招待状
父さんが行方不明になって、六年が経った。
近所の人は死んだに違いないとそう噂していたが、僕と母さんは絶対に違うと信じていた。父さんは帰ってくるに違いないと。父さんは僕が良い子にしていれば帰ってくるのだ。
だから僕は父さんの言葉を守って良い子であるように努めた。体の弱い母さんに代わって家事は全てこなし(その影響のせいなのか、料理を作る以外にもすっかり菓子作りに目覚めてしまった)、暇があれば内職だってやった。学校では周りと“違う”という理由で苛められたけど、これを耐えれば父さんが帰ってくると思えば乗り越えられた……成績は中の上が限界だったけど。
近所の人の中には僕を気味悪がって遠ざける人もいたが、挨拶をかかさずしていると大体の人は『父親がおらず少々貧しい生活を送る母子家庭の子供』である僕と『体が弱くとも一人で懸命に子育てと仕事を両立しようとしている母親』である母さんに引越しをするまで同情して優しくしてくれた。
そう、僕と母さんは引越しをした。僕が十歳になる前のことだ。
母さんが突然決断したのだ。魔法界へ引越ししようと。
僕は驚いた。父さんと母さんのような魔法使いがこの世界にいることは二人から教えられて知っていたが、魔法使いだけが暮らす世界があるという話は初耳だったからだ。
挙句に父さんが吸血鬼であったこともここでカミングアウトされた。驚きのあまり手にしていたマグカップを割ってしまったことをよく覚えている。
しかもただの吸血鬼ではなく、吸血鬼の中でも名のある貴族の出身だったようだ。しかし人間の魔法使いである母さんに一目惚れしてからはなりふり構わず猛アタック、結ばれたかと思えば一族からの猛反対にあった為、駆け落ち同然に結婚して逃げ回っていたらしい。しかし僕の五歳の誕生日の日に居場所が割れ、一族の人達に連れ去られたことが現在まで行方不明扱いとなっている理由のようだった。
父さんが魔法使いだとは知っていたが、まさか御伽噺の世界にのみ存在すると思われていた吸血鬼だったとは。しかしそれで少し納得したこともある。周りの子供より異常に力が強かったり、五感が鋭かったり、血の匂いを嗅ぐと頭がクラクラしたり……吸血鬼と人間、しかも魔法使いの間の子供ともあれば、周りの子供と違うことがあってもおかしくはないのだ。
これまで苛めの原因となっていた自分の異質さの理由がわかり、そして父さんが理由もなく消えた訳では無いことが分かって安心したこと、そして昔読んだ吸血鬼狩りの童話の内容を思い出して「もしや普通の人にバレたら殺されるんじゃないか」と恐怖したことも覚えている。
母さんは引越しの理由を包み隠さず教えてくれた。年を重ねるにつれて僕の異質さが目立ってきたこと、それを気味悪がる周囲の反応も大きくなってきたこと(やはり普通の人からすると正体が分からずとも本能的に敬遠されるらしい)、何より魔法界で暮らしたほうが安全だということ(どうやら向こうに頼りになる母さんの伝手があるとのこと)、それらの理由から引越しは決行された。
引越しした先は、一見すると自然豊かな田舎だった。住んでいる人は片手で数えるほどで、近所の家だって一時間は歩き続けないと辿り着けないほどだ。
そんな田舎の中にある二階建ての小さな一軒家に僕と母さんは移り住んだ。
長年誰も住んでいなかったのかボロボロだった家を母さんが魔法で修復すると、臙脂色の屋根と白い壁が特徴的な可愛らしい一軒家へと変貌した。こんなボロ屋に住めるのかと心配していた僕はあっという間に安心した。今までに見たことがないくらい素敵な家だった。
母さんは引越ししても相変わらず体が弱かったが、引越ししてからわかったことが一つあった。
どうやら母さんは父さんと結婚する前、魔法界で薬師として働いていたらしい。体が弱い分薬草に詳しく、通っていた学校でも優秀な成績を収めて天才と言わしめるほどだったようだ。
「ようやく本業で働けるわ」と目を光らせて意気込んでいた母さんは早速、薬や薬草などを売る薬局みたいな仕事を家から少し離れた都会に開業したが、一朝一夕で体の弱さが治るわけでもなく、稼ぎはマグル界(以前住んでいていた魔法を使わない人が住む世界をこう呼ぶらしい)に住んでいた時よりも大分マシになったものの、相変わらず少々貧しい生活が続いた。
けれども、魔法に満ちた不思議な世界でとても充実した生活を送っていた。
