拝啓、名も知らぬ君へ(bsr/三成)





行きつけの喫茶店が出来たきっかけは、確か、親しい先輩から誘われたのが始まりだった気がする。





随分と昔のことだ。新米だった自分を無理やり引っ張ってとある喫茶店へ赴いた先輩は、随分とそこを気に入っていた。一番のお気に入りはその喫茶店のコーヒーだったらしい。「ここのコーヒー、癖になるんだ」そう笑ってコーヒーを優雅に飲んでいた先輩は、今はもう退職している。

あれから何年経ったのだろう。今ではすっかり“先輩の行きつけの店”から“自分の行きつけの店”になってしまったその喫茶店も、マスターは代替わりしたがまだ続いている。癖のあるコーヒーは少し味が変わったが、不味いわけでもない。ただ、昔の思い出に感傷に浸るには少し、物足りない感じがしてしまう程度だ。

変わったのはそのくらいで、店の外観も内観も変わらない。席の位置もそうだ。その喫茶店は正直、人はあまり入れない程の狭い店だった。先輩と入り浸っていた時はあまり人がいなかったのに、今になって人が沢山入ってくるようになった。主に昔を懐かしむ人やレトロな雰囲気に惹かれた若者の来店が多いように感じる。前はお気に入りの場所が占領されたような気持ちになって不快だったが、今は“一つの時代”が過ぎていったのだと思い、感慨深いような、少し寂しいような心持ちになるばかりだ。

そんな人気の喫茶店だったが、いくら繁盛しても人が座らない席というのがある。店の入口付近の窓際にあるカウンター席だ。

そのカウンター席は、座ると外の景色と向き合うように設置されている。しかも窓は、というより壁は全面ガラス張りで、壁自体が大きな窓になっているとでも言えばいいのだろうか。その為、よく外の景色が見える。恐らく外からも丸見えだろう。その席の作り故か、外から覗く人の視線を気にしない人でなければ滅多に選ばない席だ。もしくは人と待ち合わせをしていて待ち人に見つけてもらいたい時ぐらいならば、座る席かもしれない。

とにかく、人気のない席だった。

その人気の無さが気に入って座り始めたのはいつからだったろう。確か、去年の暮れの頃だったか。たまたまそこしか席が空いておらず仕方なく座ってみれば、意外と居心地がよく直ぐに気に入ったことは覚えている。隣に座る人もおらず、目の前に誰かが座ることもない。たまに目の前を通り過ぎる人から不躾な視線を向けられることはあったが、長時間に渡って見られるという訳でもないので気にはならなかった。

ある日、ホットコーヒーを片手にそこへ座った。仕事先からの連絡を待ってる最中のことだ。外でブラブラしながら連絡を待っていたのだが幾ら経っても連絡は来ず、ならば客でも捕まえるかと辺りを散策してみたもののお眼鏡に叶うような人にも出会えなかった。しかも、雨すら降ってくる始末だ。

客も取れず雨も降ってくるし、なんて今日はついていないのだろう。溜め息を吐きながら紙コップの端を少し噛むようにしてコーヒーを啜る。それからふと外を見て、どこか良い客はいないだろうかと過ぎ行く雑踏を眺めていると、それは突然見えたのだ。

目の前の雑踏の奥に見える交差点の、四つ角の隅。こちらに背を向けて男が一人、立っている。染めているのか、雑踏の中でよく目立つ銀髪。ヒョロりと周囲より頭一つ分飛び出た長身痩躯の人物。服装は何かのコスプレなのか、鎧のようなモノを身に纏っている。どう見ても男は目立つ人物だったが、周りの人間は目にもかけない。まるで男はその場にいないかのようだ。幽鬼のようにひっそりと佇むその男に引き付けられるように目が離せなかった。


──客だ。


男は待ち望んでいた客だった。しかも、他の奴らに取られていてもおかしくはない程の大物に見えた。

他の奴らに取られては堪らないと慌てて飲みかけのコーヒーをカウンターへ置き、そっと店を出た。雨はまだザァザァと降っていたが、身一つで雑踏の中へ飛び出した。

周囲より頭一つ分飛び出した銀髪を目印に、青年の後ろまで駆けて行き、その背に声をかけようと手を伸ばしたところでそれは聞こえてきた。



ひで さまもうし  
 わた       かたきを    
なぜ    いえや   
       きさまは     いえやす   
 ゆるし          だれかわたしを



長らく聞き続けたことで、掠れてしまったラジカセのテープを聞いているかのような。

それは青年から聞こえてくる。耳にまとわりつく様なそれには怒り、悲しみ、絶望の他に様々な負の感情が入り乱れていて少々聴き取りづらい。しかし、分かったことはある。どうやらこの青年は随分と心残りがあるようだ。

