五十一ノ話
時継様が、戻られた。
時継様が誘拐されてから七日も経たぬ日のことだった。
救助に向かわれた武田軍の副大将殿の出発を見送ってからわずか一刻も過ぎぬ頃、やはり自分が時継様を助けに行くと言ってきかない石田殿に大谷殿が石田殿の立場を諭すように丁寧に説得し、それはならぬと告げても納得のいかない様子だった。
しかし友人である大谷殿の言葉を無視して飛び出すのは義に反すると思い止まったのか、見るからに渋々と言った様子で吉報を待つ石田殿の機嫌と顔色が日に日に頗る悪くなっていくのは、長年時継様の傍にいる時の普段の彼を知る私はもちろん、石田殿の為人を知らないであろう武田軍の大将真田殿ですらもそれは目に見えて分かるものだった。
常より一層御飯に手を付けなくなった石田殿にせめて握り飯だけでも召し上がるようにと長い付き合いである筈の家臣達が願い出ても聞き入れてもらえず、大谷殿を含めた皆が扱いにほとほと困り果ててきた頃、狙ったかのような"たいみんぐ"(南蛮の言葉で"時機"という意味だと時継様から教わった)で武田軍の副大将殿が時継様を連れて帰還された。
「ただいま」
少し散歩に出掛けてきたとでも言うかのようないつも通りのその笑顔に、心配や無事を喜ぶ言葉より先に呆れと安堵から出る溜め息が家臣一同から漏れ、大谷殿は無言で数珠を巨大化させた。
石田殿は、
「――時継、様」
目を見開き、金緑石の瞳が僅かに揺れる。その瞳にはここ暫く見られなかった憎悪と苛立ち以外の感情の色が現れ、彼の心情を鏡のように映していた。薄い唇が微かに震え、直ぐに表情と共に引き締められる。しかし堪えきれない感情が目元を微かに緩ませるという形で現れ、石田殿は穏やかとも、切ないともどちらともとれる表情を浮かべながら時継様の元へと駈け寄るなり片膝をつこうとした。
家臣の鑑とも言える石田殿の出迎えの姿勢に我らも慌てて石田殿に倣い膝をつこうとした――が、それよりも先に大谷殿が利き腕を挙げ、それを合図に彼の背後の数珠が巨大化する方が速く。
「おおっと手がスベッタァ」
棒読みだった。これまでに聞いたことがないほど棒読みの言葉だった。
大谷殿が腕を降り下ろすと巨大化した数珠の一つが石田殿の背に直撃、石田殿は突き飛ばされるように時継様に突撃、そのまま不可抗力にせよ時継様を突き飛ばすかと思われた。普通の武将であれば間違いなく突き飛ばし、怪我をさせていただろう。
しかし、突き飛ばされたのは日ノ本随一ではないかと真しやかに噂される瞬発力を駆使し、目にも止まらぬ居合斬りを得意とする並外れた運動能力を持つ石田殿。
そんな彼が並の武将が犯すようなよくありがちな事故を起こすことはなく、時継様にぶつかる直前、時継様を突き飛ばさないよう反って庇うように抱擁し、また自身も転ばぬようにダンっと足音一つ響かせて踏ん張ることなど彼にとって雑作もないことだった。
驚きのあまり声も出ない様子の時継様はただ呆然と石田殿を見上げ、石田殿もまた咄嗟の出来事に思考よりも身体が先に動いたのか、何が起きたのか分からないと言いたげな様子で腕の中に収まる時継様を呆然と見つめる。
いったい何が起きたのか、その場に居合わせた者達にも理解出来ないまま気まずい空気が漂う静寂の中、誰も身動ぎできないでいた。
しかしその気まずさ漂う静寂の中、その静寂を作り出した張本人だけは御満悦といった様子で笑った。
「……すまぬなぁ、三成。手玉遊びを仕損じたわ」
愉快そうに目許を緩ませた大谷殿が愉悦に満ちた声でそう告げると、見つめ合っていた二人の顔が同時に大谷殿を向き、それから互いを見つめ合う。黒曜石の瞳と金緑石の瞳が互いの瞳の色を映し、数秒もしないうちに二人は茹で上がった蛸のようになって固まった。
それを目撃した誰もが心の中で大谷殿に賞賛の喝采を上げたのは言うまでもない。何人かは堪えきれなかったのか「よしっ」等と拳を振り上げているものもいた。気持ちは分かるが慎め馬鹿者。
その密やかな外野の喜びの声で我に返ったらしい石田殿が赤くなったり青くなったりと忙しなく顔色を変えて未だに我に返らない時継様から離れようと腕を緩める。
「っ!も、申し訳ごふっ」
離れようとした石田殿の頭に数珠が五回、しかも連続で落ちる。思わず見ていた者達が顔を顰めてしまう程の容赦のない攻撃と鈍い音だった。
