四十五ノ話







三成達が帰ってきた。




兵の数はそう減ってはいなかったが新たに増えた様子もなく、雑賀衆の棟梁である“彼女”の姿も見えなかったことから、三成達から遠征の結果を聞くまでもなかった。

しかし、杭を刺しに行ったとされる小早川に関しては、彼は西に着くという報告があった。

もし私が歴史に授業を寝てばかりで真面目に受けていなかったら、ただ単純にその結果を喜んでいただろう。


「小早川秀秋、ね」


目の前には使い慣れた文机と一枚の紙、そして小筆。

紙にはこれまで豊臣軍と同盟を組んでくれた武将の名前と徳川軍についた武将の名前が両サイドに分かれて記入され、真ん中には未だどちらにも着いていない武将の名前が記入されている。

今の日ノ本の状況を整理するために書きだしたものだ。

真ん中のリストにあった小早川秀秋という名前に線を引き、豊臣軍側へ――筆を置きかけて、徳川軍へとその名を記入した。





小早川秀秋


関ヶ原の戦いにおいて西軍側に身を置いていたが、戦の最中に旗を翻し、大谷吉継率いる隊に背後から強襲をかけ、東軍側へと転じた。
この武将の裏切りが無かったら東軍の圧勝は無かったとも言われている。
この戦いの後、徳川家康にその功績を讃えられて備前・美作の二国を与えられたが、僅か二年後に死亡。
原因は精神を病んでのこと、とも言われている。





――話したことはある、たった一度だけ。


何が原因かは分からないが、酷く激昂していた三成が彼に怒鳴り散らしていたのを偶々見かけて、あまりにも哀れなものだったから三成を引かせた、その時だけ。

その時はお互い名前を名乗らなかったのだが、あちらは私の名前を知っているようだった。

『貴方が“神童”殿……?』

恐る恐る人の顔を窺う、気弱そうな目を覚えいている。

それからは遠目にしか見れなかった、三成が何故か近づけさせなかったから。

だからこの“世界”の彼がどんな人物なのか全く知らない。

第一印象が気の弱そうな少年ということくらいしか。

そんな少年がまさか天下分け目の戦いにおいて最も重要なポジションにいるなど、誰も考えていないだろう。

「君が裏切りそうなのは何とくなく理解できるだけど、吉継が君に背後を取られて亡くなるなんてのは信じられないなぁ」

呟いた声が自室に小さく響いて、消える。

あの冷静な策略家の吉継がこの気弱そうな少年に背後をとられて壊滅だなんて、全く想像もつかない――つまり、その彼では対応しきれ無いほど、戦場は手一杯だったのだろう。

彼の裏切りのせいで、吉継は。



この少年が、三成と吉継を。



小筆から、ギリ、と鈍い音が聞こえた。

このままでは半兵衛さんの形見を折ってしまうな、と冗談半分に考えながら小筆をそっと硯の上に置き、懐から鉄扇を取り出し開いて口元を覆い、文机の上の紙を――「小早川秀秋」の名前を睨む。