まぁ、それ故にここにいるのだと思うのだが。しかし、それにしてもこれは凄まじい。ここまでの大物が誰にも見つからずにいたのも、きっとその心残りが強過ぎたせいなのだろう。

だからと言って彼に同情するのは馬鹿げている。自分達のような者は彼のような存在の過去に共感出来るほど近しいモノでもないし、生き様を見てきたわけでもない。ましてや親しい友人でもない。自分達にとって彼らは人生にたった一度だけ会うことが出来る一期一会の客の一人で、かつどこにでもいる客の一人でもあるのだ。

止めていた手を伸ばし、この雨の中だというのにどこも濡れていない彼の肩に、そっと触れた。

「もし、そこのお方」

声を掛けると、ラジカセのような声はピタリと止まった。

返事は無い。が、青年から何らかの意思がこちらへ流れてくるのを感じ取り、それを読み取って眉を下げた。

「私は君のような存在の為にあるモノさ。私に似たような存在に声をかけられたことはなかったかい?──そうか、無かったか。なるほど、最近になって君の意識が変わってきたんだねぇ」

青年は振り向きもしない。真っ直ぐに背筋を伸ばしたその姿は意思の強さを感じさせると共に、どことなく寂しそうにも見えた。様々な人が跋扈するこの街中では、彼のあまりにも真っ直ぐな姿勢は浮いている。他から浮くことを恐れず、己を曲げない。きっとそれは彼の性分なのだろう。それ故の孤独すらもつき返さんとするその姿勢は、皮肉な事に目を引く程の孤独にまとわりつかれている。

しかし、誰も彼に注目しない。

「ここに随分と思い入れが強いようだね……あぁ、ここが君の最期の場所か。ん?違わないよ、ここがそうだ。覚えてないかね?あぁ、うん、うん……そうか。それなら覚えてないだろうねぇ。初めてここに立った時、自分がどうしてここにいるのか分からなかっただろう?」

青年から絶え間なく流れてくるの意思は糸のように細く、頼りない。それなのにしっかりと自己主張をするそれは甘え下手な子供のようにも思える──あぁ、この青年はきっと、まだまだ若くして亡くなったのだろう。

仲間内には若くして亡くなることを不幸だと言う者もいるが、人には何かしらの理由があって定められた命の期限というものがある。それは天に与えられたものであり、自分達のような存在がそれを憐れんだり下に見ることはあってはならない。それは一つの傲慢だ。故に、目の前の青年が若くして亡くなったからと言って可哀想に、とは思わない。むしろ。

「どうやら、前に進む時が来たようだよ」

触れた肩をポンポンと叩くと、青年から流れてきた意思の糸がふつりと途絶えた。かと思えば直ぐに怒りと悲しみ、絶望、全ての感情が綯い交ぜになったような、感情の濁流が電流のように、彼の肩に触れている掌へ電流となって流れる。思わず手を離しそうになったが、何とか堪えた。



きえ   て      なる   もの      か



凄まじい執念の思いに影響を受けたのか、頭、頬、肩、体にザァザァと降り注ぐ雨粒にすら電撃を帯びたような刺激と痛みを感じる。

このままではきっと上手く次にいけないだろう。

しかし、いかなければならない。それが人の運命だ。誰しも平等に訪れる段階の手順で、特別はない。そして自分達のような存在は、そうした人達のちょっとした人生相談役、もしくは先導者でなければいけない。迷う人がいれば正しい道を指し示し、悩む人がいればそっと諭して次の道へ背中を押す。それが仕事だ。目の前の彼も同じように次へ進めるように諭さなければいけない。

一見すると未練が凝り固まってしまったような彼自身も、分かっているはずなのだ。自分達のような存在に見つけられた時点で既に答えは見えているはずなのに、一つのことに縛られ続けている。今まで背中を押してきた人達の中にも同じような人がいた。しかしその人達も例外なく全て次へ進ませた。彼もそうしなければいけない。ただ、彼は無意識のうちにそれを拒んでいる。拒絶の原因と思われるそれは後悔という感情に近い。その後悔の念が、彼をそうさせている──否、後悔だけではない。

その後悔の中に見え隠れする小さな、淡い感情も見えてしまうものだから、ついつい世話焼き根性が働いてしまう。きっとこのことがバレたら同僚には鼻で笑われるだろうなぁと気分は重いはずなのに、口は驚くほど軽く動いてしまうのだから、自分の性根というのはきっとこれからも直せないのだろう。


「君が待つ人は次にいる」


ぴたり、と青年の意思が無言になった。何も言わないけれど、今にも何か言いたそうではあった。しかし、それを待っているほど時間は多くない。自分にはあるが、彼にはない。しっかりなさいと思いを込めて肩をポンポンと再度叩くと、今度は痛まなかった。

