三十二ノ話







――豊臣の天下は目前だった。




天下に近かった織田は滅び、伊達は小田原の戦で壊滅にまで追い込まれ、武田も信玄公が病に伏してから勢いを削がれていき、北条も過去の栄光を前に地に堕ちた。

毛利は不気味な沈黙を、長曾我部は我関せずの態度を貫き、前田も一歩も動こうとせず、上杉は世捨て人の如く他の国に干渉しようとしない。

それぞれの国が次々と天下統一への道を閉ざされる、或いは自ら閉ざしていく中、豊臣軍だけが乱世の世を邁進していた。



何もかもを、省みずに。













「――家康、」


中庭の松の木の下で、いつの日かのようにぼうっと突っ立っていると、これまたいつの日かのように声を掛けられた。

振り返れば、喪服に身を包む時継殿が廊下からこちらを見ていた。

手招きをされたので近付いてみると、つい先程まで仕事をしていたのか、少し草臥れた様子の時継殿が口を開いた。

「家康、吉継を知らないかな?そろそろ次の会議の時間なんだけど、見つからなくて。秀吉様を待たせるわけには、」

何かを言い掛けた時継殿の小柄な体が前触れもなくグラリ、と前後に揺れて、慌てて支えようとしたが、その前に時継殿が小さくたたらを踏んで、体勢を直す方が早かった。

忌々しそうに顔をしかめた時継殿だったが、こちらを見て直ぐに微笑を湛えた……いつもの飄々とした笑みではなく、疲れているような笑みだった。

「時継殿、休まれた方が……」

「なぁに、大丈夫大丈夫。ちょっと目眩がしただけだから。それに休んでる場合じゃないからね」

会議の後は今後の政の方針、各地でポツポツと行われている一揆の対処を他の文官と話し合ったり、大阪の政策を豊臣の領地に広めて各地の政策を統一させる準備を始め、更には半兵衛さんが遺した策の数々をまとめ、保存する準備もしなければならないし、日ノ本統一後、密かに計画されている朝鮮への出兵の策も秀吉様と話し合わなければならない。

やるべきことを数えだしたら切りがない、と時継殿が苦笑した。

「官兵衛さんが九州に飛ばされたのはきついなぁ……吉継と私だけじゃあ半兵衛さんの膨大な策の数々を纏めきれないからさ。朝鮮への出兵の件もそうだし……あー、もう一人の私が欲しい」

猫の手どころじゃない、と額に手を当てて小さく溜め息をついた時継殿の顔は、濃い疲労に染まっている。

竹中殿が亡くなられてから時継殿の休む姿はめっぽう見なくなったからだろうか、と他人事のように考えると、心の奥深くに揺蕩う“何か”が揺れ動いた気がした。

それを圧し殺して時継殿の顔を覗き込めば、漆黒の瞳に自分の顔が映り込む――心配そうな顔をした小さなワシが、自分を見返していた。

「時継殿、もっとワシを使ってくれ。ワシは難しいことは分からないが、指示通りには動くぞ」

だから何でも背負い込もうとしないで欲しい。

このままでは時継殿が倒れる。

キョトリと瞬いた漆黒の瞳が驚いたように戸惑いのようなモノを一瞬覗かせたが、確かめようとする前に目を伏せられて、彼は力なく笑った。

「……ありがとう。でも、家康も充分働いてくれているし、最近戦続きで疲れているだろう?三成にも言っておいたんだけど、休めるときに休むといい。また戦続きになりそうだからね……って、あぁ、そうだ……あの件も今日中に片付けないと……」

疲れたような笑みから一変、何を考えているのか分からない無表情で考え込むように一瞬だけ俯くその姿。

それは生前の竹中殿が同じように考え込む時とよく似ていて、息が詰まった。

例え血が繋がっていなくとも、二人は本当に“父”と“子”であったという絆を垣間見たような気がして、声すらも出なかったのだ。


――そして、その絆が時継殿を生き急がせているのではないかと、無意識にそう思った。


戦とは無関係なはずの文官である時継殿が軍会議に出席し、半ば軍師として頼られてしまうほど、今の豊臣軍は何もかもが切羽詰まっていて、もう限界で。

「時間は……寝る時間をちょっと減らして……うん、いけるか……あ、あぁ、ごめん家康、君のこと忘れてた」

「酷いな時継殿」

笑えば、彼も笑う――久し振りに、飄々とした笑みを見れてホッとすると同時に、心の奥深くに揺蕩う“何か”が、ひっそりと自分に告げる声を聞いた。



――もう駄目だ



何が、なんて“何か”に問い質すことはしない。

もう分かりきっている、嫌というほど。

「……時継殿、少し聞いても良いだろうか?」

「ん、何かな?」

僅かに目を細めて、子供の質問に答えるように優しげな笑みを湛えた時継殿を見つめて、口を開いた。



「時継殿は、秀吉公に着いていくのか?」



時継殿の漆黒の瞳に、何かしらの感情が宿るのを見た。

しかし瞬いた次の瞬間には、笑みの下に隠れてしまっていた。

それから時継殿は暫し無言だった。

何かを見据えるように透明な眼差しでこちらを見つめるその姿は何処か浮世離れした雰囲気を漂わせていて、果たして時継殿は本当にここにいるのだろうかと馬鹿なことを考えた。

そして幾つか時継殿が言いそうなことを思い浮かべて、その一つを告げますように、と心の底で願う。

それはきっと、選ばれないだろうけど。

それでも、それは自分が一番願う“答え”で、希望でもあって、これから歩むであろう自分の、時継殿の、豊臣軍の――日ノ本の未来への道を、大きく変える可能性を秘めたもので。

自分のそんな浅はかな願いと“何か”すらも見透かすような漆黒の瞳に、ワシを見つめ続けるその真っ直ぐな視線に、妙な緊張感に包まれて背筋に冷や汗が流れた。

ふと脳裏に過ったこれからの自分の行動と計画に、罪悪感にも似た感情が込み上げてきて自分の中の覚悟を揺すってきたが、もう決めたことだと、踏みとどまる。

今まで様々なモノを見てみぬ振りをしてきた。

そのせいで消えていくモノを見てきた。

次こそは彼が救い上げてくれるだろうと期待して見ていたが、彼の両手はもう一杯だから。

見ていることしか出来ないと思い込んでいたそんな自分がとても悔しくて、歯痒くて、卑怯者だと気付いたから。


だから、もう決めた。


準備も整えてある。

だから迷わない。

例え大切な絆を断ち切ることになっても、もう見てみぬ振りは出来ないから。


だから、ワシは――


本当にそれで良いのかと問い掛けているような漆黒の瞳から目を反らしそうになった、その時。





「――うん、着いていくよ」





それは、一番選んでほしくなかった答え、で。


それでも、一番彼らしい答えでもあって。

そんな時継殿にほんの少しの安心と、落胆を抱いた。



そしてこれからのことを考えて、拳をそっと握り締めた。













決別の時













(君も着いてくるだろう、家康?)
(……あぁ、勿論だ)

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