昼までは持ったことは無いが、無いよりはマシだ。時間がある時は3本詰め込んでいる。

年若い食べ盛りの青年である黎斗にとって、質が悪かろうが腹を満たすことが出来ればそれでいい為、朝食を食べる時間が減るのは深刻な問題だ。2本食べても昼まで持たないというのに1本しか食べられなかった時は悲惨である。新聞配達の時間は戦争だ。少しでも効率よく仕事を終えなければ大切な朝食の時間がなくなってしまう。逆をいえば、時間を上手く稼げれば朝食の時間と量が稼げる。

その為、新聞配達の時間は少々殺気立っている。彼の横を通り過ぎる人がいればそっと距離を空けて避けて通っていただろう。程々に整った顔立ちが殺気立つとそれはもう恐ろしいのだと知る者は語る。だが幸いなことに、新聞配達の時間は起きている人が極端に少ない早朝の時間に行われる。黎斗の殺気立った顔を見たものは今のところいない。

この日も例に漏れず殺気立っていた。今のところ予定通りの時間帯に配達を終えそうだが、出来れば少し時間を稼いで携帯食料3本を腹に詰め込めたいところである。

ラストスパートだと気合を入れるようにキャップを被り直し、住民が寝ているであろう家のポストへ素早く静かに新聞を投函を続けていると、その声は聞こえてきた。


「泥棒!誰かそいつを捕まえてぇ!」


甲高い女性の声。咄嗟に辺りを見回すと、1人の男がこちらに向かって走ってくるのが見えた。随分とガタイのいい男だ。男の手には、どう見ても女性物の肩掛けバッグが握られている。その奥からキャリーケースを片手に引き摺る一人の女性がよろよろと姿を現した。

「誰かぁ!泥棒よぉ!」

泥棒は向かってくるこの男のことで間違いないだろうと確信して周りをもう一度見渡す。辺りには人気はない。その場には自分しかいないようだった。ならば仕方ないと溜息をつき、覚悟を決めた。

しかし、黎斗はあくまで一般人。何か特別な武道を嗜んでいることはおろか、力勝負に自信があるわけでもない。今もこうして向かってきている男の方が力勝負に歩があることは、見た目からも分かりきっている。

だが、と唇を真一文字に引き締めて走ってくる男の進路上に立ちはだかる。男はこちらに気づいた様子で「どけぇ!」と目を血走らせて怒鳴った。怯まなかったと言えば嘘になるが、それでもそこから退くことはない。この目の前の男のように人の物を盗んで金を稼ぐのは非道であると心の底で小さな正義が奮い立つ。それを見逃すのも非道であると男を見据えた。せめて、食い止めることは出来なくても男の足止めをすることが出来れば。


──力で負けるなら、工夫をすればいいのだ。


男は目の前に迫ろうとしていた。黎斗は新聞を詰め込んだ肩掛けバッグを地面に静かに下ろす。タイミングを測り、バッグを思い切り横に振りきった。男は己に降りかかるバッグを見て笑った。どう見ても武器になり得ない、ただのバッグである。振り払うことは簡単に見えたのだろう、馬鹿な奴だと男は鼻で笑って避けようとすらしなかった。そのまま黎斗に向かって突進し、その細身の体を弾き飛ばそうとした。バッグが男の脇腹に当たるまで、男はそのつもりだったのだろう。

メキィ、と鈍い音と共に男の脇腹にバッグがめり込むと、男は聞くに耐えない呻き声を上げてよろめいた。

実は、バッグの中身は新聞紙だけではない。家で蓄えていた飲料水が底をつきかけていた為、新聞配達のアルバイトを始める前にとコンビニで買っておいた2リットルサイズの水の入ったペットボトルが底に仕舞われている。遠心力をつけて振り回せば立派な鈍器に早変わりする代物だ。

攻撃が有効であることを確認した黎斗はもう一度バッグを振り切る。遠心力を利用したそれは勢いがつきすぎて黎斗の手からすっぽ抜けてしまって「あ」と間抜けな声が漏れ出たが、時すでに遅し。