いつもの石田殿であればその攻撃を受けても辛うじて意識は残っていただろうが、時継様が誘拐されてから飯も食わず睡眠も取らずの栄養失調を来たしていた石田殿は呆気なく意識を手放して倒れる。抱きしめられていた時継様も一緒に倒れて「ぐぇっ!」と潰された蛙のような悲鳴が上がった。
近くにいた文官仲間達が慌てて二人掛りで時継様を救出すると、時継様は遠い目で零された。
「おかしいな……悲惨な出迎えの筈なのにこの出迎えで帰ってきたって感じてしまうのは何でだろ……」
「それが常であろ?それとも三成の抱擁の出迎え、気に入らぬか?」
「い、いや、べ、別に気に入らないとかそういうわけじゃ……ていうか明らかに吉継の数珠が三成の背を突き飛ばしてたでしょうが!私はっきり見てたんだけど!?」
音もなく御輿を近付かせてきた大谷殿に時継様は一瞬そっぽを向いて頬を赤らめたが、即座にはっとした表情で彼の御輿に掌を打ち付ける。痛そうな音と共に時継様の目に涙がうっすらと浮かんだが見なかったことにした。
大谷殿も一瞬白けた目で時継様を見たものの、直ぐに意地の悪そうな笑みを目元に浮かべて口を開く。
「ほぉ、気に入ったか。それは良かったヨカッタ。しかしあれだけの逢瀬では三成も可哀想というもの。何せ主がいなくなってからあまりにも気に病んで飲まず食わず寝ずの生活をしていたのよ。主が拐われたのは己のせいだと思ってナァ。われや他の者が何を言っても聞かぬ。真に痛わしい姿であった。日に日に痩せて窶れていく三成を見るのは辛いが、主がいないと何も出来きぬし、部下もすっかり憔悴してわれ好みの不こ、否、あちこちで惨劇が繰り広げられていてナァ。真に退屈しな、否、心苦しい日々であった。しかし主が戻ってきた今、全ては解決するというもの。目覚めて主が昼寝も朝餉も夕餉も共におれば三成も安心して御飯を食し睡眠も取ろ。なぁ、主もそう思うであろ?」
何やら物騒な本音を交えつつ、暗に「自分達が苦労したの責任とって面倒みろ」と告げるように意地の悪い笑みを浮かべた大谷殿が時継様の片頬に数珠をめり込ませると、脅しにも似たそれに時継様の顔色は青冷め冷や汗を流し、
「み、三成部屋に寝かしつけてくる」
と自主的(?)に告げて、時継様が石田殿に肩を貸すような体勢でその場を去られる。「帰ってきたんだからもっと優しくしてくれてもいいじゃん……」と去り際に小さく零されていたのを耳にして少し切なくなった。
時継様が去られたのを皮切りに、野次馬のように集まっていた武将や部下達もそれぞれの思いを呟いたり溜息を吐いたり、或者は心底良かったと喜びの表情を浮かべながら散り散りに去っていった。
その場に残ったのは自分と、いつの間にか自分の後ろに控えるように立っていた文官仲間の八坂、時継様が去っていった方向を穏やかな眼差しで眺めている大谷殿の三人。
何の気なしに大谷殿を見ていると、八坂が後ろから囁いた。
「よりにもよって今戻られるとは……」
その言葉は聞く者によっては眉を顰め、その言葉の意味を問いただすか怒りの声を上げてしまうような内容だったが、八坂の思考から溢れでたその言葉の真意を理解していた自分には同意したくなるものだった。
確かに、よりにもよって“今日”というのはよろしくない。
だが、自分たちの掛け替えのない主が戻ってきたのは嬉しい。この気持ちに偽りはない。無論、それは八坂にも当てはまる。しかし、今の自分たちの状況からは素直に喜べない事情があり、八坂の言葉もその事情を思うが故の溢れた言葉だった。
「――口を慎め。誰が聞いているか分からぬ」
振り返ることなくそう静かに叱咤すれば、八坂は一瞬苦虫を噛み潰したような表情をしたが、それと同時に大谷殿の視線がこちらに向いたことに気づいたのか、直ぐに表情を消し、視線が合ったらしい大谷殿に目礼して踵を返し、早足でその場を去る。
去り際に「先に行っている」と囁いて。
大谷殿は自分の後ろを去っていく八坂の後ろ姿を見ているようだった。病に侵され、視力は人よりも劣ると先日自嘲気味に零されていた姿からは想像もできないような鋭いその眼差しに汗が一筋、背を伝っていったような気がした。
見えておらずとも気配でわかるのか、それとも衰えた視力の代わりに聴力が利くのか。恐ろしい方だ。