「さて、君はどうしたら西軍側のままでいてもらえるのかな?」

別に西軍側じゃなくても構わない、初めから東軍に所属してもらっていても構わない。

裏切りという名の予想外な展開を生み出しさえしなければ、後はどうでもいい。

初めから敵であれば討つだけのこと……しかし、残念なことに彼は今、西軍だ。

ちょっとしか会ったことのない人物に「彼はこういう人物だ」と決めつけるようなことはあまりしたくはないのだが、間違いなくこれは断言する、彼は西軍を裏切る。

どういう経緯で彼が戦の最中で裏切ったのか、もっと歴史の先生に聞いておけば良かったな、と後悔の念が胸を過ったが、過ぎてしまったものは仕方ない。

薄れつつある記憶を必死に掘り起こした結果、徳川が何か小早川を焦らせるようなことをした、とだけは思い出せたのだが……

「うーん、どうしたもんかねぇ……完璧に詰んだな……」

焦らされる、ということは、何か脅しのようなものを掛けられたと見ていいのだろうか。

つまり、小早川に徳川軍が近づかないようにすればいいのか。

しかし戦場にて敵と接触が無いというのは有りえない。

ならば他の軍に守らせるか?――いや、大将じゃあるまいし、そんな待遇はできない。

そもそも戦に出させないというのも手だが、果たして西軍が国一つの軍勢が無くとも勝てるという、余裕のある軍勢を揃えられているかということが第一条件になる。

天下分け目の戦いと称される程の有名で大規模な戦だったのだ、その日が来るまでどうなるかなんて想像もできない。

「どうしたもんかね」

云々と頭を悩ませていると、頭が痛くなってきた――ついでに眩暈も。

……あれ、そう言えば昨日から徹夜で仕事してたんだっけ。

そうだ、吉継も三成も暫く留守だったから、長い期間書簡や書類をためてたら二人が可愛そうだよなぁなんて思って二人の分の書簡を見たり書類を捌いたりして気が付いたら夜明けを拝んでいたんだっけ。

結局自分の仕事そっちのけで二人の仕事をやっていたにも関わらず、二人とも予定より早く今日帰ってきたので、自分の仕事だけがが溜まるという無残な結果になった。

挙句に三成には土下座され、吉継には何故か笑顔で数珠を五発ぶつけられた、解せぬ。

踏んだり蹴ったりの結果に「私が二人の分までやる必要なかったんじゃん」というやりきれない思いから近くにあった柱を殴って拳を痛めたのが記憶に新しい。

地味に今も痛い、という私のアホ話は放っておいて、だ。

頭を軽く左右に振ったり眉間を揉んだりしてみたが、疲労困憊の体は正直なもので、よほど休息を欲しているのか頭痛は収まらなかった。

むしろ頭の中で小さな小人が酒飲んで暴れてるんじゃないかと真面目に疑いたくなるほどにまで悪化して思わずため息が出た。

このままでは仕事にもならないし、また倒れて一日無駄にする方が駄目だよねぇ、等と言い訳がましく内心で呟きながら鉄扇を放り投げ、ゴロリと転がって天井を仰ぎ見る。

そうしているだけで、瞼は今にも閉じそうになる。

……サボりではない、断じて。

ちょっと、睡眠をとるだけなのだ。

眠れば体調も良くなるだろうし、徹夜はお肌に悪いって言うし……あぁ、いや、女の子としての人生を捨てた私には関係の無い話だが。

それでもちょっとだけ、半刻だけでいいから――















「失礼します時継様、お茶をお持ちし刑ぶ、」

「はいすみません起きてます寝てませんよーえぇ全くほら体起こしてるしだから部屋に入ろうか三成ぃぃいいい」

障子の向こうからお茶を持って現れ、私を視界に入れた刹那のうちにお茶を中庭に放り出し“恐惶”で駆けだしそうになった三成の着物の裾を掴んだら盛大にビターンとずっこけた。

わずか一秒の出来事だ、私の反射神経も大分鍛えられたものである。

着物の裾から足首へと掴む場所を変え、それからズルズルと某ホラー映画のように三成を部屋に収納して障子を閉じた(それを偶々見かけた部下が「大坂城には三成様も敵わない怨霊がいる」等と文官仲間に話していたのは後で知ることになる)。

「ごめんね、お茶持ってきてくれたんだよね」

中庭に無残に転がっているであろう湯呑に心の中で合掌していると、引きずられた影響で乱れたらしい前髪をそのままに三成が心配そうに、それでいて遠慮がちに顔を覗き込んできた。

金緑の瞳に映った自分の顔を見て、思わず苦笑いが出た。

「心配するな、って言っても説得力ないよねぇ、この顔じゃ」

くっきりと浮かぶ隈。

疲労の濃い顔色。

頬をそっと手で摩ってみれば、女の子にあるまじき肌の感触がした。

「……白湯をお持ちいたしますか?」

気遣わしげにそう問うてきた三成に笑って頷き、乱れたままの前髪を手で梳いて直してあげた。

「うん、お願い。私ちょっと寝るから、部下に伝えてもらえないかな?」

三成にも見つかってしまったし、強がって大丈夫だと仕事をこなそうとしても強制的に休みを取らさせれることは目に見えているし、これはもう余計な心配を掛けさせる前に開き直って堂々と寝るしかない。