遠心力によって流れ星のように綺麗に飛んでいった肩掛けバッグはよろめく男の頭にクリティカルヒット、男はその場に崩れ落ちた。

またもや鈍い音を立てて当たったので、少しばかり男が心配になった。自らの肩掛けバッグを回収しつつ道路の上で仰向けになって伸びる男の様子を見てみたが、どうやら目を回しているだけのようだ。

まさか頭に当たるとは思いもせず、やりすぎたなぁと少し反省した。だがまぁ、人の物を盗むのが悪いのだと開き直って男の手から女性物のバッグをもぎ取った。

そこへ息を切らせて走ってきたのは、バッグの持ち主であろう女性である。いかにも重そうなキャリーケースを両手で引っ張りながら現れた彼女は、地面で伸びている男を見てギョッとした様子を見せたものの、黎斗の手の中にあるバッグを見た途端顔色を輝かせた。

「あたしのバッグ」

そう言ってキャリーケースから手を離してその場にへたりこんでしまったので、慌てて女性に駆け寄ってバッグを手渡した。きっと懸命に走って男を追いかけてきたのだろう。涙をうかべ、息を切らせながら何度も頭を下げてお礼を述べてきた女性に同情した。

女性の呼吸が少しでも落ち着けば、と善意で女性の背中を摩っていると、後ろから呻き声がした。

「よくも、やってくれたな……」

女性とほぼ同時に振り返ると、そこには伸びていたはずの男が肩を震わせて立っており、拳を振り上げたところだった。

不味い、と背筋が凍りついたと同時に脳に衝撃が走る。ぐわん、と視界が揺れた。痛みはないが、キャップで狭まっていた視界が突如開ける。男が舌を打つ音が聞こえた。殴られ、たのか?痛みはないが視界はまだぐわんぐわんと大きく揺れていて、揺れる視界いっぱいに道路と自分の足が映る。どうやら自分は下を向いているらしい。

不安定な視界に気持ち悪くなり、思わず尻もちを着く。そこで足元に見覚えのあるキャップがひしゃげて落ちていることに気づいた。キャップのつばが不自然に凹んでいる。自分の頭にまだ痛みは感じない。というより、男の拳は自分の体には当たらなかったのか。しかし、衝撃は受けている。運良くキャップのつばに当たっただけ、なのか。だというのに、この衝撃とは。男の馬鹿力はとんでもないようだ。

もしかしたら脳震盪を起こしているのではないかと真面目に心配する黎斗だったが、近くにいる女性が、あ、と小さく声を漏らしたことで、連られてゆるりと頭を上げる。

男はまた拳を振り上げていた。揺れる視界の中、周りの景色がスローモーションのようにゆっくりと動いて見える。ゆっくりと振り下ろされる男の拳は、どうやらまた自分に狙いを定めているようだとぼんやりと理解したが、体は動かない。というより動けない。

まぁ、確かに2度も殴ったしなぁ。男の1発目は不発だったし、1発ぐらい食らってもいいだろう。避けることを諦めた心が現実逃避を始める。痛いのは嫌だが、これは避けられそうにない。殴られるのはどうやら自分だけのようだし、潔く諦めて歯を食い縛ろう。そう覚悟して瞼を閉じかけた、その時。

突然、目の前に金色の"何か"が滑り込んできた。

ボギィ、と鈍い音ともに男の体が大きく斜め上へ宙に舞う。ふわりと飛んでいくその体を無意識に目で追うと、少し離れたところでバウンドして着地、ピクピクと痙攣した。あれは完璧に"入った"な、と他人事のように思ってしまうぐらい、男はどう見ても完璧に意識を失っているのが分かった。いや他人事なのだが。


「やれやれ……」


聞き覚えのない第三者の声にビクリと体が揺れる。惹かれるように視線を前に戻せば、そこには黎斗と視線を合わせるように、1人の男性が片膝をついていた。

朝日を浴びて光り輝くプラチナブロンド。健康的な褐色の肌。透き通るようなアイスブルーの瞳。世の女性達を虜にしそうな甘く整った端正な顔立ち。揺れる視界の中でもはっきりと分かる。例の美女に違わずこちらも遭遇したことがないほどの美男子だ。男である黎斗ですら思わず目を見張ってまじまじとその美貌を見つめてしてしまう程度には、彼の顔の破壊力は凄まじかった。

「大丈夫ですか?」

「え……」

美男子が澱みのない動きでこちらに手を伸ばしてきた。女性に向けて、ではない。明らかに自分に向けて、だ。


──え。俺なの?


