初恋は切なく、苦く(bsr/佐吉+半兵衛/BL)



己はおかしい、歪んでいると自覚できる者はこの世に何人いるのだろう。



例えそう自覚する者が居たとしても、果たして本当にそうだと証明できる者は何人いるのだろうか。

己ではおかしいと思っていても案外それは己しかそう思っておらず、周りから見れば普通の人だと思われている可能性もある。そうなるとその者は自意識過剰だと嗤われることもあるだろう。

これまで生きてきた経験上、本当におかしく、歪んでいる者は己が普通じゃないことを自覚していないことが多い。己がおかしいと自覚している真性の変人など稀だ。

しかし、変人や普通というのは周りからそう判断されてこそ証明されるもの。普通という判断基準の材料は周りの人の“平均値”から生まれるものだからだ。それをもとに変人か普通かが判断をつけられる。それは一種の評価とも言える。故に例えどれだけ歪んでいるという自覚があろうとも、他者からそう判断されるまでは変人ではないのだ。


己の父は周りから変人と判断された真性の変人、否、変という言葉では生温い気狂いであった。


父は物心ついた時から己の中にある“渇き”を自覚していた。

その渇きが欲するのは食であったり、珍しい美の作品であったり、人であったりした。初めの頃は渇きを埋めるものがあって父は満ち足りていたが、いつの日か身の回りにあるものでは満足しなくなった。いつも何かに飢えているのに、それを満たすものが己の廻りになかった。故に周りの者に欲する物を望んだ。そうすれば粗方のものは揃った。父はある国の国主である武家の後継ぎで、望めばあらかたの願いは叶った。己の中の渇きが望んだ物が手に入ると、渇きは癒えて父は幸福に包まれた。しかし、渇きは癒えることを覚えると貪欲になっていった。

父は国主の後継ぎという地位にあってもなお、望んだ物が手に入らぬこともあった。父にはそれが堪えられなかった。渇きは癒されぬと彼を苦しめた。己の中の渇きに堪えられなくなった父は家督を継いだある日、とうとう行動に移した。

その時に欲したのは、隣国の一人の姫君。日ノ本一美しいと評判の見目麗しく聡明な姫君だった。父はその姫君を欲するあまり、姫君の国に攻め入って国を滅ぼし、姫君を囲って己のものとした。

そして姫との間に一人の子を生した。







時は流れて、二十年余り。


場所は豊臣秀吉が統治する大阪。日頃様々な商人が行き交う賑やかな国は今、空を覆う曇天と朝から降りかかる雨によって静けさに包まれている。

国主である秀吉公が住まう豪華絢爛に装飾を施された大坂城もまた降りかかる雨の影響を受けているのか、いかなる日も人気ひとけが絶えず賑やかだった城の中は陰鬱とした空気が流れている。

戦もなく、行うべき行事もない。故に尚更静まり返る国と城の様子にこれもまた一興と私室の前の縁側に腰を下ろし、煙管に詰めた煙草の煙をゆっくりと吐きながらその静けさを楽しんでいると、後ろから何者かに抱き締められる。己の腹に回る細い腕に視線を落とし、それが女の腕であること、そしてよく知ったものであることを理解して唇が歪んだ。

「──旭様、こんな雨の中に外にいたら体調を崩されますよ」

甘えるような女の、声。それは己に取り入るために作られた猫撫で声だと理解はしていたが、別段不快にも思わないため首だけその声の主を振り返り、見えた女の顔に笑みを見せた。大きくぱっちりとした猫目に真っ赤な紅を引いたぷっくりとした蠱惑的な唇、全体的に顔の作りが派手な美しいかんばせ。女は一目で高価な代物であると分かる赤を基調とした品のある美しい着物を纏っていたが、花魁のようにそれを着崩していて見る者に下品な印象を抱かせていた。

しかし、その下品な印象は女の美しさを際立たせる。己はその女の美しさを気に入って花魁だった女を買い取った。女はそれをよく理解していて、かつそれを武器に己を自らの元に引き留めようとあれこれ策を用いる。必死なその姿は愚かしくも愛らしい、と思っているのだが、どうやら周りはそう思わないらしく、事あるごとに苦言を呈する。場所も時も選ばす女が周りに見せびらかすように己に媚びるからだろう。それも面白いではないか、そう心の中でいつも嗤っている。

「そんなに柔じゃないんだが?」

女から顔を反らし、持っていた煙管の柄を縁側の角で叩き、朝から続く雨によって水溜まりが出来ているであろう地面へ詰めていた煙草を落とす、と小さな火種が消える微かな消火音が聞こえた。

