三十三ノ話
夢を見た。
自分が元服を終えて間もない頃の夢。
『久秀、』
一人の男が、こちらに笑い掛けている。
目元を緩め、子に向けるような穏やかな、非常に平和惚けした弛んだ顔で、男が笑っている。
『何だよお前、また変な悪巧みでもしてんのか?』
仕方ねぇ奴だな、と言って眉尻を下げて笑う男は、仮にも一国の主になることを約束された自分にそれが何だと言い捨てて馴れ馴れしく接し、挙げ句には自分を弟のようだと言い放つような奇天烈な男だった。
家臣ではなく、そもそも武士の出でもないただの平凡な男ではあったが、初めて自分に出会った時から臆すること無く接してくるその男が、何処までも無垢で透明で理知を感じさせるその男の眼が、気に入っていた。
気付けば城の庭で立ち竦んでいたという、突如現れた正体不明な男に家臣一同は皆用心していたが、良く言えば友好的、悪く言えば馴れ馴れしい男の人柄と立ち振舞いにそれぞれが懐柔され、気付けば城でその名を知らぬ者はいないというほど、男は皆に好まれ、愛されていた。
また、男は非常に博識で、南蛮の者ですら理解できないことを述べる、或いは実演して見せては、「これが平成の発明だ」と、得意そうに胸を張った。
そんな男の話は聞いていて全く飽きなかった。
同じ話を聞くことは一度として無かった。
男が口を開けば必ず新しい話が飛び出した。
ある時はお伽噺、またある時は政の話、そして南蛮の話、動物の進化の話、未来の話。
男が先の世から来たと神妙な顔をして自分にだけひっそりと伝えてきても疑う余地すら湧かないほど、男は自分のお気に入りだった。
『なぁ、久秀』
ある日、男は童のように庭の砂利で山を作りながら、自分に話しかけてきた。
『お前、天下に興味あるか?』
『……さて、な。私は珍しい宝を手に入れたらそれでいい』
『だろうな。お前が天下取っても、飽きたの一言で日本が火の海になりそうだ』
カラカラと実に愉快そうに笑って、男は自ら積み上げてきた小石の山を崩した。
『なぁ、久秀。もし俺がこの戦国の世を統べる方法を――誰が天下を統べるのか知ってるって言ったら、どうする?』
自分の心情でも覗こうとするかのように、男の探るような視線が自分に注がれたが、鼻で笑った。
『そのようなことを知ったところで私には一欠片の価値も無ければ興味も無い。卿が話したいのであれば、話したまえ』
事実だった。
それを知ったところで、自分の底深い欲が無くなるという訳でもない。
男は、
『お前、つまんねぇ奴だなぁ……』
と呆れたように半眼でこちらを見たが、直ぐにまぁいいや、とまた石を積み上げ始めた。
『お前のそう言うところ、気に入ってるしな。どうやってお前みたいな天の邪鬼な奴に自分の話を聞かせてやろうかって教師魂も擽られるし』
『では、私の興味が向くように話したまえ』
『言ったなこの野郎』
よーし待ってろ、今話の構成練るから。
男が笑って、また積み上げてきた小石の山を派手に崩す。
男は未来の世で、子供に勉学を教える仕事に就いていると言っていた……と言っても、本格的な“教師”という職ではなく、その補助役のような“講師”という職についているらしいが。
得意な科目は日本史で、ゆくゆくはその専門の教師になるのだと目を輝かせて話す男は、いずれ先の世に帰るつもりのようだった。
男が自分の前からいなくなる。
それは時々自分の頭に過っては、不快な後味を凝りのように残す不可思議な感情を呼び起こした。
自分が男に執着している。
認めたくは無かったが、認めざるを得ないほど自分の中で男の立ち位置は自分に非常に近く、そして、
『なぁ、久秀』
俺、お前に出会えて良かったよ。
そう、平和惚けした男の笑う顔を、これからも見られるのだろうと、そう思い込んでいた。
その浅はかな考えを打ち砕いたのは、急な出来事だった。
いつの間にか男の噂は隣国に漏れていて、男の存在を恐れた隣国の主が、男を暗殺しようと草の者を差し向けたらしい。
平安な世で過ごしてきたと言う殺気も分からない軟弱な男は呆気なく血塗れになって、異常に気付いて草を火だるまにした頃には、男は既に虫の息だった。
軍の医師に診せても手の施しようがないと言われた。
『俺が教えたこと直ぐに理解してくれるし、今までで一番優秀な生徒だったよ』
ゴポリ、血を吐き出しながら、男がいつものように笑う。
目の前で男が死にかけている。
そんな事実を感じさせないほどいつも通り弛んだ笑みを浮かべているが、男の体温が徐々に下がり、肌の色が土気色を帯び、無垢で透明な、理知を感じさせる眼が虚ろになっていく。
男の瞼がゆるゆると、静かに閉じられていく様を、ただ見つめていた。
『わりぃ、帰るわ』
最後にそう言って、男は“消えた”。
――目が覚めた。
何とも後味の悪い夢だったと、そうぼんやり思いながら、体を起こした。
障子は未だ闇色に染まっていて、まだ日も上がらぬ早い刻に目が覚めたらしいと理解した。
胸の内に残る凝りの存在を確かめ、それを疎ましく思いながら、着替えようと寝巻きの帯に手を掛けた、その時。
『――久秀』
手が、止まる。
頭から足の先まで、動くことが出来なかった。
鋭い刃物に胸を突かれたような、そんな感覚がした。
静かに息を吸い込んで、全身の力を一度抜いてから、全身に力を込める。
それで体の自由が利くことを確認の上、顔を横に向けた。
男の幻影が見えた気がして息が詰まったが、その幻影は直ぐに形を変えた。
女にしては高い方の身の丈。
男の着物に包む華奢な体。
男とも女とも取れる、中性的な顔立ち。
幻影は直ぐに霧散したが、その一瞬の中で幻影の姿が誰であったのか、理解できた。
かつて、自分が暇潰しにと浚ってきた、豊臣軍の軍師の養子として、男として立ち振る舞う《神童》と謳われた少女。
今は何もない幻影のいた場所を見つめ、ふと気付いた。
――思えば、少女もあの男と同じ眼をしていた、と。
あの子が欲しいと欲が言う
(――同じ眼だ)
(平和惚けした、暢気な笑みも)
(南蛮の者と同等、それ以上の博識な知恵も)
(手に入れれば、この凝りは無くなるだろうか)