思わず口に出してしまいそうだった。自分の傍には女性がいる。普通、そちらへ手を差し伸べるのが先なのでは?困惑のあまり美男子の手と顔を見比べる。もしや、女だと思われている…?そんなまさか。確かに細身ではあるけれども、そこまでヤワな体付きはしていないつもりだが。

困惑する黎斗の代わりに、美男子の手へ縋り付く人がいた。

「助けていただいてありがとうございます……!」

バッグを盗られた女性である。目を潤ませ、頬が紅潮している。完全に美男子しか目に入っていないようだ。どう見ても恋する乙女のそれである。彼の手どころか体に垂れかかろうとする女性の勢いに見ているこちらがドン引きしてしまった。自分の時とは天と地程の差がある。

女性の反応から察するに、男を殴り飛ばしたのはこの美男子のようだ。

美男子は一瞬だけ体を強ばらせたようだが、直ぐに女性の腕を引き上げるようにして引っ張って立たせ、「貴女も怪我はありませんね?」と見ている者の心を甘く蕩けさせるような微笑と共に確認する。倒れていたキャリーケースも軽々と起こしてさりげなく女性の手に握らせていた。女性は蕩けた表情で「お陰様で!」と頷いた。

美男子と女性の間には何だか朝には早すぎる怪しい空気が流れているように見えるのだが、脳震盪で幻覚でも見えているのだろうか。

口から砂がこぼれ落ちそうだ、と頭を抱えて軽く左右に振る。深呼吸を1つすると、揺れていた視界が落ち着いてきた。いつの間にか落としていたらしい肩掛けバッグとキャップを拾い上げ、キャップのつばを労わるように撫でてから被る。

その場から立ち去る前に2人へ声をかけようと思ったのだが、チラリと目を向けた瞬間すぐに目をそらした。女性は美男子に任せて大丈夫そうだし邪魔者は静かに消えるとしよう。俺は何も見なかった、と黎斗は自分に言い聞かせて踵を返した。

朝からいい事をしたはずなのに何故か神経がすり減っている。大きな溜息を吐きたくなって、何とか飲み込んだ。

せめて警察に電話を、とふと思いついてポケットからスマホを取り出したものの、見えた時刻に黎斗の目が死んだ。予定より15分遅れていた。朝ごはんはどうやら頑張って巻き返しても携帯食料1本になりそうだ。もはや全てがどうでも良くなった黎斗はスマホをポケットにしまい込んだ。警察を呼ぶのも2人に任せよう。さようなら朝ごはん。

とぼとぼと近くのポストへ向かい、バッグから新聞を取り出して静かに投函。ポストに印字された文字が踊るように揺らめいている。微かに揺れる視界は不便だが、暫くすれば治るだろう。

深呼吸をして、食べられないであろう朝ごはんへの未練を断ち切るように、未だに揺れる視界を振り切るように頭を左右に振る。

──今日の昼食は奮発するとしよう。踏んだり蹴ったりの自分へのご褒美を思い浮かべ、気合いを入れ直す。気持ちは完全回復、とまではいかないが、少し豪華になる予定であろう昼食のことを考えれば少しやる気が湧いてきた。食べ盛りの黎斗は単純であった。

さぁ残りの新聞配達も終えてしまおうと、次のポストへ向けて駆け出そうとして、誰かに右手首を掴まれた。咄嗟に脳裏に過ったのは、美男子に伸されたはずの男。まさか、とギョッとして振り返ったが、そこにいたのは伸した側の美男子。

