五十四ノ話








幼き頃に、あの方が遠いと思った。





今も、遠い。

どれだけ己を鍛えても、武勲を上げても、半兵衛様と秀吉様に褒められても、あの方に褒められても、あの方がこちらに背を向けて歩まれる姿を見ると、途端に距離を感じた。

どれだけ月日が経ってもそれは変わらなかった。半兵衛様が亡くなり、家康が裏切り、秀吉様が亡くなられても、あの方は先へ進んでいく。

どれだけその背に追いすがっても、風のようにこの手からすり抜けては先へと歩まれる。

そうして気が付けば見も知らぬ他人に容易く身を預けたり、浚われたり、人から距離をとったり。あぁ、この方は人と距離を取られていると、それは自分にも当てはまり、友の刑部にも当てはまると気づいたのか、いったいいつの頃だったか。

己の浅ましい感情に気づいてからは、その距離をいっそう思い知らされたような心持ちになり歯がゆくも思った。

刑部は「時継にも策があるのであろ」と、暗に放っておけと言っていた。刑部も私に言わないことが増えた。昔から人に物事をあまり語らない性質ではあったが、ここ最近それが増えたように思う。

問い詰めたところで「主のためよ。主が気に病むことはない」とはぐらかされる。今まで奴が私の為にならぬことはしてこなかったではないかと直ぐに安心もしたが、ふと妙な胸騒ぎに襲われることがあることも事実だ。


特に、あの方との距離を感じると。
















「時継様、」


呼びかけても、目覚める気配はない。

第五天からあの方を取り戻し、既に十日が経とうとしている。

しかし一向に時継様は目を覚まさない。第五天に何をしたと問い詰めても夢現も分かっておらぬ様子でただ微笑むばかり。苛立ちのあまり抜刀しかけた私を止める刑部も、流石に苛立っている様子ではあったが、それを表には出さないようにしていた。

何も飲まず食わずで寝かしつけるのもお体に悪いと医師に言われ、粥を白湯で薄くしたものを匙で十回ほど、薄く開いた唇から流し込む作業を朝と夕に一回ずつ行っているが、やはり普段の食事量とは比べ物にならない為か、たった十日、されど十日、時継様の体は少しずつ痩せていく。

時継様の様子を風の噂に聞いたか、長曾我部が見舞いに訪れた日もあった。

何か病を患っているわけでもない。しかし目覚める気配もない。医師も匙を投げた深い眠りにつく時継様を見て、長曾我部は顔を歪めていた。

「こんなに痩せちまって……これ以上痩せるつもりかアンタ」

長曾我部は時継様の髪に触れようとして思い留まるように手を引いた。引いた掌で拳を作り、畳に打ち付けると衝撃が部屋を揺らした。しかし、部屋を震わせた大砲のような衝撃すらもあの方には遠いモノでしかないのか、やはり目を覚まされない。

「四国の復興も世話ンなってるのに、こんな時何も返せねぇとはな」

そう項垂れる奴をただ見ていた。

奴が連れてきたという伊予の預言者も、痛ましそうに時継様を見ていた。

それが酷く不快だった。視線に気付いた預言者の視線が自分に向けられる。その視線は、眼差しは、時継様に向けられたそれと似ていた。不快だ。嘔吐する一歩前の心持ちと似たような症状が胸に込み上げてきて、その眼差しから逃れるように視線をあの方に移して口を開く。

