四十六ノ話








夢を見ている、と分かる夢を“明晰夢”というそうだ。






明晰夢では自分が夢を見ていると自覚する以外の特徴として、夢の中での自分の姿を自由自在に変えられたり、自分の思うがままに行動することができるらしい。














ならばこれも明晰夢だろうか、と生活感のある白い天井を見上げた。













「、なっつかしー」


思わずそんな言葉を溢した直後、耳元でけたたましい、騒がしいけれど思わず聞き入ってしまいそうになる懐かしい騒音を耳にして、咄嗟に腕を振り上げ、バチン、硬い感触と共に音が止む。

隣を見上げ、そこにあるものを見つけて目を細め、乱暴に叩いたことを少しばかり後悔しながら、労るようにそれをそっと撫でた。

「目覚まし、」

体を起こせば、懐かしい、けれども見慣れていた、部屋が。

「部屋、」

和風の作りではない、ここは。

「私の、」

グシャリ、情けなく歪んでいるであろう顔を両手で覆い、俯く。

夢だと、分かっていても酷く懐かしく、実の親の顔すら朧気になってきている自分が、ここまで覚えていることが奇跡に近くて、感情が高ぶるのを押さえきれず涙が溢れた。

鳥の囀ずる声も、何処からともなく香ってくる朝食の匂いも、みな全て、遠い昔に置いて――朝食の、匂い?



「かあ、さ、?」



バッと顔を上げてベッドから降りようと身を乗り出したが、寝起きの体が上手く起き上がらない細かなところまで再現されているらしく、無様にもベッドから転がり落ちた。

ドタン、響いた大きな音と振動と、鈍い痛みまで全てがリアルで。

「いったぁ……!」

涙が滲んで、恐らく一番酷く打ち付けた腰を労るように撫でた、直後。







「――ちょっと、凄い音したけど大丈夫なの?」







ガチャリ、部屋の扉が開いてスリッパを履く脚が見えた瞬間、ドクリと心臓が跳ね、ブワリと肌が粟立った。

上を見上げることが、出来ない。

「お、かあさ、」

「なぁに?変な格好してるけど、ベッドから落ちたの?大丈夫?」


――こんな、声だったんだ。


ふとそう、自然に思った自分が怖かった。

顔も朧気にしか思い出せなくて、声も忘れかけていて。

自分が過去のことを忘れかけていることを認めてしまったような、“帰る”ことを諦めているという気がして。



でも、例え夢でも、お母さんの声を。



「おもい、だせた」

込み上げてくる感情はあまりにも複雑すぎて、一言では表せられない。

ただ涙だけが頬を伝って溢れ落ちて、床に弾けた。

「ちょっと、本当にどうしたの?」

心配そうな声色に、淡い期待が胸を過る。



――例え夢だとしても。



「……何でもないよ」

恐る恐る、忘れていた“笑み”を浮かべる。

それからゆっくりと顔を、視線を上に向ける。

夢で、あったとしても。

声を思い出せたのなら、顔だって。

淡い期待は濃度を増して、期待へと膨れていく。

そうだ、声を思い出せたんだ、それなら例え夢でも顔だって思い出せるはず。

思い出せたら、二度と忘れるものか。

絶対に帰るんだ。

帰るためにも、皆の声を、顔を、記憶を忘れたりなんか。

忘れたら、私は。

スリッパを履いた脚からゆったりとしたスカート、エプロン、お腹。

「ちょっと悪い夢見てさ、」

胸元、首、顎――

「お父さんとお母さんの顔が、」


かお、





























「お母さん達の顔が、どうしたの、――――?」

























のっぺらぼうが、嗤った。


































「ふざけんな」




舌足らずな掠れた声。

瞼を開けば、木目の天上。

自分の部屋だと認識した瞬間、意味不明な言葉が口から溢れそうになって、何とか堪えて、溜め息を溢して体を起こした。

自分が布団の中に横たわっていたことをそこで知り、どうやら昨日は布団で寝られることが出来たようだと曖昧な記憶をもとに思い出した――いや、そもそもいつ寝たのかさえも覚えていないが。