吉継も何だかんだ言いながらもきっと許してくれるだろう……………………………………きっと。

静かに退出する三成を見送ってから、さて布団を出そうかと部屋の押し入れに向き直って――諦めた。

書類タワーがこれ見よがしに押し入れの前にも高く積もっていたのである。

……寝るな、という誰かの陰謀だろうか。

いや、書類詰んだのは私だからそんなわけないけど、むしろ自業自得だけど。

「……いいさ、幸い打掛はあるし、これを掛け布団代わりにするさ」

やけくそ気味にそう呟きつつ半ば書類の間に埋もれていた打掛を引っ張り出し、部屋の隅の方の畳の上に広がる書類を退け、三成が白湯を持ってきてくれるまで壁に凭れかかって仮眠を取ることにした。

きっと起こしてくれるだろうし。

壁に凭れ掛かっただけで意識が遠のきかける自分の体の軟さに呆れつつも、打掛を体に巻き付けて寝る体制に入る。


眼を閉じ、溜まってる仕事どうしようかなぁ、なんて思ったところで、意識はブラックアウトした。



















「――時継様?」

白湯の乗ったお盆を傾けないように気を付けつつ部屋に入ると、部屋の隅の壁に凭れ掛かって寝目を閉じる時継様の姿が見えた。

お休みになられていると直ぐに理解し、足音を忍ばせ、文机にお盆を置いてからそっと近付く。

失礼ながらそっと小さく声を掛けても目覚める気配が無い。

布団を出されなかったのだろうかと部屋を見回して、押入の前に視線を向け、出せるはずがないと直ぐに納得した。

遠征に行っている間、御自身の仕事を止めてまで私と刑部の仕事をこなして頂いたという話は文官から聞いていたが、改めてこうして見回すと相当な書類が滞っているように見える。

時継様のご配慮によって私と刑部は次の遠征の準備に取り掛かれるものの、このままでは時継様の体の方が持たないだろう、と珍しく苛立たしそうに感情を吐露した刑部が呟いていた言葉を思い出して、申し訳ないという思いよりも先に、妙な安心感が胸を締めた。

無論、あの方が倒れてしまうのが嬉しいというわけではない。

自分の不甲斐なさを実感し憤り、あの方の体が壊れてしまいかねない痛ましいこと事件だ。



頭では、そう理解している。








『解放してやれ』









秀吉様のお声が、脳裏にそっと響く。

「秀吉、様」

もし、貴方様が家康に破れることなく、日ノ本が貴方様の御手によって統一されていたのなら、今頃時継様は晴れて自由の身となられていたのでしょうか。

竹中の字から解放され、時継様はどのような日々を過ごそうとしていたのでしょうか。

秀吉様は、時継様が豊臣軍から解放されることを願っておいでだった。

だが、日ノ本が統一された世で、己の前を導くように歩いていた華奢な背がいなくなる未来を、私は想像できない。

あの方が己の前を歩き道を示してくれるのだと信じていた、否、当たり前のことだと思っていた。

ピクリとも動かない時継様にそっと手を伸ばしても後一歩の所で届かないこの距離のように、微笑んでくれるあの方が己の手の届かない、けれども傍にいることが当たり前で。

触れそうで触れない、その距離が正しい主君と部下の関係だと、今まで思っていて。

「、時継様」

一歩、近付くように膝をついた。

カサリ、足元に散らかっていた書類を踏んでしまいたててしまった小さな物音が爆音のように大きく聞こえて、咄嗟に体の動きを止める。

起こしてしまっただろうかと不安に思って時継様はの様子を伺ってみるが、その気配はない。

それだけでもホッと息を吐いてしまうほどに安心すると、それまで動きを押さえていたように心臓がバクバクと鳴り始めて、この心音が聞こえてしまわないだろうか等と下らない心配を思いつつも、なるべく物音を立てないように息を殺して、もう一度手を伸ばす。

力なく畳の上に垂れる華奢な手にそっと手を伸ばして、指先だけ触れてみた。

指先にくすぐったい感触が伝わると同時にトクリ、心臓が小さく跳ね、顔が熱くなるのを感じた。

「時継、様」

チラリ、時継様の顔色を伺ってみたが目覚める気配はない。

注意深く様子を観察しながら、鼓動が早くなる心臓に後押しをされるようにそっと、己より小さく華奢な手に、己のそれを重ねる。

トクリトクリ、心臓が大きく動いて、己が緊張していることが嫌でも分かった。

時継様が目覚めている時には絶対出来ないことだ。

時継様が己に触れることはあっても、こうして自ら触れることはなかった。

部下が上司に触れるなど、礼儀を知らぬ無作法だと思っていたから。

あの方を失望させてしまうかもしれないと思っていたから。



――でも、今は。



重ねた手をスルリと動かして、細い指に己の指を絡めてみる。

己よりも滑らかな肌の感触に己は何をやっているのだと戒めの思いが込み上げると同時に羞恥心にも似た気恥ずかしさも沸き起こって、心の中でそれらがせめぎあい、自分が何しているのか、何故触れてはいけないのだったかとかもよく分からなくなって。
















