三成
それは突然の出来事だった。
あまりにも突然すぎて、何が起きているのか理解が出来なかった。
気が付けば、目の前で黄色の軍勢が赤黒い軍を攻撃していた。
「――止めろ。何をしている貴様ら」
何が起きているというのか。
今、混乱して統率が乱れている赤黒い軍は私が所属する豊臣軍だ。
黄色の軍は――
何故、どうして、何が起きている。
どうして二つの軍勢がせめぎ合っているのだ。
混乱する思考の中、目の前で赤黒い兵を討ち取った黄色の兵を切り捨てた瞬間、黄色の軍勢に囲まれた――まるで、そうすることが策のうちだとでも言うかのように。
洗練された動きで、何度も練習されただろう動きで、相手の手の内を知っているからこその警戒心を抱いた敵意の籠った眼で、黄色の兵が私を見ている。
――何故、私をそんな眼で見る?
「……石田殿、どうか投降されよ。我が主は貴殿との話し合いを望んでおられるのだ」
黄色の一人の武将がこちらに血に塗れた刀の切っ先を向けながらそう話す。
何故切っ先をこちらに向けられているのか、何故豊臣軍が斃れていくのか、武将が何を言っているのかも理解出来なかった。
混乱で見えている視界が狭まっていく。
それはいけないと、半兵衛様にも視界は広く持つように言われていたことがふと頭に過って、咄嗟に辺りを見回すと、それは視界に入った。
血に塗れた大地に転がる刃毀れの酷い刀は、豊臣軍で支給された刀。
その近くで斃れる肉塊は豊臣軍の鎧を纏っていた。
その肉塊にとどめをさした黄色の兵は、私に刃を向ける黄色の武将は、
「おい、貴様。刃を向ける相手を間違えているぞ。貴様は――」
豊臣軍だろう。
そう言い終えるのと、その武将が口を開いたのは、果たしてどちらが先だったか。
「――我らは、“徳川”軍だ」
一陣の風が血臭を引き連れてその場に吹いた。
ヒョウ、と耳元で風の音を聞きながら、和紙に墨が染み込むように、徐々にその言葉の意味を理解して。
ジワリと目の前が赤く染まって、混乱していた脳内が真っ白に塗りつぶされ、て
“三成!”
脳裏で、太陽のような男の笑顔が。
「――あ あ あ、ああ、あああああぁぁあぁあああぁぁあああ゛あ゛あ゛っ!!!!」
腹の底から何かが這い上がってくる。
それが何なのかは分からない。
ただそれは全身に力を漲らせ、刃に闇を灯した。
訳も分からないままに刃を振れば、周りに血が吹いた。
周りを囲むように斃れる黄色の兵の屍を踏み越え、周りを見渡す。
どこもかしこも、赤黒い兵が斃れていた。
勝鬨を上げる黄色の兵で溢れていた。
その間を駆け抜けた。
刃をひたすらに、抜刀の型など忘れて振り回しながら駆け抜けた。
目の前で血潮が吹こうとも、黄色の兵が斃れようとも、遠くで友が私の名を叫ぼうとも、何も考えられないまま駆けた。
自分は何処に向かっているのだろう。
何故駆けているのだろう。
目的も理由も分からぬまま駆けていく中で、ふと、戦前に友に話された布陣の説明が脳裏に過った。
『――三成、主は好きに戦場を駆け抜けよ。主の兵の面倒はわれが見る故、大事無い――何、太閤の守りとな?時継とも話し合うたが、太閤の守りは徳川が一番適任よ。奴は守りが得意故』
友は、刑部はそう言っていた。
時継様も知恵を授けた策で、それならば間違いないと秀吉様も頷かれていた。
奴も任せてくれと神妙に頷いていて――それなのに何故、どうして。
支離滅裂な思考の中で、少し広くなった視界の隅に、豊臣軍の本陣が。
黄色の兵に囲まれる豊臣軍の本陣が、垣間見えた。
――あぁ、あそこにあのお方が、秀吉様がいらっしゃるのだ。
あそこに行かねばならない。
何故そう思ったのか明確な理由も考えずに、駆け抜ける目的を得た僅かな安心感を噛み締めながら足を速めた。
黄色の兵を薙いで、割いて、突いて、刻んで、斬って、斬って斬って、斬って。
攻撃の手を休めないまま駆け抜けて、血潮を被りながらも本陣に辿り着いて、そして。
「……秀吉、様」
誰かが地に伏している。
否、誰であるかなど、分かりきっている。
人よりも優れた巨躯を武器に、堂々たる王の風格を身に纏って戦場を制覇するあのお方が、地に伏していて。
その傍で息を切らして顔を伏して膝をつくのは、
「――いえやす」
ポツリと言葉が零れる。
それが耳に入ったのか、伏していた顔を上げてこちらを見た家康は、驚いたかのように目を見開いた。
みつなり、と、奴の口が声もなく名を呼ぶのと、私が奴に肉薄したのは刹那の差もない。
自分でも驚くほど程の速さで肉薄し、抜刀する。
その刃を寸でのところで躱し、家康が後退して体勢を整えようとする。
それをさせまいと踏み込んだその時、斬撃の間から垣間見えた家康の眼を見て、自分の中で何かが埋まり、完結し、漸くそこで理解した。
「何故裏切ったぁぁあああああッ!!!!」
渾身の抜刀は躱されたが、奴の顔に一筋の赤い線を残した。
奴が顔を顰めるのをしかと見届けながら、また踏み込む。
刀を目一杯振り切れる限界まで近づくが、突然、視界が雷で遮られる。
バチリと腕に走った電撃に咄嗟に飛び退されば、鈍い黒鋼色の巨体が家康を背に乗せて空へと、手の届かぬ遠くへと飛び去って行くのが視界の隅に映った。
――あぁ、逃げられる。
頭の中でさせるものかと牙を向いたもう一人の自分に誘われるまま、駈け出そうとした、その時。
「――三成」
微かな、声。
今にも戦場の轟音に掻き消されてしまいそうな、声。
だがしかし、それがあのお方の、秀吉様のお声であると理解した瞬間に、まるで頭から冷水を被せられたような気がした。
刀を取り落としたのも気にならないまま、直ぐに秀吉様の下へ駆けつけ、その巨躯を抱き起した。
うっすらと開いた瞼に、途方もない安心感を抱いたのも束の間。
「……もう、解放してやれ」
今までに聞いたことのない、掠れた声。
何を、とは言わなかった。
ただ、今にも途切れてしまいそうなお声を聞き漏らすことの無いように耳を傾けなければならないとただそれだけを考えて、全神経を集中させて耳を澄ました――それしか、出来なかった。
「これ以上、縛り付けるな」
でなければ、半兵衛に顔向けが出来ぬ。
久方ぶりに穏やかに、秀吉様が笑ったように見えた。
秀吉様の大きな掌が私の頭にそっと乗せられて、僅かに動いた――頭を撫でられているのだと理解したのは、一拍遅れてからだった。
「頼むぞ
三成」
ズルリ、と手が地に落ちる。
赤い瞳が、眼が閉じられた。
抱き抱えた巨躯が、重みを増した。
聞こえるか、この慟哭が
(半兵衛)
(すまない)
(我の目の黒いうちに、あれを解放させたかったのだ)