四十二ノ話






――凶王三成、否、刑部の策略によって、人一人程の巨大さもある鉄球付手枷をはめられて日ノ本の西、本州よりも更に西の穴蔵に追いやられて早数ヵ月。




日の光が差さない、暗い場所での生活に一月で慣れてしまったせいか、己の閉じ込められた穴蔵の地理を把握するのも案外時間を掛けずに済んだことは、自身の軍師としての能力の高さを喜ぶべきことなのだろうか。

そんなことをしている暇があるのなら逃亡の計略を立てろと人によっては言われてしまうかもしれないが、小生の閉じ込められている穴蔵は一度迷子になってしまえば二度と出てこられないような規模の、大きく深い、それこそ囚人を閉じ込めるには打ってつけの穴故に、逃走経路を考えるためにも先ずは穴蔵の道“全て”を把握する必要があったのだ。

逃走経路も完璧に把握し、後は手枷を何とかすれば後は暗い穴蔵生活ともお別れなのだが……人生、そう上手くいかないのが常というもの。

運に見放されっぱなしの小生は特に、である。

何をやっても外れない手枷の鍵は、憎き刑部が常に持っているということは分かっている。

その鍵を餌にたまにフラりと現れては小生を誂う刑部の隙を突いて鍵を奪ってやろうと企んでいるのだが、それもなかなか上手くいかない。

そんなこんなで早く穴蔵からの脱出を目指しているのだが……しかしまぁ、閉じ込められた期間が長ければ長いほど一緒に閉じ込められていた者達とも馬が合ってしまって、同じく閉じ込められたもの同士、気の置けない仲間として交流を深めることも今では当たり前となってしまい、意外と穴蔵での暮らしも悪くないのかもしれない、等といった錯覚が芽生え始めるのも時間の問題というもので。


そうしてどうしたものかと悩んでいた時のことだ。











「今日は、官兵衛さん」




長らく見ていなかった懐かしい顔に喜びを覚えたのは一瞬だけで。

「……お前さんか。久し振りだな」

仄暗い穴の中でもボンヤリと見えたその人物の姿に、僅かにだが、胸に何かが突き刺さったような痛みを感じた気がした。

足場の悪い穴の中を静かに滑らかに歩いてこちらへ向かってくる時継は何処か浮世離れして見えて、今見ている“これ”は幻覚なのではとそんな考えが脳裏に掠めたが、時継が小生の鉄球に触れ、僅かに眉を下げたのを見て、どうやらこれは幻覚ではないようだと思って。


「やつれたな」


そんな言葉が、口から零れた。

黒曜石の瞳が僅かに細められて、その顔を仮面のように彩っていた彼の義父そっくりの笑みが崩れ、昔よく見ていた彼特有の苦笑いに似た笑みが浮かんだのが見えて、そこで漸く素直に彼、時継との再会を喜ぶことが出来た。

「最近言われるんだよね、それ。ご飯ちゃんと食べてるのに」

困ったように頭を掻く時継のその姿の後ろに小飼時代の凶王と刑部が見えたような気がして、どうやら自分の中の時継像はあの時のままで止まっているらしいとぼんやり思う。

それほど迄に、彼のその表情とその動作は昔と変わらず同じで。

人の変化など、策を練るとき以外特に興味もない筈の自分がそれをやけに懐かしんでいて、それと同時に安堵もしていて、小生も老いたかと半ば巫山戯半分、自棄糞半分でそう思い込むことにした──こんな穴蔵に長い間閉じ込められているのだ、流石の小生でも自覚しないうちに多少性格が変わることもあるだろう。