――とある招待状が届くまで。
僕が十一歳になって暫く経った頃のことだ。
その手紙は真っ白い封筒に包まれてやってきた。
いつものように早起きし、二人分の朝食を作り、洗濯物を外へ干しに行こうと玄関を開けた先に、見覚えのない梟が胸を張るようにして偉そうに門の上に留まっていた。
唖然と見つめる僕に気づいたのか、梟は嘴に咥えていた一通の手紙をこれ見よがしにペッと吐き捨てた。随分と態度の悪い郵便屋さんだ(魔法界では手紙のやり取りを梟で行うらしい)。
洗濯物で埋まった籠を下に置き、渋々と吐き捨てられた手紙を拾えば、梟はそれを見届けて気が済んだのかあっという間に飛び立っていった。まだパン屑も与えていないのに。高く飛翔していく梟を見送り、手の中にある封筒へ視線を落とした。それは赤い蝋で封をされた滑らかな手触りがするどこか高級そうな手紙だった。
僕は首を傾げた。宛先はエメラルド色の文字でアーロン・カルヴァートと綴られている。僕宛だ。しかし送り先の記載はない。まったく身に覚えのないその手紙にうっすらと寒気を覚えた。もしや悪戯の手紙だろうか。この魔法界には吠えメールなる恐ろしい手紙もあると聞くし、不用意に知らない手紙を開けるのも怖い。
ひとまず母さんに見てもらおうと、台所で仕事に行く支度をしていた母さんにそれを持っていった。
「母さん。僕宛に手紙が届いたんだけど、」
母さんは僕が差し出した手紙を見た瞬間、喜びの歓声を上げた。吃驚した僕は思わず手紙を落としてしまったが、母さんが驚くような素早さでそれを手にする。
「あぁ!とうとう来たのね!そろそろ来ると思っていたわ!」
今にも手紙に頬擦りしそうな尋常じゃない母さんの様子に僕はたじろぎつつ尋ねた。
「か、母さん?その手紙って何?」
母さんはニッコリと微笑んで言った。
「ホグワーツからの入学許可証よ」
「ホグワーツ?」
どこかで聞いたことがあるような、と首を傾げていると母さんが笑った。
「母さんの母校よ。魔法を扱える資格を持つ子供が通う由緒ある魔法学校なの。そこで魔法使いとしての基礎を学ぶのよ」
学校という言葉を聞いた僕は思いっきり顔を顰めた。学校には良い思い出が無い。吸血鬼と人の間に生まれた子、ダンピールとして他の子供とあまりにも違う特徴を持っていたことで苛められて過ごした記憶しかないのだ。
母さんはそんな僕の顔を見て悲しそうに微笑んだ。
「アーロンのように訳有りの子供も通える学校なの。母さんもいっぱいそこで学んだわ」
「……ダンピールの子供も通っているの?」
「多分ね。優秀な先生方もいらっしゃるし、アーロンが望むのならダンピールということを隠して入学することも可能なはずよ」
前向きな母さんの言葉とは反対に、僕はある不安要素の数々を思い浮かべて俯いた。
「でも、僕は……箒に乗れないし」
近所の人の話では、例えどんなに箒が苦手な魔法使いがいたとしてもたくさん訓練すれば必ず乗れるようになるらしい。
けれども僕がどれだけ魔力を込めて箒を跨いでも動くどころかうんともすんとも言わないのだ。母さんから手解きを受けても全く飛べず、それは魔法使いにとって致命傷とも思えた。
そんな奴が魔法学校に行っても良いのだろうか。魔法学校と言うくらいだから箒に乗る授業もあるだろう。
箒に乗れない魔法使いなんて聞いたことが無い。きっと周りの子はマグル界の子達と同じように他と違う僕を虐めるだろう。
そして何よりも、最も危惧すべき問題がある。
「それに、満月の夜は危険だし、血の匂いを嗅いだら酔っ払いみたいになるし……僕みたいなダンピールが他の子と一緒に魔法を学ぶなんて無理だよ」
不安要素の中で最も心配しているのはこれだった。
吸血鬼の血を引いているためか、満月の夜になると吸血鬼の血が騒ぎ、耐え難いほどの吸血衝動に襲われるのだ。これまでは母さんが処方する薬を飲んで衝動を抑えていたが、あくまでもその薬は衝動を抑えるだけで、その衝動が全く無くなるという訳では無い。しかも、その薬を飲むと万力で挟まれているような酷い頭痛に襲われる。
血の匂いを嗅げば酔っ払いのように頭がクラクラして前後不覚になり、理性が飛びかける。
これらは避けようが無い問題だった。いくら正体を隠して入学しようとも、すぐにバレてしまうに違いない。