「お慕いしております」














部屋の沈黙に押し潰されるようにして消えた呟きがどうか聞こえませんようにと願いながら、どうかこの方の夢の中で聞こえていますようにとも願ってしまう自分の浅はかさに呆れすらも通り越して、小さな嘆息が零れた。

手の届かぬ場所ではなく、直ぐ傍で、己の隣にいてほしいと見て見ぬふりをしてきた醜く穢い感情が心の底に根づいたその時から、触れたいと願うようになっていた。

秀吉様のお言葉に背くと分かっていても、傍にいてほしいと願っている不忠義者の己がいた。

ならぬといくら己を戒めても、こうして触れてしまう程にまで想いは膨らんでいく一方で。

「時継様、私は」

貴方のお傍にいたいのです。

例え秀吉様が離しても、秀吉様の命に背くと己をどれだけ言い聞かしても、この想いは冷めないのです。

一人の上司ではなく、一人の大切な人として恋情を抱いてしまった貴方を、離したくないのです。

それ故に貴方が私や刑部を、豊臣軍を支えようと力を注ぎ、未だ豊臣軍から離れないその姿を見ると酷く安心するのです。

まだ貴方は私の傍にいてくださるのだと。

貴方が豊臣軍を、私を見捨てないでいて下さるのだと思えて。

まだ、貴方が私の傍に手の届くところにいらっしゃるのだと勘違いが出来るから、潰してきたこの想いをもう潰さなくても良いのだと思えるから、だから

















『いずれ、その時が来る、』
















その時まで決めればよいと、友の言葉が脳裏に過って、呼吸が一瞬の間だけ止まる。


その時までに、決めなければ。


絡めた指先にほんの少し、力を込めてみる。

フルリと震えた瞼に心臓が跳ねたが、その瞼の裏にある漆黒の瞳に己の姿が映ることを考えたら、目覚めてほしいと愚かにも願ってしまう。

そうして己の名を呼んで欲しい。

ずっとお前の傍にいると微笑みかけて、束の間の安息でも、幻でも構わないから。











「――みつなり、」


とろり、眠そうな漆黒の瞳が己を映した。

「時継様」

絡めた指先を不思議そうに眺めて、小首を傾げるそのお姿が愛おしくて堪らなくて、苦しくて、胸がズキリと痛んだ気がした。

「、ごめん、何か、手つないじゃったね」

寝相悪いなぁ、と何か勘違いされて苦笑いする時継様に、己から指を絡めたのだと自己宣告しようとしたのだが、絡めた指をそのままに、時継様が空いている手をこちらに伸ばしてきて。

「お早う、三成」

忘れていたようにそう微笑されるその柔らかな微笑みが眩しくて、



「――お早うございます」



頬をスルリと撫でたその手に目を細め、頬を擦り寄せるふりをして密かに唇で触れた。













誰も知らない













(あ、白湯持ってきてくれたんだよね。ありがとう三成)
(勿体なき御言葉、)
(よーし、これ飲んで一眠りしたらがんばるぞー)
(――時継様、この文は?)
(……あぁ、今の状況をちょっと整理しててね。間違って小早川君を東軍に書いてしまったから後で書き直そうかと思ってたんだ)
(左様で御座いますか……よろしければ、私が整理致しましょうか?)
(え?ほんと?じゃあお願いしようかな)
(御意、)




(――狸、まてださむね、髭、……って何コレ……)
(三成が人の名を覚えていることを期待するのは無駄よ、ムダ)
(いや、いやいやいやいやいやいやこれはいくらなんでも酷いでしょってこれ味方軍もひどっ!?誰だよサンデーって!?)
(……………………………………………はて、われは知らぬナァ)




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