「三成や刑部は何とも言わないのか?」

「……あぁ、そういや何も言われないや」

何の気なしに聞いた問いに返ってきた返事はやはりというべきか、想定した答えではあった。近くにいればいるほど、徐々に現れるその変化に気付きにくくなるというものか。

あの二人は何をやっているんだと呆れる一方で、それほど二人の意識が徳川討伐に向いているのだろうとも思い知らされる。

時継は近くの岩に腰掛け、懐から取り出した鉄線で首もとを扇いだ。

「ここは蒸し暑いね。体壊したりしない?」

「お前さん程柔じゃないんでね。この鉄球のお陰で体力も付いてきたってわけだ」

皮肉を交えれば時継が乾いた笑いを上げる。

吉継も容赦無いね、との言葉に肩を竦めて見せた。

確かに、この姿は豊臣から離反しようとした小生への罰でもある。

「時継、この手枷の鍵を持ってきてたりしないか?」

手枷と鉄球を繋ぐ太く頑丈な鎖をバッシバッシと地面に叩き付けながら自棄糞気味に聞けば、時継が表情を一変させた──何を考えているのか読ませない、彼の義父が得意な微笑だ。

まるで半兵衛が乗り移っているみたいだな、とボンヤリ考えて、何故だか、また微かに胸が痛んだ気がした。

時継が懐から何か小さなモノを取りだし、糸と連結させているらしいそれを宙にぶら下げ、こちらによく見えるようにゆっくりと揺らす。それは……透明な、鍵。

「南蛮の技術でね、硝子で鍵を複製してみたんだ。職人さんには散々愚痴を零されたり何度も失敗されたりで大変だったけど、何とか吉継に知られずに作ることが出来たよ」

「……本物か?」

「目の前で試しても良いけど、条件があるんだ」

目を細める動作まで半兵衛にそっくりで、見ていられなくなって視線を下に落とす。



交渉の仕方まで、奴にそっくりになっちまって。



思わず零れたその呟きはどうやら、彼の耳には入らなかったようだ。

「官兵衛さん、豊臣軍に戻って欲しい。徳川討伐に力を貸して欲しいんだ」

抑揚の無いその声音に違和感を覚えてふと、顔を上げる──相変わらず、時継の表情は義父のものだ。

顔の造形はまるで違うのに、まるで本人がそこにいるようだと錯覚しそうなほどその表情はそっくりで、彼らは実の親子よりも深い絆に結ばれていたのだろうかと思うほど、それは悲しい光景として小生の目に焼き付いて。



半兵衛、お前さん何てことしやがるんだ、と心の中で毒づいた。



我が子のように慈しみ、大切に育ててきた姿を知る者はそれこそ片手に数えられる程に少なく、何故だかその片手の中に小生も数えられるわけだが、そのせいで分かりたくないことが分かってしまうわけで。

時継から一番戦から遠ざけようとした奴が一番戦に近付けさせてどうするんだとか。

何事もなく平穏な日々を送れるようにするためと与えていた筈の人との交渉の仕方が逆に戦に利用されてるぞとか。

友に任されたからと始めは義理で預かっていたくせに、気が付いたら我が子のように育て始め、誰よりも、それこそ秀吉よりも優先して平穏になった世界で過ごして欲しいと願った相手が、もう戻れない所まで歩みを進めちまってるぞ、とか。


──全て、お前さんが子供のためにと遺してきたものがお前さんが望まない形で子供の背を押してるぞ。


脳裏にボンヤリと浮かぶ半兵衛の最期の姿へ内心でそう語りかけても、返事は無い。

当たり前だ、半兵衛は死んだ。


死んだはずなのに、表情と知識だけがこうして時継を苗床に生きてやがる。


「官兵衛さん、事は急でね。出来れば今、返事が欲しいんだ。この硝子だって鉄のように固くないから落とせば割れてしまうし、」

スルリ、時継が指の力を緩めれば、糸はその手から零れ、鍵が地面に近付く。

あの高さからでも糸を手離せば、いくら落下する高さがそれほどなくとも、岩の凹凸が激しいこの穴蔵では硝子なんて繊細なものはあっという間に木っ端微塵だ。

相手を脅す仕掛けも策も、本来の時継は出来ない筈の、良くも悪くも優しい心の持ち主だったというのが、運は無いが人を見る目には多少の自信がある小生の時継に対する評価だったというのに。