見ているこちらがたじろぐような真剣な表情で、こちらを見つめていた。

「……怪我はしていないようですが、軽い脳震盪を起こしているのでは?」

女性の時とは打って変わって静かなその声色にドキリと心臓が跳ねる。見透かすようなアイスブルーの瞳があまりにも真っ直ぐで、思わず視線を宙へ彷徨わせた。

「平気です。脳震盪でも無い、ようです」

そう言ってやんわりと手を振り払おうと腕を引いたのだが、逆に引っ張られてしまう。

美男子は観察するように顔を覗き込んできた。真剣な表情のイケメンの顔のドアップは心臓麻痺に匹敵する。類まれなる美貌を真正面からドアップで眺めることになってしまって咄嗟に息を止めた。この美貌の前でドギマギせず自然に呼吸ができる者がいるのならぜひ代わって欲しい。

何故こんな目に遭っているのだと混乱する黎斗を他所に、美男子は眉を顰めて一つ頷いた。


「──いえ、顔色が悪い。一度、病院で診てもらいましょう」


幸い、近くに車を停めてありますから送りますよ、と美男子がそのまま言葉を続けていたのだが、その言葉は耳に入ってこなかった。病院、というワードを耳にした瞬間、現実逃避をしていた意識がコンマ1秒で覚醒した。

「いえ!!結構です!!」

普段あまり出さない大声で美男子の提案を断り、手を強く振り払う。思いの外あっさりと離れた手から逃げるように慌てて近くのポストへノルマの新聞を詰め込み、身を翻してその場から全速力で駆けだした。

「あっちょっと、君!?」と慌てたような美男子の声が遠ざかる。

黎斗は振り返らずに、何時ぞやの逃走劇の時のように全速力で駆ける。心の中で美男子に謝罪した。それはもう丁寧に。実際に美男子を前にしていたら土下座を披露するくらいには丁寧に謝罪をした。彼の提案は大変有難かったが、病院へ行くことで治療費が発生するという恐怖の方が勝った。借金返済の為に普段から身を粉にして働いているというのに、これ以上貯金を切り崩すだなんて!

考えるだけで頭が痛くなりそうだ。いや既に痛い。今月分の借金返済のノルマは謎の美女からの報酬で達成済みだが、少しでも貯金は貯めておきたい。常に切りつめている生活費ですら最低限にしているというのに、ここにきて治療費だなんて!いつ何時どのような目にあってお金が無くなるのかなんてわかったものでは無い。お金は天下の回りもの。油断をしているとあっという間に溶けて消えてしまうのだ。いくら保険証で多少安くなるとはいえ、抑えられる経費はとことん抑えておきたい。幸いにもこんなに動けるし問題ないというのに、これくらいのことでお金はかけたくない。

その場から少しでも遠さがろうと必死に駆ける黎斗を嘲笑うかのように、渡ろうと思っていた目の前の歩道の信号が赤に染まった。しかし、対角線上に車の気配はない。今なら渡れると、そのまま歩道を渡ろうとした、その時。


ブォン、とくぐもった大きな音が背後から響いた。


今度は何だ、と振り返る間もなく、耳を劈くような派手なブレーキ音と共に白のスポーツカーが視界に滑り込んできた。ドリフトしながら歩道の真ん中で急停止したそれは明らかに道を塞ぐことが目的であると分かる。危うくぶつかりそうになったが、尻もちを着いて避けることができた。

白いスポーツカーの下から伸びる濃いタイヤ痕が車の無茶な運転ぶりを証明している。焦げたタイヤの不快な匂いが鼻をかすめ、不快指数は上がるばかり。

「なんて運転をしているんだ」と相手を怒鳴りつけてやろうと、顔を上げた先に見えた運転席の人物が先程の美男子であることに気づき、黎斗は思わず口をあんぐりと開けた。そこまでして病院へ連れていきたいのかこの人は……!

その場から逃走しようと立ち上がるより先に、美男子が無駄のない動きで車から降車する方が早かった。出会った時と同じく、目線を合わせるように片膝をつき、人好きのする微笑を口元に浮べてこちらに手を差し伸べながら、彼はこう告げた。


「歩道、赤信号でしたよ」

あんたが走る車道もな!