ひとまず八坂の溢した失言を耳にしたのは間違い無さそうだと鋭い眼差しから判断し、八坂に向けて内心舌を打つ。
鋭い視線の先の対象が自分ではないと分かっていながらも、この場を誤魔化すか丸く収めなければと大谷殿へ微笑みかける。すると大谷殿はそれが見えたのか視線の先を自分へと移し、何かを考え事でもしているかのように目を細め、それからニンマリと表面上の笑みを目元に湛えて御輿を近づかせてくる。
――八坂の言うとおり、時継様が本日戻られるのは予想外だった。しかし、こちらの思惑を知らないとはいえ、大谷殿の計らいにより暫くは時継様も仕事に取り組めない。それはこちらにとって好都合というもので、そこは大谷殿に感謝せざるを得ないのだ。
話し合いをするには十分な距離にまで近づいた御輿を合図にするように、大谷殿に声を掛けられるより先に浅く頭を下げ、微笑みかけながら口を開いた。
「先ほどの妙計、恐れ入りました」
「なに、あれは三成を思ってのこと。主らの主が暫し仕事が出来ない分、主らに負担が増えるが……すまぬなァ」
「いえ、あの方の仕事を減らし、負担を軽くすることこそ我らの任務というもの。大谷殿の計らいには感謝しております」
探るような視線に胃の腑が痛んだような気がした。もともと、こういった腹の探り合いというのは得意ではない性分故に出来れば早めに切り上げたかった。腹の探り合いは武士の出である八坂の方が得意だというのに、歩が悪いと分かった瞬間早々に逃げよって。
思えば学舎にいたころからそんなところがあったと思わず過去の出来事に思い馳せかけたところで、大谷殿の視線が鋭くなった。
「――主の同僚はそう思っておらぬようだが?」
てっきりもっと遠回しに聞いてくるかと覚悟していた分、想像よりも直球なその言葉に内心八坂への悪態をついた。
「いえ、そのようなことは――まぁ、正直あの方にはお見せできない書類の数々が少し、ありまして……八坂が主にそれの始末に追われておりますゆえ。言葉は悪いですが、その、あの方がいらっしゃらない間に処理したかった、というのが本音だったのでしょう。誤解を招くような発言がお耳に入ってしまい、申し訳ございません。後で八坂にきつく言い聞かせますので、」
そこで話を切り上げようとした。そろそろ八坂の後を追わねばならない。もうすぐ“約束の時間”が迫ってきている。
では、これにて。そう告げて、失礼とは分かりつつも早々にその場を去ろうと踵を返したところで「橘殿、」と背に掛けられた声。
咄嗟に半身だけ振り返れば、そこには先程と変わらない距離に御輿を浮かせ、真意を読み取れない笑みを目元に湛え数珠の一つを掌の上で転がす大谷殿。その視線に自分の視線を絡めた瞬間、それは間違いであったと直ぐに後悔する羽目になった。
白黒反転した瞳に映るのは、新月の夜よりも深い闇に囲まれるようにして立ち尽くす自分の姿。
身の周りに蠢く気配を察し、思わず足元へ視線を向ければ、自分の立つ場所を中心に底の見えない闇が沼のように滾滾と湧き広がり、今にも足元の床すらも飲み込まんとしていた。闇の、婆娑羅。それが誰の意思でそこに具現化しているのか直ぐに理解し、焦りが思考を白く塗りつぶした。
咄嗟に大谷殿へと視線を投げると、足元の闇より深い闇を宿した瞳が自分を見つめていた。ヒタリ、泥水のような感触の何かが足に触れる。肌が粟立つ。
「裏切りを好まぬは、三成だけではない」
向けられた言葉は、研ぎ澄まされた刀よりも鋭く心の蔵に突き刺さる。言葉の意味を、それに込められた彼の真意を読み取り、口を開いた。
「っ、我らが、裏切ると?」
緊張と焦りで掠れたその声色に、大谷殿は目を細めるだけだった。
「――主らには“前科”がある」
心せよ。囁くような言葉を残して大谷殿がその場を去ると、足元にあった闇は霧散した。
暫く、その場を動かなかった。否。動けなかった。
大谷殿の姿が見えなくなっても、脅威から逃れられた安堵と恐怖から小刻みに震えて歩くこともままならない自分の足に自嘲した。大谷殿の言葉に反論を返すこともできなかった。確かに我らは、我らの同僚には時継様を裏切り、東軍へと流れた者もいる。しかし、その者達と我らは違うと言い返せた筈だった。それすらもできない。