煙管に詰める新しい煙草は私室の中にあるが、今直ぐに吸いたいわけでもない。本来の使用目的が無くなった煙管を掌の上で回して弄ぶ。と、女の手がそれを奪って真っ赤な唇へと咥えた。

「あら、ごめんなさい。でもそうして雨ばかり眺めていては面白くないわ」

そう言ってこちらの様子を伺うように大きな猫目が見つめてくる。なるほど、今日は自分の我が儘がどれだけ通じるかを試すらしい。なかなかに面白いことをする猫だと唇を歪めて嗤った。

さて、その遊びに付き合ってやろうと内の“渇き”が囁いてドロリとした感情が鎌首をもたげる。女の頬に掌を滑らせ、顔を近付けた、が、直ぐに萎えた。

視界の隅に友人が見えた。本人は友人ではないと眉を潜めて否定しそうだが、己は友人だと思っているその人物は、少し離れた縁側に立ち、両腕を組みこちらに向けて冷ややかな視線を送っている。

あぁ、彼のような、目の前の女よりも遥かに貴重で類稀な美貌の持ち主であれば、顰めっ面という渋い表情も一つの作品のように美しく見える。しかし、笑った顔の方がいい。顔という“作品”は笑った表情の方が見ている者の心も安らぐし、その美しさは更に輝く。過去に自分に向けられた友人の笑みを脳裏に思い出しながら、女から顔を離してそちらへと顔を向ける。

軽蔑の意が込められた視線を正面から受けて、唇を歪める。どうやらご立腹、というよりも呆れているらしい。

そう言えばこの友人も目の前の女を快く思わない者の一人であったな、と今更なことを思い出して笑った。そんな彼に向けて声を張り上げる。

「やぁ、竹中殿。そのような所で如何した?」

友人、竹中の目が半眼になり、口が小さく開いて、閉じる。聴覚は優れている方だが、声が聞こえてこない故にどうやらため息を吐いたようだ。

今にも立ち去りそうな表情とは裏腹にこちらにゆっくりと歩みを進めてくる姿を見、女に部屋に戻っていろと耳打ちした。女は口を窄めて不満そうだったが、近付いてくる竹中の姿を見て大人しく立ち上がり去っていった。女も竹中から好かれていないことを自覚しているようだ。流石にそこまで頭の回らない馬鹿でもないらしい。煙管を返さず持ち帰ることで次に会う口実を然り気無く作っているところも抜かりない。

面白い女だとその女の背を見送っていると、直ぐ近くから友人の声がした。

「“あれ”をまだ囲っているなんて、随分とお気に入りのかい?」

そちらに顔を向ければ、直ぐ傍に不愉快そうな表情を浮かべた竹中が立っていた。

座ったらどうだと勧めてみたが全く動かない彼の様子からこの場に長居するつもりがないことを察し、そんなにあの女が嫌いかとふと問いたくなって止めた。答えは分かりきっている。

「あぁ、“あれ”はなかなかに綺麗で面白いからなぁ。じゃれつきはするが、“持ち主”の手も噛みつかないし、よく自分の立ち位置を理解している」

「……まだ手元に置いておくならしっかり躾けてくれたまえ。城の風紀が乱れるからね」

冷えきった軽蔑の眼差しを受けて苦笑した。軍を統率する天才軍師殿の目に留まるほどあの女の行いは酷いらしい。全身から放たれる刺々しい空気は、竹中がどれ程あの女を嫌っているか物語っていた。

よほどあの女が目障りと見える。

「躾けるとはなかなかに酷いお言葉だ。“あれ”は飼い猫ではなく“美術品”、躾けるものではないよ竹中殿。滅多にお目にかかれない美しさを持った作品だ」

希少価値の由縁たるあの美しさはなかなかお目にかかれるものではない。同じものは無く、手に入れることも難しいからこそ価値が高い。

それ故に二度と手に入れることが難しい美しいものは、壊れないように大切に扱わなくてはいけない。その美しさが損なわれないように。多少の我儘を許すのもそのためだ。

しかし、竹中はその我儘が度を過ぎていると言う。確かにおいたが過ぎるのも考えものではあるが、美術品は愛でて楽しむもの。躾けるなど愛玩動物ではないというのに。

さすがに苦言を呈すると、冷えた紫水晶の瞳が細められる。ジワリ、形の良い唇に浮かんだ笑みは妖艶で、それでいて酷薄な印象を与える。氷の微笑と呼ぶに値する美しいその微笑みに目を奪われた。