魔法を学べるものなら学びたい。けれども、自分にはそれを学ぶ資格が無いように思えて仕方がないのだ。きっとこの問題は大人になっても僕の後ろを付いて回るのだろう。もしかしたら死ぬまで一生かもしれない。
そう悲観して唇を噛み締めた僕の手を、一回り大きな手が包み込んだ。暖かくて優しい、華奢な手。母さんの手だ。ハッとして顔を上げると、目の前には微笑を浮かべた母さんがいた。
一見優しそうな微笑だけれど、優しさの中に見え隠れする強い意思を宿した眼差し。ドクリと鼓動が耳の裏で鳴り響き、不思議な心持ちに陥った。風を送り込まれる風船のようにみるみる大きさを増していた不安が、まるで針で穴を開けられたかのように萎んでいき、冬の湖面のような静けさが僕の心を満たしていく。安心している、というわけでもない。ただ、心の内が静かになるのだ。
ふと、父さんも、よくこの微笑を浮かべていたことを思い出した。
「いいこと、アーロン。確かに貴方は他の子とは違うかもしれない。けれどね、貴方には魔法を扱える力がある。才能があるのよ。その才能を捨てるということは、貴方の恐れている吸血鬼の力をコントロールする術を捨てるということなの。貴方のお父さん、ユージーンもそこで魔法使いとしての力を磨き、吸血鬼としての本能を制御する術を学んだのよ」
母さんの言葉を聞き、脳裏に父さんの姿が浮かんだ。
杖すら振るわず、自在に魔法を操るその姿はまさに魔法使いと呼ぶべき姿だ。太陽の下でも普通に活動し、不敵な笑みを浮かべる父さんに闇に生きる吸血鬼という言葉はとても似つかわしくない。
そんな父さんも、ホグワーツに通っていたのか。
吸血鬼である父さんがいた、魔法学校。
父さんはそこで吸血鬼の本能をコントロールする術を学んだから、あんなに強くてかっこよくて、堂々としていたのだろうか。
脳裏で父さんが微笑む。その姿は行方不明になる直前の姿だったけれども、少なくとも五歳になる僕にとってその姿は、堂々とした立ち居振る舞いには自信が満ちていて、かっこよく見えて、十一歳になる今の僕にとっても憧れの父さんの姿だった。
諦めに染まっていた心に、僅かにだが、暖かな気持ちが生まれるのを感じた。
いつも肌身離さず首に掛けているペンダントの暁色の石を握りしめると、「お前の望むようにしなさい」と父さんに背中を後押ししてもらっているような気もする。
迷いつつも、母さんの目を見た。強い眼差しに一瞬怯みそうになるものの、何とかその眼差しを見返して、口を開いた。
「僕は、父さんみたいになれるかな?」
母さんは満面の笑みで頷いた。
「なれるわ。だって貴方は父さんの子だもの」
迷いの無いハッキリしたその言葉が背中を後押ししてくれるようで、嬉しいけれどもそれでいて何だか無性に照れ臭くて、思わず目を逸らしてボソリと思ったことを呟いた。
「母さんの子でもあるけど」
「どういう意味かしら?」
ニヤリと怪しく笑んだ母さんを見て嫌な予感が背筋を駆け抜けた。
「わ、悪い意味じゃないよ!」と慌てて取りなせば母さんは「あらそう」といつも通りの笑みを浮かべて僕の頭を撫でてくれた。優しい温もりに思わず目が細くなる。
「貴方なら大丈夫よ、アーロン」
それだけだと言うのに、先程まで心を占めていた不安は無くなろうとしていた。母さんの言葉と手には人を安心させる魔法の力があるんだと小さい子供みたいなことを思って少し恥ずかしくなった。
けれどもその恥ずかしさを押し退けて、喉元で通せんぼしていた不安が無くなったことでスルリと口から零れ落ちたのは、心の底からの願い事。
願わくば、
「──母さん。僕、ホグワーツに行きたい」
握りしめたペンダントがジワリと熱を持った気がした。
(ところで、教科書どうするの?)
(そうねぇ……母さんの時から教科書も変わってるだろうし……買いに行きましょう)
(……え……?買うの……?)
(当たり前じゃない。まさかお金の心配をしてるんじゃないでしょうね?子供はそんなこと気にしな)
(えぇっと今月の母さんの給料がこれぐらいだから……いつもの生活費はこれくらいだけど、肝心の教科書って一体幾らするんだろ……あ、手紙に教科書のリストも書いてあるのか……は!?何でこんなにバカ高いの!?母さんこの教科書リストのお金で僕達の2ヶ月分の食費消えるんだけど!?暫く食費を切り詰めて内職増やすしか……薬草摘みに行ったらちょっとは足しになるかな……)
(……何故かしら。母さんより家計簿の状態を把握してる貴方を見てると泣けてくるわ)