吹き荒れろ、嵐(bsr/三成)
――小学校低学年の時、自分の親は母だけになった。
所謂離婚というものらしかった。
小さい私のことを考慮してなのか、離婚の理由は全く告げられなかったが、父と母どちらが好きかと問われれば間違いなく母と答えられた私に とって、自分の側に母がいれば何でも良かったため、父がいない生活も 直ぐに慣れた。
離婚の理由も、母が父に愛想を尽かされたのだろうくらいにしか考えられなかった。
そうして二人きりの生活が始まった頃、よく母は父の悪口を言った。
恐らく、変わってしまった生活に気持ちが追い付かず、それがストレスとなり、それを吐き出す簡単な方法がそれだったのだろう。
そして私が悪いことをすれば、母は私を父親そっくりだと怒った。
幼い頃から聞いていた父に関する話は母の口から聞く悪口ばかりだったためか、私の中で父親は最低な人間像の代表としてのイメージが強く根付いており、母から父親にそっくりだと怒られたときは、始めはただその言葉がショックで、このままでは母に嫌われると幼心にトラウマのようにそれは刻まれ、何よりも優先すべき回避事項であると幼いながらもそれをそう理解した。
幼い私にとっての家族は母一人だけだった。
まだ一人で生きていくには幼すぎる私の面倒を見てくれる人も、母一人だけだった。
私という存在に親としての愛情を注いでくれる人も、私を引き取ってくれた母一人だけだった。
本能的にそれを理解したその時から、私は生きるために母にとって“良い子”であろうと努めた。
大好きな母に、父のように愛想を尽かされることを私は恐れたのだ。
だから母に自分が父に似ていないことを証明するために私は常に“良い子”として振る舞った。
成績もなるべく上位にいるように努め、対人関係で問題も起こさないように常に笑顔で明るく振る舞い、困っている人がいれば積極的に助けよ うとした。
とにかく“良い子”を演じ続けると、そのうち近所の人達が、学校の先生が、親戚の人達が、周りが母を称賛した。
『お子さんは優秀な子ですね』
『とても良い子だわ』
『教育がよろしいのでしょうね』
周りから称賛される度に、母は誇らしげに私を褒め、私を自慢の“良い子”として愛してくれた。
――それはまるで一種の調教だった。
周りも羨む“良い子”であれば、ご褒美として大好きな母からの愛をこの身に受け続けることができる。
“良い子”であればあるほど、母の口から父の話題は消え、母は私を父にそっくりだと言わなくなった。
“良い子”でいれば、母に愛してもらえる。
母に嫌われずに済む――気が付けば、生きるために必要な“手段”だった筈の母からの愛は、“生きる意味”へとすり替わり、何よりも守るべき優先事項へと変貌していた。
それがおかしいということにすら気付かないほど、私は母からの愛に飢えるようになっていた。
子供がどうやって生まれるのか、知るまでは。
それは授業で習った。
子供は男性と女性が交わることで受精卵が出来、子供ができる。
先生は言った、子供はそれ故に二人の男女の愛の結晶であると。
それを耳にした時、母からの愛を身に受けることしか興味が向かなかった私に衝撃が走った。
――愛し合って?
私は、父と母の二人から生まれた。
でも母は父を嫌っている、それこそ毛嫌いという言葉が当てはまるほどで、愛し合っているという言葉が当てはまることは……あれ、だとしたら自分は何で生まれたのだろう?
愛の結晶?
私が?
あれ、おかしい、矛盾が生じている。
母は父を 嫌っていたのに、父と母の間に愛の結晶として私が生まれた?
嫌っているのに?