「僕よりも?」


呼吸が止まる。

止まった呼吸に肺が痙攣する。息を吸え。体の本能がそう命じるが、それを凌駕する何かがそれを遮る。手を伸ばすことも躊躇われるその美は、この世に二つとない代物だ。

瞬くことも許されないその美しい呪縛から解放されたのは、竹中の顔から微笑が消えたその時だった。

鼻から息をゆっくりと吸い、静かに吐き出す。止まっていた呼吸を取り戻さんと言わんばかりに鼓動がドクリドクリと大きく脈打ち、腑と肋骨に響く。微かに眩暈すらしたその視界に映るは、訝しげに首を傾げ、機嫌の悪さを隠さない竹中の顔。

問い掛けて不自然に固まったのが気に食わないらしい。

あの女は竹中より美しいか。

答えは言うまでもない。思わず笑いが込み上げてきて、堪えられず声を上げて笑った。

竹中がますます機嫌の悪そうな顔になったが笑いが止められない。あの女が竹中より価値があるかだと?


笑止。


「竹中殿、そんなにあの女が気に入らぬのなら、非常に惜しいが打ち捨てよう」

他ならぬ友の願いを無下にするのは少々心苦しい。

笑いすぎて捩れる腹を押さえようとその場に転がってそう提言すれば、竹中の顔が顰められた。縁側に転がるなど行儀悪いと思うのと同時に、大人しく言うことを聞く己の態度を訝しく思っているのだろう。確かに、普段の己であればもっと渋るか竹中の言葉を聞かなかったことにしてあの女を愛でていただろう。それぐらいにはあの女に執着している。

無論、裏がある。

「──何が望みだい?」

起き上がり、その場に立つ。目敏くその裏を嗅ぎ付けた竹中に笑みを向けた。途端に美しい顔が引き攣る。あぁ、美しい顔が勿体無い。

「……欲しいものがあってね。私の力だけでは到底手に入らぬ」

ふと視線を庭に向ける。雨に濡れる庭は枯れた木と岩、川の流れを模した砂利と池と、どこか虚しさを感じさせる寂れた風景。しかし目に映る景色を見ているわけではない。脳裏にぼんやりと浮かび上がる姿。あれは目の前の友人とは違う類の美しさを持つ美術品だ。

月の光を集めて織られたような銀糸の髪。南蛮の陶磁器のような滲み一つない白い肌。ほっそりとした輪郭。幼き頃に父に見せられた西洋人形ビスクドールと呼ばれる南蛮の人形のように整った美しい顔。自分を貫いた、強い意思を宿した一対の金緑の瞳の眼差し。

見つけたのは偶然だ。太閤の鷹狩りに付き合って、その帰り道、休憩にと寄った寺で見つけた。

そっと胸に手を当てれば、掌の下で己の鼓動を感じる。常より早く、強く打つ心の臓。あの強い眼差しと見つめあった時の衝撃と高揚は、今も胸にある。

「──君が欲しても手に入らないとは、面倒そうな代物だね」

己の様子から何かを察したのか、実に面倒そうな憂いの表情で見つめてくる紫水晶の瞳を見返し、「あぁ、面倒だ」と嗤った。


「手元に置こうと太閤を唆したまでは良かったんだが、太閤がそれを随分と気に入ってね。気が利くし有能、それに点てる茶が巧いと言って手放さないのだ」


おまけに婆娑羅者ときた。ますます気に入った太閤は自分の左腕としてそれを育てたいと宣った。さらに悪いことにそれも随分と太閤に懐いてしまって己のことを気にも留めないのだ。

さすがに仕える主から強奪するわけにもいかぬが、このまま指を咥えて見ているのも堪えられぬと深い溜め息を溢せば、竹中の顔が盛大に引き攣っているのに気が付いた。あまりの引き攣り様に見ていられなくて思わず顔を顰める。

「竹中殿、美しい顔が見ていられないほど引き攣っているぞ。君は笑ったほうが良い。いや、引き攣った顔もまた美しいが美術品、特に顔は笑った時か穏やかな最期を迎えた時が一番、」

「待ちたまえ。まさか」

言葉を遮り、竹中が片手で額を押さえ瞼を閉じる。柳眉が寄り、いかにも頭痛がすると言いたげな様子から、どうやら己の欲しいものが何なのか察知したらしい。太閤の右腕とも呼ばれ、常日頃太閤と時間を共にする彼ならば既にあれと遭遇していてもおかしくはない。