表情とは真逆の感情を映す黒曜石の瞳を、こちらをひたと見据えるその眼差しを見返しながら、肺に溜まっていた空気を口からゆっくりと吐き出す。

それが溜め息であることに気付かないふりをしながら、軍師の自身を、人を見透かすことに長けた自身を奮い立たせて時継を見詰めた。


「なぁ、時継よ。したくないならそんなことをするな」


黒曜石のその眼だけが昔と変わっていないことに、賭けた。

僅かに見開いた黒曜石の瞳にはありありと動揺が見えて、唇の端を歪めた──幾ら表情が、策が半兵衛にそっくりでも眼だけが前のまま故に。

誰よりもこんな汚い策を苦手とした昔のように、半兵衛がこんな策を打ち出す度に悲しそうな、寂しそうな眼だけが変わらないからこそ。

なぁ、半兵衛よ。お前さんもこいつにそんな顔は似合わないって思うだろう?

「……したくないけどさ」

絞り出したようなその声音と浮かべている表情はちぐはぐで、その差が時継の心情を現しているように感じて、また溜め息を吐きたくなった。

糸を掴む手を拳の形に握り締め、時継が笑う。


泣き笑いのようなその表情に、ここにはいない三成と刑部の顔をぶん殴りたくなった。


「二人のためにって考えたら、こんなことしか思い付かないんだ」


仮面のような表情が半ば崩れかけているのに、それでもこちらに臨もうとするその姿が憐れにすら思えて。

「お前さん、一生“家”に帰れんぞ」

一度踏み入れば二度と元に戻れはしない、ここは深く暗い、そんな世界だ。

それでも良いのかと問えば、時継が微かに息を呑んだようだった。

「……家には、帰りたい、かな」

「じゃあ止めちまえ、こんなこと。戦なんぞお前さんの出る幕じゃあないだろうに」

「うん、分かってるよ。でもさ、指咥えて見てるだけってのも駄目なんだ。二人が笑って過ごせるようにするためには、どうしても徳川は、」

黒曜石の瞳が揺らぐ。

あぁ、だからお前さんには無理なんだと心で語りかける。お前さんはあまりにも、この世界に相応しくないほど優しすぎる。三成のように盲目的にもなれず、刑部のように狡賢く強かでもない。聡明なくせに子供のように素直で無垢で、哀れに思うほどこんな汚い仕事が似合わない。



「討たないと、駄目なんだ」



まるで己に言い聞かせるようなその声音。

「本当に、討つつもりなのか?」

本当に、心からそう思っているのか。

口には出さずに見詰めれば、時継が口を開きかけて、一文字に結ぶ。

それから静かに、吐息を零した。

「……討たないと、駄目なんだよ」

呟くようなその弱々しい声音に先程までの余裕は無い。

俯いた時継の姿は迷子になって途方に暮れている幼子のように見えて、こっちへ来いと手を伸ばしたくて仕方がなかったが、それは小生の“役目”じゃない。

だからこそのやりきれない思いが腹の底に溜まって、形を変えて熱となり、込み上げてきて胸を圧迫し、溜め息となって口から漏れた。





なぁ、半兵衛。

お前さん、えらいもんを息子に押し付けて逝きやがったな。




なぁ、三成、刑部。

お前さんら、














また大事なもんを無くすぞ














(どうして私は徳川を討たないといけないんだろう)



(“徳川家康”が天下を取るって知っていたのに)

(知っていたのに何もしないで、この世界は歴史通りに進まないんじゃないかって油断して、“あの子”が大切なモノを無くして、)

(私が油断したから)

(あの子がそれを望むから)

(二人が死なないようにするために)

(今度こそ、失敗は――)



カシャン、と指から零れ落ちた鍵が粉々に砕けて、視界が歪んだ。





(――例え“家”に帰れなくても)





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