やはり、自分にはこのようなやり取りはむかないのだ。文官仲間からも時にからかいの対象となる程の自分のこの弱さは、自分が一番理解していてそれ故に嫌悪していた。
世渡りが上手な八坂の器用さや、先を見通し東軍へとついた宗吉達のような意志の強さも決断力も持ち合わせていない。自分の唯一誇れるものは、人並みより少し優れた忍耐強さだけ。しかしそれで何か得をしたことも結果を残せたこともない。それは忍耐強さと同時に自分の中に巣くうこの弱さが邪魔をしてきたからだ。
次々と才能を開花させ、結果を残していく同僚を後ろから眺めながら時継様の部下の中で自分は出来の悪い生徒だと何度も思った。今もその思いに駆られる。しかし、
『三郎は、それでいいと思うけど』
脳裏から響いたその声に、息を呑む。
いつの日か、時継様にそう言われた。どのような時に言われたのか覚えていないが、恐らく“今のように”なっている時だ。
『君の忍耐強さには誇りを持っていい。君が弱さだと思っているところもだ』
黒曜石の瞳にしっかりと自分を映してそう告げたあの方は、いつだって自分達を見ていた。何が得意か。何が苦手か。それをしっかりと理解した上で、それを否定することもなく別の“何か”へと昇華させる術に、あの方にいつも憧れていた。
『君の弱さは己の身を守る上で一番大事な物だ。本能、とでも言えばいいのかな。恐れは人が生きる上で必要なものだよ。それは警戒心を育てる。それは人との交渉の際に自分の慎重にさせて、考える時間を稼ぐこともできる。それは弱さだと認識するのも自覚することも良い事ではあるけど、それに囚われてはいけない。ほら、教えただろう?見方を変えるんだ。物事には様々な面がある。それを様々な面から見て、良いところと悪いところを見つけてそれを利用するんだ。君にはそれができる』
あの方は微笑んで言ったのだ。君は為政者に向いていると。
その言葉に、どれだけ救われたことか。あの方のような為政者になりたいと何度思ったことか。
武士の出でも、国の状況を独自の見方で見ることができる農民の出でもない。ただ国の方針に流される町民の出である自分に政を管理する術を教え、自分のような者でも国を変えることができると、その責任もあると教えてくださった。
御義父上のような類希な智を有しているわけでもなく、軍に在籍し圧倒的な力で戦場を駆け抜ける婆娑羅者でもない。しかし誰にも真似ができないその柔軟な思考と穏やかな人柄に私は、我らは日ノ本の将来を視て、そんな世界が実現されたらいかに素晴らしいことかと惹かれたのだ。理想論で終わらせない行動力も、考え方も、全て眩いものばかりで、我らは思ったのだ。
この方をここで終わらせてはいけない。
豊臣軍の行く末とそれをそうさせまいと影ながら奮闘するあの方の思考を読み解くことは、学舎であの方の類希な柔軟思考力を受け継いだ我らにとって造作もないことだった。
このままでは、時継様は囚われる。そう呟いたのは、いったい誰だったか。
何故出生も立場も違う我らに平等に智と柔軟な思考力を授けるのか、それは時継様から直接教わった。日ノ本を統一した際に、大阪のような政治を全国で一斉に広げるために分身のような存在を作りたかったとあの方は仰った。そのために統治下である農民の村一つを我らのような存在を育てるための学舎へと改革し、君たちを育てたのだと。
あの方は考えておられた。このまま豊臣軍が天下をとった後のことも、日ノ本を満遍に豊かにせねばその天下も続かないことも。
自分の身に何かあっても大阪を始め諸国で問題が起きないようにと分身の我らを育てられていたが、御義父上が倒れてから状況が変化した。気が付けば、時継様は政だけではなく軍事の会議の場にも参加されていた。仕事が増えていった。我らだけでもできる仕事の他に時継様しかできない仕事ができていった。皆で問題を提議し、考えて解決策を練ることを誰よりも大事にされていた時継様が、一人で考えることが多くなった。
その姿は御義父上と重なった。一人で問題を抱え、解決して、周りの負担を減らそうとして自分背負う荷が重くなっていくことに気がつかないまま、潰される。
このままではならぬと、誰かが言った。
あの方をこのままにして見て見ぬふりをすることはできないと、誰かが提議した。
