一
――“それ”はいったい何がきっかけだったか。
今となっては覚えてすらいないが、気が付いた時には、“それ”は既にあった。
始めは三月に一度あるかないか。
そこから少しずつ頻度が増し、また“それ”の規模も大きくなっていった。
あまりの“それ”の異常さにそこでようやく自分が“壊れている”ことを悟り、驚愕し、そして何よりも“それ”に侵食されつつある自分を怖れた。
ずっと付きっきりで面倒を見てくれた友には、面と向かってこう言われた。
「主は壊れた人形よ」
四肢は健在しているし、特に異常もない至って健康体の体……だが、問題があるのは精神の方である。
物理的にではなく、私は精神的に“壊れた”らしい。
自覚症状のないまま蝕むように進む“それ”に自分が少しずついなくなっていくような、漠然とした、得たいの知れない恐怖を抱いた。
パリン
硝子性の、薄くて脆いものが壊れる音。
暗闇の中で宛もなくたゆたっていた意識がその音に反応し、急激に浮上する。
暗い海の底、深海から急激に海面まで引き上げられていくような、重力を無視したようなそんな感覚。
暗いところから、明るいところへ。
今まで真っ暗だったはずの視界が、いつの間にか血管の通る赤い瞼の裏を映していることに気付いて、そっと瞼を開いた。
途端に、悲惨な光景に変貌した自室が目に映る。
穴の開いた襖。
半壊した障子。
畳に走る裂傷。
天井を走る、稲妻のような大きな傷。
カチャリ、足元から鍔鳴りの音が聞こえてそちらに視線を落とせば、刃毀れが酷い一本の太刀がそこにあった。
――あぁ、また、だ。
グラリと傾く視界に吐き気を催し、脚がガクガクと無様に震えだして、額から冷や汗が噴き出す。
目に映る悲惨な光景に心当たりはない。
しかしこれは、“自分”がやった。
グラリグラリ、大きく揺れる視界の中で、誰かが頭の中で囁いている。
ゴクリ、鳴った喉は果たして誰の喉か。
ゾッと背筋を襲った寒気を自覚する前に、チカチカと視界が点滅し始めた。
これは、意識が眠るいつもの前兆。
また、夢に堕ちてしまう。
嫌だ、嫌だ嫌だ、まだ眠りたくはない、眠ってなるものか、眠ってしまったら今度目が覚めるのはいつになるのか予想もつかないのに。
ジワジワと静かに忍び寄る睡魔に声無き悲鳴を上げかけた、その時。
「――やれ、また派手に散らかしたものよな」
その愉快げな声が耳に届いた瞬間、収まる点滅。
同時に体から力が抜け、ガクリと畳に倒れかける……が。
脇の下と背中、膝裏に、何かが支えてくれているような感覚がして、倒れずに済んだ。
その支えに縋り付くようにしがみ付けば、自分が人に抱き抱えられているらしいと知る。
抱き抱えてくれているのは、壊れた私を見捨てない、数少ない友人の一人だ。
頼りがいのある友人の胸にしがみ付き、不安で煽られ、堪えきれなくなった心情を吐露する。
「よ、吉継。私、また、や、やっちゃった……!」
噎び泣く私を宥めようとしてくれているのか、包帯だらけの手がぎこちなくも優しく私の髪を梳いてくれる。
「旭、落ち着きやれ。そんなに泣いては疲れてまた寝てしまうであろ」
主は何も悪くない。
悪いのは主に取り付いた妖よ。
あやすように背中をポンポンと撫でられ、その優しさにまた涙が溢れ出す――こうやって私に優しくしてくれるのは、秀吉様と半兵衛様がお亡くなりになってから、今では吉継と三成だけ。
二人だけが、私を見捨てないで接してくれる。
夢から目覚めたとき、二人のどちらかがが直ぐに駆けつけてくれるか、二人揃って直ぐ傍にいてくれたりする。
もう一人の私が彼らを傷付けても彼等は私を傷付けまいとしてくれるから、目が覚めた時、傍にいてくれる彼等は時々傷だらけだ。
それが酷く申し訳なくて、怖くて、嬉しくて、涙を流してしまう。
そんな弱い私を責めることなく二人は私を包み込んで、一緒にいてくれる。
眠るのが怖いと恐れる私を穏やかな眠りに就けるよう誘ってくれる。
今ではもう、それが当たり前のようになっている。
二人に依存してしまう私が酷く矮小で汚い人間に思えて、惨めだった。
でも、二人しか頼ることが出来ない。
壊れた私を恐れて、二人以外誰も私の傍に寄ってきてくれない。
世話役の侍女ですら、私の傍に来たがらないのだ。
「吉継、ごめん、なさい……み、見捨てないでお願い……私には吉継と三成しかいない、から」
眠れば見境なく暴れる自分に対する漠然とした恐怖と、周りの人から避けられ孤立する恐怖。
それに堪えきれなくて、泣きながらみっともなくそう縋れば、吉継が白黒反転した目を優しく緩めて微笑んだ。