あれ、ねぇ、待って。
おかしいよ、何かがおかしい。
「先生、何故子供は愛の結晶であると言えるのですか? 」
混乱してそう問えば、先生は聖母のような笑みを湛えてこう言った。
「理科のお話を混ぜれば、子供はお父さんとお母さんの二人から遺伝子を受け継いでいるの。それは子供はお父さんとお母さんが愛し合って生まれたという証拠なのよ」
パリン、と自分の中の何かに亀裂が走った。
矛盾がその亀裂を大きくした。
初めからその亀裂は存在していたが、それは気に止めるほど大きくはなくて、今まで見えないふりをしていたものだったのに、矛盾が、あぁ、どんどん、亀裂が大きくなって――
自分は母が嫌う父のようになりたくなかった。
母の“子”であろうとした。
それなのに、自分の中にまだ父がいる。
それは遺伝子という形で一生自分の中に存在し、消し去ることは不可能だ。
自分は、父のようになりたくなかった。
母が嫌う父になりたくなった。
それなのに、未だ自分は父にそっくりなところがあるというのだろうか?
ということは、母は今まで自分の中の父にそっくりなところをずっと見 てきたということなのでは?
あ、あれ、母の嫌っていた父の面影が、私に?
あぁ、それでは嫌われてしまう。
母に、嫌われる?
父が?いいえ私が?
父の面影がまだ残っているから、私は母に愛想を尽かされてしまうの?
それは――嫌だ。
母に愛されることが私にとっての生きる意味だというのに。
このままでは私は生きる意味を無くしてしまう。
母に愛されなかったら私は生きる意味がないのに。
その時からどうすれば自分の中から父が消えるのかずっと考えた。
考えて、考えて、悩んで、悩んで……そうして、良い解決策思い付いたのだ。
「……自分がね、死ねば良いと思ったの」
両手で一本のカッターを握りしめ、私は目の前にいる同じクラスの男子、石田君に笑い掛けた。
その日の放課後、誰もいなくなった教室でこの解決策を思い付いて、早速実行に移そうとしたところで、彼に見つかった。
「何故そんなことをしている」
見つかった瞬間、彼は目を見張って私を凝視した。
てっきり先生を呼ばれるかと身構えた私を他所に、静かな口調で彼にそう問われて、首筋に当てていたカッターの刃を思わず手放しかけるほど驚いた。
石田君は豊臣校長先生と担任の竹中先生、同じクラスの唯一の友達らしい大谷君以外の人にはいつも怖くて、冷たくて、その三人以外の人にはまるっきり興味がないことで有名だ。
普段人を気にもかけないようなそんな彼が何故今この場で私に興味が湧いたのか凄く不思議で吃驚ではあったが、とりあえず話せば分かってくれるかもしれないと考え直し、これまでのこと、自分の人生、生き方、そうして悩みとその解決策をかいつまんで彼に打ち明けた。
石田君は、最後まで静かに聞いてくれた。
「ね?良い考えでしょう?こうすればお母さんは私の中のお父さんを見ることもないし、私もお母さんに嫌われることもないでしょう?」
一石二鳥だ、そう言って泣きながら笑う私に、静かな表情で話を聞いていた石田君が、初めて顔を歪めた。
嘲りの表情ではなく、同情の表情でもない表情で、石田君は私にまた問うた。
「――貴様は、母に愛されるためにそこまでするのか」
「うん、だって嫌われたくないもの。愛されていたいもの。お母さんに嫌われたら私生きていけないもの。お母さんに褒められることが、愛されることが私にとって生きる意味だもの」
母に嫌われて生きるくらいならば、私は死を選ぶよ。
石田君という思わぬ邪魔が入ってしまったが、事情は説明したし、彼も私の行動を理解してくれたと思うし、豊臣校長先生達のことしか興味のない彼のことだから、私の邪魔はしないだろう。
そう自己完結して再びカッターをそっと自分の首に当てた瞬間、
カシャン
手に走った衝撃と共に、乾いた音を響かせてカッターが床を滑っていった。
僅かに痺れるカッターを握っていたはずの掌を呆然と見下ろし、何が起きたのだろうと混乱する頭で状況を整理する。
石田君は先程よりも私の近くに立って、静かにこちらを見下ろしている――ふと、そんな石田くんの右手から血の滴がポタリポタリと垂れているのが見えて、そこで何が起きたのか理解した。
石田君に、手刀でカッターを叩き落とされたのだ。
邪魔をされた怒りよりも、どうしてという困惑の気持ちの方が勝っていた。
何故、邪魔をするの。
君は私の話を聞いたでしょう?