皆がそれに賛同した。他の者は誰も気付かない。我らだけが危機感を覚えた。あの方の教えを受けた者だけが気づいた。
「豊臣軍は消える」
徳川に反乱の兆候があることを誰よりも早くに察知した宗吉がそう言った。徳川に味方するものが増えつつあることに気づいていた我らも同じことを思った。誰よりも友を大切に思う優しいあの方も、運命を共にされるだろうと。それは避けなければならないことだと思った。あの方は大阪だけではない、この日ノ本にまだまだ必要な方だ。
「あの方だけでも救わねば」
「しかしあの方は、友を優先させる」
「あの方の友も救わねば」
「しかしどうやって」
「日ノ本は分裂しつつある」
「豊臣軍に味方は少ないかもしれぬ」
「どう致す」
「――私達の、軍を作るのは?」
「……正気か?」
「豊臣軍でもない、我らのをか?」
「しかし私達にそのような力は……」
「私達の“智”を使えばよい」
「なにを言って――まさか」
「そのまさかだ」
「ならぬ宗吉。それではあの方を裏切る」
「あの方を失うならば私は喜んで黒になる」
「……成る程な。その手があったか」
「お前もか八坂……!」
「考え方を変えるんだ、三郎。私達の存在意義が予定よりも早めに意味を成しただけのこと」
「しかし、それは我らの本当の存在意義と違う、」
「ならば、他に案はあるか?」
「……」
「確かにあの方の同意を得ることはないだろう。無論秀吉様からも。石田殿や大谷殿にバレれば命もないだろうな。しかし、延長線上に彼らの命を助けることにも繋がる。そしてそれはあの方を殺されずに済むのだ」
「そのために私達が裏切り者と後ろ指を指されても構わない、か。それを真に理解した味方も私達だけ、か」
「淋しいか?」
「戯言を抜かすな」
「冗談だ。それに味方は私達だけではない。増やせばいいのだ。私達に賛同してくれる同志を」
「本当に、それでいいのか」
「あぁ。私にはそれしか案が浮かばない。八坂も賛同したが、他の者はどうだ?何か他に意見はあるか?」
「……」
「決まりだな。言いだしたのは私だからな。私は“裏切り者”となろう。立候補する者はいるか?」
「……某も共に行く。東北に知人がいる。それを伝って某は東北に、奥州の国に潜む」
「では、私は九州だな。官兵衛殿がいるし、なんとかなるだろう」
「ならば俺は四国に」
「私は京に潜ろう」
「私は、そうだな、加賀に向かうか」
「お前たち……」
「三郎はどうする」
「私は、残る。お前たちが抜けた後、その分あの方を支える者が必要だろう」
「忍耐強いお前には適任だな。では、私も残ろう」
「……良いのか、八坂」
「私は大阪の気性の方が合うんだ。他に立候補はいないのか?」
「構わない。多すぎても残る者に要らぬ嫌疑がかけられるからな。では策を練らねば」
「待て。その前にお前たちが上手く潜れるかどうか分からぬだろう。期間を決めよう。今立候補した者は今から一月後に豊臣軍を離れる。それから三月後に現状を記した書を私に送れ。その内容を確認してから私が会合の時期や場所を決める」
「なるほど。慎重な三郎らしい意見だが、それが良いだろう」
「お前たちがせっかちなだけだ」
そう笑いあった一月後に、我らは散り散りになった。
約束通り、三月後には全国へ散った者たちからひっそりと書状が届いた。皆上手く潜り込めたとその書状には書かれており、それを見て未だ迷っていた心はようやく覚悟を決めた。あの方を救うために。
集まるには、出来ればあの方の目が届かぬところが良い。我らの行動を不審に思われぬよう、秘密裏に動ける時機を狙わねばならない。
そう考えていた矢先に、時継様が浚われた。大坂城が騒ぎに包まれる中、冷静な自分が囁いた。今が機会だと。怪しまれぬよう町民を装って場所と日にちを記した書状を同志達に送り、その時を待っていた。
その日が訪れた時、あの方は帰還された。まるで、我らの行動は筒抜けだと言わんばかりに。
しかし。
「筒抜けでも、構わない」
気づけば、笑みが口元に浮かぶ。あの方がよく浮かべている苦笑いのような笑みだと自覚した瞬間、何とも言えない気持ちになって唇を噛み締める。足の震えは止まっていた。
もし我らの行動を知られていたのだとしても、あの方が我らの行動の意味を理解する頃にはもう遅い。あの方はきっと褒めて下さらない。しかし否定もしないだろう。それが我らの固い決意から生まれた行動力なのだと分かれば、あの方は我らの邪魔をしない。そういうお方だ。