「これ以上、待たせなさんな」

そっと背中を押すと、彼は幽鬼のようにフラリと前に一歩歩みを進めて、立ち止まる。先程まで呪詛のように彼を取り巻いていた思念は嘘のように消え失せ、無に等しい。

「いきなさい」

諭すように告げたその言葉が先か、青年が一歩を踏みしめるのが先か。蜃気楼のようにか細く、淡い存在となった彼は、フラリ、また歩みを進めた。ゆっくりと、一歩ずつ。頼りなさげに一歩ずつ、歩みを進める事にその姿は淡く、薄れていく。その彼の先で、ぼんやりとした人の影が立っている。彼はその影に向かって歩みを進めているようだ。

彼の姿が見えなくなるまで、溶けて消えるまで、その淡い姿の行く末を見ていた。雨でずぶ濡れになった服が不愉快に感じるまで、飲みかけのコーヒーのことが頭の片隅に過ぎるまで、見ていた。















行きつけの店のお気に入りの席で、燦々と降り注ぐ陽の光の下を行き交う人の流れを眺めていた。

今日は幾日ぶりの晴れの日だ。そしていつも以上に暇だ。そろそろ働かなければいけない。そう思ってはいるのだが、なかなか客が見つけられずついつい行きつけの店で無駄な時間を過ごしてしまっていた。

上司にバレたら怒られてしまう。後輩達の見ている前で怒られる先輩の姿など情けない等と冗談で考えて、小さく息を吐く。この仕事に見栄や業績などありはしないが、最近の後輩達はやけに張り切って仕事をしている。良い事ではあるが、おかげで少々、上司からの視線が痛くなってきた。サボっているわけでないのに、視線が刺さるのだ。

客を見つけられるのは滅多にないというのに、と一人心の中で零しつつ、飲みかけのコーヒーが入った紙コップの中を覗き込む。黒い水面に映った自分はあまりにも情けない顔をしているように思えて、思わず大きな溜息が零れた。

このままではいけない。

そろそろ出るか、と紙コップを机に置き、飲み物代の小銭を数枚取り出そうとポケットに手を突っ込んだら、弾みでポケットから小さいモノが飛び出して、チャリンと音を立てて床を転がっていった。目を凝らすまでもない。あれはどう見ても今取り出そうとしていた硬貨だ。

「おっ?ちょっ?」

慌てて硬貨を追いかけて席を立つ。五百円は大きい。できれば無くす前に拾っておきたい。

今にも視界から消えてしまいそうな五百円玉を早足で追いかけると、五百円玉はみるみるうちに転がるスピードを落とし、ボックス席に座る人物の革靴にコツリとぶつかってその場に寝転がるように円を描き、止まった。

慌ててそれを拾いあげるより先に、五百円玉に気付いたらしい革靴の主が、摘むように拾い上げる方が早かった。

「すみません、その五百円玉──」

照れながらその人物に声を掛けて顔を見た途端、声が途切れる。

五百円玉を拾い上げた目の前の人物は、かっちりと学ランを着こなした、いかにも真面目そうな青年だった。

銀の前髪の奥から、金緑の瞳がひたとこちらを見据える。

「どうぞ」

「……ありがとう」

一言と共に差し出された五百円玉を一拍遅れて受け取って、それをポケットに突っ込む。青年はそれを確認するようにしっかりと見届けてから、席を立った──長身痩躯の体は、どうやら今も健在らしい。

こちらを見向きもせず、青年は隣をすり抜けて店を出た。どうやら店の外で待ち合わせていたらしい同い年くらいの学生の集団と合流して、青年は人混みの中へ歩き出していく。楽しげな集団の中でも青年の後ろ姿は相変わらず誰よりも真っ直ぐで、迷いが無く、己を自己主張しているわけでもないのに目立っている。



──それでも、寂しそうではない。



淡い微笑を浮かべた青年の横顔を最後に、その姿は人混みに紛れて見えなくなった。

見えなくなっても、そこから動けずにいた。ウエイトレスに遠慮がちに声をかけられるまで、そこでぼんやりと突っ立って、人混みを眺めていた。

「お客様……?」

「……あ、すみません」

咄嗟にお気に入りの席に戻ると、温くなった飲みかけのコーヒーが待っていた。

啜るようにそれを口にすると、コーヒーの味がいつもと違うことにそこで気づいた。随分と懐かしい味だった。それに気づいたら喉元がキュウっと切なくなって変な声が出てしまいそうで、誤魔化すようにコーヒーを一息で飲み干した。

それから何となくポケットの五百円玉をポケットの外側からなぞる様に触ってしまって、今度は涙腺が緩みそうになったものだから、慌てて両の手で軽く頬をパチンと叩いたら痛みのあまり涙が出た。












拝啓、名も知らぬ君へ













(楽しそうで安心しました)
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