「――去ね。見世物ではない」

心の底からそう思っていた。これ以上何者にも時継様を見せたくないと望んだが故の言葉で、ふとあることに気付いて溢れた言葉だった。

思えば、あの方がいつも無理をなさるのも、全て誰かの為だった。

始めの頃は半兵衛様の為、そして秀吉様の為、刑部の為――そして私の為、でも、あって。

『いつか、平和な日ノ本になったらのんびりしたいなぁ』

全てが上手く行っていた頃、あの方は縁側でそう溢した。何も分からずただあの方の背を追いかけることだけを考えていたあの頃の私は、ただそれに賛同した。

『秀吉様のお力と時継様の政の策をもってすれば、日ノ本は直ぐに統一されます!日ノ本は末永く繁栄に導かれます!』

疑っていなかった。今もそう思っている。秀吉様のお力と時継様のお力があれば、全て何事も上手くいくと信じて疑わなかった。

しかし、私の言葉に時継様は一瞬キョトリと瞬いて、それから微笑んで仰った。

『そうだね……頑張らなきゃね』

あぁ、この方はまた前を進んでいかれるのだ。時継様の言葉にそう確信して、それが嬉しくもあり、また置いていかれるかもしれないと不安にも思ったことを覚えている。しかし置いていかれまいと決意もした。

今では、それがあの方を追い詰めていたのだろう、とも思った。

あの方が無理をなされるのは、自分のせいなのだと。

そう自覚した瞬間、刃で己の喉を切り裂きたくなった。大切なあの方をここまで追い詰めたのは、他でもない自分のせいだと。あの憎き家康だけではない。豊臣という鎖が、自分という鎖があの方を雁字搦めに捕えて、あの方を離さない――離したく、ないのだ。これ以上遠くにいかれないよう、己の手元の届く距離に、腕の中に閉じ込められるように。何者にも見られたくない、触れられたくない。しかし、傷つけたくないと思っていたあの方は私自身の手によってこうして弱っていて、追い詰められている。矛盾した想いと現実が胸を黒く焦がして軋んでいる。誰の手にも渡したくない。しかしこの鎖から解き放ちたい。秀吉様も開放しろと仰っていた。あの方も恐らくその時に向けて準備もされていた。それでも私は、己の浅はかで淫らな、これまで下らないと吐き捨ててきた感情に惑わされるように離したくないとも思うのだ。


全ては、己の妄執のせいで。


ふと視線を上げた先にいた預言者が、怒りの表情で口を開こうとしていた。

「止めろ鶴の字」

それを止めたのは長曾我部だった。奴が憂いの目で預言者を見ると、目を伏せて眉を寄せ、しおらしくなって口を噤む。

その姿が無性に苛立たせる。

「二度は言わん」

長曾我部を睨みつけると奴は何かを言いたそうに口を開きかけたが、直ぐに口を固く結び、黙って退室した。後ろ髪を引かれるように預言者も退室しようとして、足を止める。

「三成さん、」

預言者は何かを告げようとしていた。しかし聞く気になれない。早く時継様のいる空間から異物とも言える他者の気配を消し去りたかった。去ね。

そう言う前に預言者が振り向く。開いた障子から溢れる日差しを背に、預言者はこちらを真っ直ぐに見つめた。眠りにつく時継様の顔にも柔らかな日差しが降り注ぎ、穏やかとも言えるその寝顔に一瞬、目が離せなかった。

「きっと、神童さんも直ぐに目を覚まされるでしょう」

ですから、そんなに思いつめないでくださいね。

そう告げた預言者に視線を向けた。目を覚ます。その言葉が胸に引っ掛かり、目の前の景色が色褪せて見せた。嬉しいと思っているはずなのに、どうしてこのような、私は、

「今のは、貴様の予言か?」

掠れる声で問えば、預言者は小さく頷いた。何かを言いたそうにしていたが、声を掛ける前に踵を返して退室した。

残されたのは眠りにつく時継様と、私。

隙間無く締め切られた障子に息苦しさを覚えて、空気の入れ換えだと言い訳のように考えながら障子を微かに開けば、差し込んだ日射しが時継様の顔に降り注ぐ。

穏やかな寝顔。しかし、一向に目を覚まされない。どれだけ呼び掛けようとも誰もその眠りを破れない。しかし、預言者と言われる女は目を覚ますと預言した。

しかし、それはいつなのか。直ぐとはどれくらいなのか。焦る気持ちとは裏腹に、この方を独り占めできるこの時間がまだ続けばよいのにと浅ましくも願う己もいて矛盾する己に刃を突き立てたくなる。時継様がこうなったのは、私のせいであると。