思わず突っ込みそうになって咄嗟に口を抑える。そうでもしなければ突っ込んでいた。どう見ても明らかに美男子の方が交通ルールを破っている気がする。道路にわざとタイヤ痕を残すのは犯罪だって誰かが言ってた気がする。

何なんだこの男は、と恐れを抱きながらその端正な顔立ちを見上げていると、伸ばした手を掴む気配がない黎斗に彼は困ったように眉を下げた。

「怪我はないように見えても、目には見えない場所がダメージを受けている可能性もあります」

「大丈夫です拒否します」

即座に返すと、美男子はますます困ったように口元を下げた。

「病院へ行くだけでも?」

「しつこいな……!」

思わず声を荒らげてしまい、慌てて口を真一文字に引き締める。強情な、とでも言いたげに美男子がため息を着く。無論、黎斗だってどちらの判断が正しいかなど分かりきっている。赤信号云々はこの際横に置いておくとして、彼の意見が世論一般的に正しいのはよく理解している。それでもこちらにだって譲れないものはある。

困り顔の美男子を威嚇するように睨みつけて口を開く。

「殴られてない運が良くて帽子を掠めただけ怪我もないだから問題ない!こっちは新聞配達中で急いでるんだ。頼むから俺の事は」

放っておいてくれ、吐き捨てるように言いきろうとして腹に力を込めた、その時。


グゥゥウウ、と間抜けな音が黎斗の腹から響き渡った。


その場に静寂が訪れた。黎斗と美男子は目を瞬かせ、互いを見つめあった。遅れて、黎斗の顔がじわりじわりと赤くなる。そんな黎斗から目を離さずに、美男子はそっと口を開いた。

「……お腹、空いてるのかい?」

もうどうにでもなれと白目を剥きたい気分だった。恥ずかしすぎて、今なら切腹できるとすら思った。今日は厄日なのか。いや厄日だ。絶対そうだ。なぜよりにもよって今鳴るのだ腹の虫よ。確かにお腹空いてるけども。でももう少し空気を読んでくれたっていいじゃないか。

今にも地面に転がって呻き出しそうな黎斗を他所に、美男子が音もなく立ち上がった。何を思ったか、そのままスポーツカーの助手席の扉を開いた。片手に茶色の紙袋を持って再び黎斗の傍に片膝を着き、訝しげに見つめる黎斗にその紙袋を差し出してきた。

「これ、良かったら」

そのままでは受け取って貰えないと思ったのか、わざわざ黎斗の右手を取り、紙袋を持たせる。カサリ、音を立てて右手に握らされた紙袋と美男子の顔を見比べる。預けられた紙袋を突き返すのも面倒になった黎斗がこれは何だと言葉に出さずに顔で訴えかけると、彼は苦笑した。

「病院に行かないなら、せめてそれだけでも受け取ってくれませんか」

「え……?」

いやだからこれ何。

目線で訴えかけるも美男子には通じなかったようだ。彼はそのまま立ち上がり、スポーツカーの運転席に体を滑り込ませた。エンジンのかかる音が響き、助手席の窓が半分まで開く。余裕を滲ませた微笑を浮かべ、美男子は告げた。





「また会いましょう、橘黎斗君?」





「は……?」

間抜けな声が漏れでる。何で、この男は自分の名を知っているのだ。咄嗟に美男子に向かって手を伸ばすも、助手席の窓は目の前で閉まり、流れるようにスポーツカーが走り去る。

残されたのは、茶色の紙袋を抱えた黎斗ただ1人。そして歩道にくっきりと残されたブレーキ痕。

遠ざかっていく白のスポーツカーをぼんやりと見送りながらゆっくりと立ち上がる。一体何事だったのか。まるで嵐が過ぎ去ったかのようなあたりの静けさに夢でも見ていたのでは、とすら思う。しかし、夢ではない。自分の手の中にある紙袋を呆然と見下ろした。重くもないが、軽い訳でもない。中に何か入っている。

捨てよう、とは思えなかった。

誘われるように恐る恐る紙袋を開いてみると、見えたのは綺麗にカットされたサンドイッチが3つ。食べていいのだろうか、等と逡巡するのも面倒で、紙袋に手を突っ込み、1つを手にした。レタスとチーズとハムが挟まれたそれに小さく1口、遠慮気味にかぶりつく。

これから食べようと思っていた携帯食料は食べ物では無かったのだと思い知らされた。



「うま……」



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