嘘だろうと言うように向けられた紫水晶の瞳にそのまさかだと意味を込めて嗤いかけると、形の良い唇がヒクリと震えた。

湿った臭いが漂う雨の日特有の寒さから一転、冬の夜のごとき寒さへと空気が変化する。変化の要は、氷のような表情を浮かべた目の前の男。

「旭。いくら君の願いでも駄目だ。彼は、」










「半兵衛様」









声変わりを迎える前の、年若い少年特有の真っ直ぐで高く澄んだ声。その声を耳にした瞬間、心の臓が不規則にドクリと跳ねた。

この声を知っている。

この声が己に向けられる時、その声色は一振りの刃のように鋭くなる。太閤に向けられる時は酷く真っ直ぐな、敬いと憧れと畏れの感情が入り交じった尊敬の感情に染まっている。竹中に向けられた声色は、太閤に向けるものとよく似ていた。

あぁ、この男はあの美術品の内側に受け入れられているのかと思うと己の内側で落胆と嫉妬が入り交じり、竹中を羨望の眼差しで眺めてしまい、苦笑しかけて寸でのところで堪えて嗤った。そんな己を見たらしい竹中が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて見つめてくる。

紫水晶の瞳に映るのは、中性的な顔の造りの一人の男。母によく似たその面差しは今、歪な笑みを口許に浮かべて自分を見つめ返している。いや、母だ。母が己の眼を通して嗤いかけているのだ。そう思うと途端に途方もない虚無感に襲われて目を伏せた。

そんな己の心情を知りもしないだろう、凛と澄んだその声色の主は竹中の背後から現れた。

「半兵衛様、秀吉様が大広間にてお待ちしております」

現れた姿に。その金緑の瞳に。その眼差しに、体の全てが一時停止する。華奢、と言うよりも痩躯と呼ぶに相応しい細身の体躯。美しい銀糸の髪。陶磁器の肌。あぁ、宝石のような輝きを放つ不思議なその瞳。一つが狂えば全てが台無しになってしまうような繊細で儚い美が調和して、一つの最高傑作と呼ぶに値する類稀な美術品を造り出している。

その美術品から放たれる空気は清浄なるものを纏って他を突き放し、威嚇する。それは薔薇の棘と言うよりも誇り高い猛獣が持つ冒し難い威厳のようなものに近い。それは己を害する邪なものから身を守るために作られたものだろう。

自他共に邪なものと分類される己にも、それは向けられた。

瞬いたその眼差しが一瞬にして嫌悪の色を滲ませて漸く体の自由が戻り、呼吸が出来た。

「貴様もだ、旭」

鋭い声色。歳上の者を敬う気配すらない態度と声色は出会った時と変わらない。彼がここに来てからそれが彼の裏表のない姿なのだと、それが彼らしいと思えるようにはなれたが、しかし、そう、例えるなら野良猫を見つけて餌を与えてはみたが警戒されたような、そんな一抹の悲しさを覚えるのだ。


彼を一番初めに見つけたのは、己なのに。


そんな些末なざわめきに心を騒がせる己もいれば、そのざわめきが面白いと客観的に感じる己もいてまた一興と、更に興味心が湧き、心の底で澱んでいた歪んだ支配欲が顔を覗かせる。

しかし、

「──あぁ、貴殿の手を煩わせるとは忝ない。直ぐに向かおう」

スルリと口から勝手に溢れ出た言葉に驚いたのは己だけではない。普段の己を知る竹中も驚きを隠さない様子でこちらをまじまじと見つめている。美しい作品かおに見つめられることは大変心地の良いものだが、この時ばかりは見てくれるなと視線を返してしまった。

肋骨を打つ大きな鼓動が、常より早く脈を打つ。

いつもの己であれば如何に返したであろうか。きっと嫌みの一つでも返すか煙に巻いて困らせようとしたか。しかし、これの前ではそんな捻くれた行動すら思い付かない。

別れの言葉も出ないまま普段より早く颯爽と歩き出した己の後を、よく知る気配が追い掛けてくる。向かう目的地が一緒であるため仕方がないとは思うが、さすがに今はそれだけの理由で追い掛けてきているわけではないだろう。

太閤が御座す大広間へと歩みを進めて暫くして、友は漸く言葉を紡いだ。

「君も人の子だったということか」

「黙りたまえ」

火照る頬を叩いてみたが、効果は無かった。















初恋は切なく、苦く、















(あぁ、今日も話し掛けられないまま時が過ぎる)




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