周りを見渡せば、見慣れた和室――私の、部屋。

笑みを造って、そっと目を伏せる。

「これが現実、ね」

こうしている間にも、つい先程まで見ていた筈の夢の内容も消えていっている。

思い出した筈の、お母さんの声も。


また、忘れていく。



「――時継様、」

朝日を受けて白く輝く障子に、長身の影が跪く様子が映る。

それが誰であるか等分かりきっているから、怠い体を動かして障子を開く。

見えたのは、朝日を浴びて煌めく銀の髪。

「おはよう、三成」

微笑めば、こちらを見上げた彼の表情が強張った。

「っ時継様、」

「ん?どうしたの三成?――あ、そう言えば今日は真田が城に来る日だったよね?もしかしてもう時間だったりする?準備しないと……着替えるからちょっと待ってて、」

「時継様っ!」

ビリ、っと空気が震えるような、強い声。

驚いて言葉と体の動きが止まると、彼が「……申し訳御座いません」と顔を伏せて一言謝罪した後、真っ直ぐな眼でこちらを見上げる。

「真田の応対であれば、私にどうかお任せください」

「三成、に?え、でも私、幸村君に直接色々話したいことあるしさ、」

「後程真田にその時間を取らせます」

「いやいやいやいや、幸村君だって忙しいだろうし、同盟国とはいえそんな失礼したら」

駄目でしょ、と言いかけて、三成の表情が一変したのに気付いた。

何かを堪えるような、そんな顔。

「……三成、どうかした?何かあった?」

漠然とした不安が胸に過って、気が付いたら彼の目の前にしゃがみこみこんで、目線を合わせていた。

金緑の瞳が惑うように揺れ、何かを言いかけるように口が開いて、閉じる。

「三成、」

俯いた彼に促すように名前を呼べば、三成が小さく息を吐いたのが聞こえて。




「――貴方様を、失いたくないのです」




圧し殺した息を無理矢理吐き出すような、感情を殺そうとして殺しきれなかった、何か強い感情が滲み出たような、そんな声。

その声に込められた“何か”の方に気をとられて、彼が何と言ったのか、理解したのは彼がそっとこちらに手を伸ばし、壊れ物を扱うような繊細な手付きで私の頬に触れた、その直後で。

「失うって……そんな大袈裟な――そんなに疲れた顔してるかな私。大丈夫だよ、過労で死んだりなんかしないって。だって私は」


「豊臣軍には」


静かな声だった。

喧騒の中に紛れてしまえば聞こえないようなそんな声なのに、続けて言葉を発することが出来なくなるような、そんな威圧感を漂わせる声に遮られて、言葉が止まった。


「――私には、貴方様しか遺されていないのです」


直ぐ目の前の金緑の瞳に暗い、昏い光が滲んで、自分を映している。

朝なのに夜を覗き込んでいるような――あぁ、いや違う、そんな昏さではない。

これはいつか、何処かで。

頬に触れていた手が、名残惜しそうに優しく触れて、離れる。

「時継様、どのような形であれ、貴方様を失うことがあれば私は生きていけません」

ですから、どうか。

金緑の瞳が伏せられ、銀の髪が視界に映る――三成が秀吉様達にしていたように、跪いて頭を垂れている。

何かを乞うように。

「時継様、どうか……貴方様の傍に一生仕える許可を、私に」

「……な、にを」

言っているんだよ、そんなこと言われなくてもこれからも私は君の側にいるよ。

何が起きたのかは知らないが、思い詰めような三成のその言葉をそう笑い飛ばしたかったのに、口が、喉が動いてくれない。

何かが邪魔をしている。

そう言えない何かが。

原因、は。





『お母さん達の顔が、どうしたの、――――?』





のっぺらぼうの顔が脳裏にちらついて、気が付いたらフラリ、立ち上がって一歩後退っていた。

「時継、様」

何故、そう問い掛けてくるような揺れる金緑の瞳が、責めるようにこちらを見つめている。

その顔に、のっぺらぼうのお母さんの顔がだぶったように見えて、


「――ごめん」


ポツリ、吐いた言葉に金緑の瞳がみるみるうちに見開かれて、また一歩、私は後退る。

「わたし、は」

ここにいたくないわけじゃない。

むしろずっといたい、彼らの、彼の隣でずっと笑って、仕事に追われても何だかんだで手伝ってくれる部下たちと一緒に徹夜して、体の心配をしてくれてご飯も食べやすいものをと用意してくれる侍女達とのんびり会話して、そんな平和惚けした毎日を、これからも。

これからもずっと。

ずっと。




「帰らなきゃ」




自分の中で何かが決壊した。

壊れた入れ物は砕けて、他の何かも傷付けて、傷付いた何かは血を流す代わりに涙を溢して。

溢れる涙に目の前の景色が歪んで、金緑の瞳もぼやけて見えなくなった。

「時継様、」

彼が立ち上がって、引き留めるようにこちらに手を伸ばすその姿もぼやけて。


「私は、」


その手から逃げるように一歩後退ったら、背後に何かがぶつかった。

壁かと一瞬思ったが、それにしてあまりにも弾力があって、しなやかで、暖かくて――――




壁、ではない。





「え」

振り返ろうとしたら、視界が暗闇に包まれた。

何かで目元を覆われている、と直ぐに理解してそれに手を伸ばしたら、それは人の手のようで。


「貴様っ――!!?」


地を這うような、敵意に満ちた三成の声と背後に向けられる殺気に背後の人物が味方ではないことを直感で察した。

背後の人物は敵。

恐らく忍だ、しかし厳重に守りを固めている筈の大坂城にどうやって。

逃げよう、そんな思考が脳に回るよりも先にそんな下らないことを考えてしまったのが悪かった。

蛇のようにしなやかな動きで腹に腕のようなものが巻き付くことに反応できず、抱き着くというよりも拘束することが目的だとはっきり分かる体の密着に、逃げられないと咄嗟に思って体が硬直した瞬間、首筋に鈍くも重い衝撃が走って――














忍び寄る影














(あれは似ている)

(かつて私が執着したものに)

(故に欲した)


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