君は他人に興味がないのでしょう?
どうして、と声に出せば、無表情な石田君が目を伏せて。
「無意味だ」
そう一言、ポツリと呟いた。
何故、と問うことも出来なかった。
問う前に涙が溢れて、押さえきれない嗚咽が教室に響き、自分が酷く惨めな生き物に思えて仕方なかった。
「お母さんに、愛されたいだけ。良い子じゃないと、お母さん誉めて、くれないから」
幼子のように泣き崩れ、床へ踞る私の背に、そっと誰かの手が触れる――繊細な手つきに、何となく石田君の手だと気付いた。
「そうやっていつまでも自分を偽る輩を、私は軽蔑する」
静かな口調なのに、その怒鳴られるよりも凄まじい破壊力があった。
軽蔑、という言葉に息が詰まって、顔が歪む。
あぁ、私はお母さんじゃない人にも嫌悪の感情を向けられると傷付くのだとぼんやり思い知って、また涙が溢れた。
「どうすれば、いいの」
ただ、母に愛されていられればそれだけで良かったのに。
消えてしまえば、母に愛されたままでいられるのに。
視界の隅でカッターの刃が誘うように鈍く光って見えて、顔をそちらに向けると、手を伸ばせば届く場所にそれはあった。
あぁ、ほら、あれで喉を掻き斬れば楽になれるのだ。
迷いなくカッターに手を伸ばした、その時。
「――そのままでいればいいだろう」
伸ばした手を遮るように制服の襟を掴まれて、無理矢理立たせられる。
その際に喉元が締まって酷く咳き込み、何をするのかと目の前にいた彼を睨もうとして、見えた金緑の瞳に視線を奪われた。
「貴様に父親の面影があったのならば、母親は既に貴様を捨てているのではないのか」
強い、眼だった。
何処までも己を貫き通せる、強さがその眼にあった。
私には無いその強い眼が酷く眩しく思えて、目を逸らしたいのに、襟を掴んだままの彼がそれを許してくれない。
襟を掴む手に力を込めたのか、余計に喉が締まって変な呻き声を上げてしまっても、石田君は気にした振りも見せずに私の眼を覗き込んできた。
「貴様が己の何処に不満があって卑屈になるのか私の知ったことではない。だが、そうやって己の命を自ら絶つ輩も私は軽蔑する」
間近で見た金緑の瞳は澄んでいて、とても綺麗だった。
その眼を見ただけで彼はとても真っ直ぐで、自分を偽らない、心の美しい人なのだと悟ってしまうくらいで。
「貴様は何年母親と暮らしている?その間に母親は貴様を何度殺そうとした?そのようなことなど一度も無いのだろう?」
未だに貴様が母親と生きて暮らすことが出来ているのは、そういうことではないのか。
突如、襟を離されて私は無様に床にへたりこむ。
呆然と、堂々とそこへ立つ石田君を見上げれば、彼は鼻を鳴らし、
「――ところで、貴様は誰だ?」
そう平然と聞いてくる彼に、呆気に捕らわれて瞬きを繰り返す――名前も知らない他人に、己の手を傷付けてまで最後まで話を聞いて真摯に向き合っていたというのか。
何て、自分に正直で、愚かなほどまでに真っ直ぐで、不器用で、生真面目な人なのだろうか。
それからまるで嵐のような人だと直感的にそう思って、何故だが無性に可笑しくなって、思わず笑ってしまえば、彼に睨まれた。
それでも、笑うことを止められなかった。
――もう、カッターに手を伸ばそうとは思えなかった。
吹き荒れろ、嵐