「あい、主にそう願われなくともわれと三成は主から離れぬ。主はわれと三成の大切な宝よ、タカラ」
怖いと泣く私の頭をそっと撫で、慈しむようにそこに唇を寄せる吉継。
彼の優しさがそこから身に染みてくるようで、嬉しくて泣いた。
すると泣いてばかりで疲れてきたのか、次第に重くなっていく瞼。
抗えないそれは点滅する視界と同様に、眠ってしまう前兆。
それに恐怖を抱いて、吉継に縋り付く。
「吉継、私、また寝て……」
「われが傍におる。心配するでない」
「で、でも、また吉継を傷付けて、」
「旭、われは平気よ。われが恐れるのは、主が自らを傷付けてしまうこと。そうなる前にわれがそれを食い止めたいのよ。主の傷付いた姿など見たくない故」
三成も同じよ。
故に安心して眠りやれ。
闇に引き摺り込まれる私の意識を眠りに誘うその言葉は酷く優しくて、甘い。
そっと寝床に寝かせられ、布団を掛けられてお腹の辺りをポンポンと優しく叩かれる。
子守唄のようなそれに、急激に意識が黒ずんでいく。
せめて眠りについてしまう前にと、必死に口を開いた。
「吉、継……いつも、ごめん、ね……ありが、とう」
「――あい、眠れ、眠れ」
額に吉継の口付けを落とされたのを最後に、私の意識はそこで切れた。
――目の前で静かに眠りに付く旭。
それを見下ろしながら、唇が笑みの形に歪んでしまうのを押さえきれなかった。
愛しい愛しい、われの旭。
もう一人の己を恐れてわれに縋る憐れなその姿を、押し倒して手篭めにしてしまおうかと何度企んだことか。
……しかしそれはならぬ。
主に厭われたくは無い故。
しかしそれ以上に、旭はわれのものだけではない。
旭はわれと――
「――旭は眠ったか」
背後から掛けられたその声にあい、と応えを返せば、われの隣に立った一人の男。
静かに旭の傍に膝をついて彼女を愛おしげに見つめるその男は、われと同じく旭を愛してやまない三成だ。
三成がそっと手を伸ばして、旭の頬に触れる。
労るように頬を撫でた後、三成は旭の唇に指を這わせ、そしてそこに己のそれを重ねた。
「――やれ、三成。われはまだ旭に口付けておらぬ」
「そうか。それはすまない」
あっさりと身を引いた彼に思わず笑いが込み上げてしまう。
「……額には口付けたがな」
「――刑部……」
「そう怒るな。そうしなければ旭が眠りそうにもなかった故。不可抗力よ、フカコウリョク」
ヒヒ、と引き笑いをしながら、三成に無言で促す。
すると三成は心得たと言わんばかりに己の得物である長刀を構え、抜いた。
ズバン、と旭の近くの畳についた裂傷。
「っ、三成、あまり旭の傍で刀を抜くな。旭が傷ついてしまう」
「しかし己の傍だけが傷ついていないと怪しまれるぞ刑部」
「……あい、分かった。しかし旭を傷付けぬようにな」
「言われなくとも」
そうしてまた煌めく刹那の斬撃。
今度は襖に傷が付く。
――旭はこれらの傷を見て、またもう一人の自分がやったと思い込む。
始めの方は疑っておったが、今ではすっかり信じ込み、われと三成しか頼らぬようになった。
ここまでくるのに大層苦労したものだ。
旭は妖に取りつかれておるだとか、名も知れぬ病に身を蝕まれておるだとか、ありもしない噂をばらまき、旭の傍から人がいなくなるように仕向けた時は特によ。
部屋を壊す役目を三成に譲り、われはとにかく旭の傍から人を遠ざけるように仕向けた。
無表情ながらも、何処か嬉々とした様子で部屋を壊す三成を眺めながら、唇が暗い笑みに形作られるのを止められない。
――旭はわれと三成のもの。
誰にも目の触れぬ所で旭を閉じ込め愛でたいと、そう吐露した三成の言葉から始まったこの芝居は、もう最後のメデタキ終演に向かって進んでいる。
旭が完全にわれと三成のものになるまで、もう暫し。
「三成、それぐらいで良かろ。そろそろ旭が起きる故」
「分かった」
刀を鞘に納め、旭の傍に跪き、旭が眠りから目覚めるその時をじっと待つ三成。
その姿は南蛮の御伽話にあった、眠り姫の目覚めを待つ若い武将のようよな、等と下らないことを考えながら、懐に隠し持っていた短刀で腕を切りつけ、何食わぬ顔で三成の隣に御輿を下ろして旭の顔を覗き込み、
「旭、旭」
そっと優しく声をかけてやれば、うっすらと開き始めた瞼。
始めはわれと三成を見て嬉しそうに笑ったが、みるみるうちに恐れと嬉しさの入り雑じった綺麗な瞳で、われの赤が滴る腕を見た旭。
「あ、ぁ、あ……!!」
ポタリポタリと畳に赤い染みが出来るのを呆然と眺め、われの腕に手を伸ばすその姿が愛おしくて堪らない。
驚愕と恐れに染まった愛らしい旭の顔に思わず笑ってしまって、三成に脇を小突かれた。
偽りの眠り姫