時継様に赦しを乞えばきっと驚いたような表情をして、苦笑いで気にするなと言うだろう。そういう方だ。しかし私は己を赦せない。己の無力のせいで秀吉様を失っただけでなく、時継様までも。

「時継様、」

そっと近付き、御顔にそっと手を伸ばす。両手で頬を包み込むように。触れた肌は生者として主張するように温かい。生きている。

「時継様、私は、」

そっと親指で頬を擦る。滑らかな肌は柔らかく、女の肌のようで触り心地が良い。高鳴った心の臓に気付かない振りをしてそっと顔を近付けて、目を閉じて額を合わせる。触れた所から時継様の体温を感じて、温かい。生きて、いる。

この方は、生きているのだ。

「貴方様を、失いたくない」

秀吉様と半兵衛様が遺された豊臣軍を、大阪の国を誰にも侵されないよう守りたい。秀吉様を討ち、我が物顔で天下を統一しようとする憎き家康の首をとり、秀吉様の赦しを得て、また豊臣の名のもとに日ノ本を統一させて、時継様の政が日ノ本を潤し、平和な世へ。

そう、願っていたはずなのに。

「私は、」

それなのに、天下へ向かえば向かうほどあの方は弱っていく。あんなに憧れ、大きく見えていた背は小さく見えて。

この方を縛る呪縛を解き放さなければならないと思っているのに、今放してしまったら豊臣の再興はおろか、一生会えないような気さえ過って。

ただ、秀吉様と半兵衛様の開かれる道を歩み、邪魔するものは斬り、時継様と刑部と、穏やかな日々を過ごせるだけで良かったというのに。

ふと我に返ったとき遺されていたのは、今にも衰退しそうな大阪と時継様と友だけ。大切なモノは両の掌から溢れ落ちて既に砕けていた。

時継様すらも。

これ以上、失いたくない。

否、違う。私は。

「私、は、」

言葉が、醜い己の心が腹の底から這い上がる。胸を這い上がり、喉を這い上がり、口から溢れ落ちようとしている。

口にしてはならない。言葉にしてはならないといくら己を戒めてもそれは溢れようとする。

以前、溢れたその言葉に惑っていた私に、刑部は時がくるまでに決めれば良いと言った。惑いながらもそれに甘え、答えを先伸ばしにしようとしていた。


しかし、私の心はもう決まっていた。


「時継様、御許しを。どうか、私を、」

乞うように溢れた声に、胸のうちから何かが溢れ出してくる。それは燃えるように胸を焦がし、喉を熱くし、瞼を熱くする。

堪えきれないそれは熱い雫となって、咄嗟に開いた瞼から溢れ落ちた。

それは時継様の眦にハタリと落ちて、頬を流れていく。まるで時継様が泣いているようだとぼんやり思った矢先に、時継様の瞼がフルリと震えた。

浅かった呼吸が一度深くなり、声にならない吐息が口許から溢れる。ずっと閉ざされていた瞼がフルリ、また震えて、少しずつ開いて、黒曜石の瞳が、





「みつ、なり……?」





紡がれた言葉は、泣き出したくなるほど懐かしく思えて。

嬉しい。苦しい。様々な感情が入り乱れて心を揺らし、瞼が熱くなる。堪えきれずハタリ、熱い雫が落ちて時継様の頬を流れていく。

「時継様、私は、」

言ってはならない、と糸ほどに薄くなった理性が叫んだ気がした。しかし、もう。

驚いたようにキョトリと瞬いた黒曜石を見つめて、私は、








「貴方様を、お慕いしております」




















重なる影は人知れず、




















(一生、この方を離さない)

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