全ては、時継様のために。あの方が友と共に心から笑って過ごせる世を作るために。
踵を返し、自分の部屋へと戻り町民と同じような着物に着替え、必要最低限な持ち物と菅笠を手に部屋から出た。八坂は既に集合場所へと行って他の同志達と会っている頃だろう。自分も行かねばならない。
すれ違った文官仲間から驚いた視線を向けられると「下町を見てくる」と告げれば納得の表情を向けられる。時継様の教えを受けた者はよく下町へと赴き、町の様子を観察することが多かったがために通じる言い訳だった。
他の者、特に大谷殿に見つかって怪しまれぬようにと素早く城から出て、顔を見られぬように菅笠を被って集合場所へと指定した町外れの宿屋へと足を向けた。
後を付けてくる者がいないか用心深く注意しながら早歩きで進み、大阪の街を眺める。他の町にはない賑わいを見ていると改めて思う。このような街が日ノ本中に広がれば、どれだけ豊かな国なるだろうかと。その豊かになった国を我らが、我らの部下達が支えていければ、あの方の目指した国になる。
それが、我らの存在意義だ。
黙々と歩みを進めていれば目的の宿屋が見え、身も心も引き締まる。中に入って出迎えた宿屋の主人に合言葉と共に先に仲間がいるはずだと告げれば、何故か主人の顔色が変わった。
何事だと困惑顔気味の主人に視線で問えば、「あの、事前に教えて頂いた人数の方は既にお揃いなのですが……」と返されて思考が停止した。混乱と人の目を避けるため、同志と自分の含めた人数が宿屋自体を貸し切ることで事前に宿屋主人には話を通していた。しかし、主人はその予定の人数が既に揃っているという。
――呼ばれぬ客が一人いる。
何故だとか、誰だとか、計画が漏れていたのか等と思考が焼ききれるほど様々な疑問が脳を行き来する中、口は勝手に動いていた。
「……案内、してくれ」
溢れた言葉に、思考が追いつく。呼ばれぬ客人が誰なのか、確認せねばならない。場合によっては仕留めねばとも。果たして相手が簡単に仕留められる相手なのかも知らぬというのに。
主人は顔色を伺うように下から顔を覗き込もうとしたが、直ぐに頭を下げて「こちらです」と告げ案内をする。
一つの部屋の前まで案内をすると、主人は直ぐに去った。主人の姿見えなくなるまでそれを視線で追い、改めて目の前の部屋の障子を見つめる。耳を澄ますが、小さな話声が聞こえる程度で大きな異常はない。聞こえてくる会話の声は同志達のもので、呼ばれぬ客の正体が益々わからなくなる。同志達が普通に会話しているということは味方だと思っていいのか。
菅笠を外し、障子に手を掛けたものの開こうか迷っていると、障子が勝手に開いた。目の前にいたのは、一人の巨漢。
巨漢はこちらを見下ろすなり、「アンタが三郎って奴かい?」と人懐っこい笑みを向けてくる。見覚えのある男だった。いやむしろ見覚えがありすぎる。
咄嗟に巨漢の脇から部屋の中へと体を滑りこませた。部屋の中には同志達が円を描くような形で座していた。皆表情は気不味げで、視線があちらこちらへと泳いでいる。
「おい」
低い声で呼びかければ、同志達が一斉に肩を跳ねさせる。
背後で呑気に障子を閉めて「皆そろったな」等と言う呼ばれぬ客の巨漢を親指で示し、口を開いた。
「コイツ連れてきたの誰だ」
皆の視線が一人を向く。視線を集めた男は京に潜り込んでいた男で、刺すような皆の視線に彼は視線を畳へ落とした。
「その、いや、これはだな……」
良い仲間になりそうだと思って私達の話をしたら、今日の会合も「俺も混ぜろよ!」と勝手に付いてきた。
説明らしい同志の言葉が冷え切った部屋の中に霧散する。同志の視線に呆れが混じった。
「信景、お前……こいつが誰だか分かってて仲間にしようと思ったのか?」
先に来ていた八坂がため息と共に白けた視線を向けると、巨漢を連れきた同志、信景が言葉を詰まらせる。いったい何を言って仲間にさせようとしたんだと皆の視線が訴えると、信景は白状した。
「その、時継様と石田殿の関係をちょっと……」
「……馬鹿者が」
突然の頭痛に襲われて頭を押さえる。よりにもよってこの男にそんな話で勧誘しようとするとは……!
自分も含め同志達がどうしたものかと意識を飛ばしかけたその時、大きな破裂音が部屋に響いた。驚き音の発生源である巨漢を皆が見つめる。巨漢の大きな両の掌が合わさった状態で彼の胸の前にあった。どうやら柏手を打って注目を集めたかったらしい。その目論見通り皆の視線を集めた巨漢は満足そうに笑むと、口を開いた。
「――アンタ達の目的もちゃんと聞いたさ。大事な人を助けたいんだろ?」
巨漢は話はこれからだと言わんばかりにそこに座り込む。仕方なく自分の円に加わるように座れば、巨漢はまたもや満足そうに笑む、と、急に寂しげな静かな笑みを口元に湛えて視線を畳へと落とした。
「アンタ達の助けたい人、俺も無視できない人だからね。俺もどうにかしなきゃって思ってたけど、それだけだった。秀吉の時みたいにまた取り返しのつかないことをするところだった」
巨漢の口からでた名前に皆が息を呑む。かつて我らの主で大阪を統べる国主。徳川に裏切られ、命果てた男の名前。巨漢は、その男を呼び捨てにした。
巨漢と秀吉様の関係はなんだと皆が探りの視線を向ける中、巨漢は視線を気にもとめずにポツリと呟いた。
「一度犯した過ちは、もう繰り返しちゃだめなんだ」
その言葉は、脳裏にある記憶を蘇らせた。徳川が裏切ったあの日。石田殿が戦場から返ってきたあの日の、時継様の姿を。朗らかに笑まれていた今までの姿とは掛け離れた、見たことがなかったあの表情を。
『わたしの、せいだ』
主の亡骸を抱き抱えて己の姿の前で泣き叫ぶ石田殿を見下ろし、時継様は呆然と呟かれた。
過ち。あれは、時継様だけの過ちでは、ない。
「……我らには、武に秀でた者も、婆娑羅者もいない」
呟くように零せば、巨漢の視線がこちらへと向けられる。無垢とも言えるようなその真っ直ぐな瞳は、巨漢の人の良さを表しているようだった。思い返せば、巨漢は“あの時”も同じ瞳で大坂城の門を突き破ろうとしていた。秀吉様と話がしたいと、そう言いながら時継様を見つめていた。
真っ直ぐなその瞳を見つめ返し、両掌を畳へと付ける。同志の誰かが名前を呼んだが、巨漢に向けて言葉を紡いだ。
「直に、日ノ本は二分されるだろう。東と西。大きな戦になる。我らはそれに更なる第三勢力を作る。我らの目的のために。あの方のために。しかし、そのためには力が足りない」
巨漢が優しい目で見つめてくる。その目を見ていると、例え時継様に我らの行動を否定されてもいいと心から思えた。目の前の巨漢の瞳は、我らの決起に賛同していることが分かった。味方はアンタ達だけではないそう告げるその瞳。それだけの理由でも、これだけ心強いと思えるのは、巨漢の一種の才なのだろうか。
額を畳につけるように頭を下げ、願った。我らの願いを叶えるために。
「――前田慶次殿。どうか、貴殿の力を貸してもらえぬだろうか」
動き出した歯車
(三郎、だったよね、アンタ。頭を上げておくれよ)
(前田殿)
(俺も、俺の目的のためにアンタ達と組むんだ。俺たちの立場は平等だ)
(さぁ、大切な人を救おう)