二十五ノ話
――小生が奴に初めて出会ったのは、半兵衛が奴を養子に迎えたばかりの頃だ。
広い大坂城の中で迷子になって途方に暮れていた奴を、たまたま近くを通りかかった小生が半兵衛の下へ案内してやったのがきっかけだった。
初めは何てことのない、ただ年不相応な大人びた雰囲気を漂わせる、何とも言い難い不思議な雰囲気が印象的な、何処ぞの姫みたいに華奢な体つきの子供だと思った。
だがあの半兵衛がたかが友人のよしみで子供を引き取るはずがないと予想はついていたからか、始めから何かしらの能力があるのだろうと奴には用心して目をつけていた。
その予想は見事に当たり、奴――竹中時継と名乗る子供が全国に“神童”として名を知らしめたのは、初めて出会って一年もしないうちのことだった。
半兵衛に(無理やり)頼まれていた書簡の仕事を終え、ようやく自由の身になったと、何を考えるわけでもなく城の中をぶらついていると。
「――あ、官兵衛さん」
縁側に腰を掛けた時継に出会った。
「おう、お前さんか」
時継は義父である半兵衛とは遥かに違い、偶にからかってはくるが、小生を貶めることを一切しない。
それどころか自ら話し掛けてきては、小生が今まで聞いたこともないような面白い話をしたり、小生の愚痴にも付き合ってくれる。
義父と時継の友人二人は遥かに気に入らないが、小生を一人の武将として丁寧に接する時継は嫌いではない。
この後は暇であるし、どうせなら半兵衛への愚痴を聞いてもらおうと時継に近付いて、
「……げっ!!?三成――」
時継の膝に頭を横たえて、静かに寝入る三成の姿が目に入った。
思わず大きな声を上げかけた小生に向かって、時継は静かに、とでも言うかのように人差し指を唇に当て、しぃ、と言った。
「ようやく寝たところなんで、静かにしてください」
真剣な表情でそう言う時継の剣幕に押されるように、慌てて口を閉ざして頷きかける。
「す、すまん……あ、いや、何で三成がそんなとこで寝て……」
普通の声の大きさで話し掛けると、また時継が唇に人差し指を当て、しぃ、と言った。
「話すなら小声でお願いします」
「う……な、何で三成がお前さんの膝の上で寝てるんだ?」
またもや剣幕に押され、渋々小声で話し掛けながら、そろりそろりと時継の隣に腰掛けた。
そこで三成が時継の膝に頭を横たえ、幼子のように体を縮めて寝ている上に、時継の羽織が布団のように掛けられていることに気付いた。
まるでその姿を覆い隠すように掛けられた羽織の働きもあり、遠目に見れば三成の体が上手く時継の体の影に隠れて見えない。
いくら時継が華奢な体をしているとは言え、何も知らないでこの光景を見たとき、ただ単に時継が羽織を隣に置いているだけのように錯覚してしまう。
――通りで三成がいることに気付けなかったわけだ。
「さっきまで私の仕事を手伝ってくれていたんですけど……何だか眠そうだったので、無理矢理寝かせて子守唄歌ってあげたらコロッと寝ました。最近忙しかったんでしょうね……疲れていたみたいですし」
豊臣軍の中で話が持ち上がるくらい、三成の眠りの浅さは有名だ。
だというのに、小生が直ぐ近くに座り、小声とは言え話をしていても一切起きる気配がない。
スゥスゥと穏やかな顔で眠りにつく奴の顔を信じられない気持ちで凝視しながら、時継に顔を向ける。
「……忙しいというなら、お前さんも負けてはいないだろ。最近半兵衛がぼやいてたぞ、時継が飯や睡眠を平気で抜くってな」
パチクリと黒曜石のような漆黒の瞳が瞬き、その瞳が鏡のように小生の顔を映し出す。
豆鉄砲を食らった鳥のようにキョトリとした顔が、何処までも透明で無邪気な笑顔を浮かべた。
何故か、その笑みから目を離せられない。
「――私は、いいんですよ。そのうち、私は要らなくなりますから」
「……お前さんが要らなくなる日なんて訪れないと思うぞ?」
世辞ではない。
時継は間違いなく、今もこれからも豊臣軍に必要な人材だ。
それはこれまでの功績が証明しているし、何よりも半兵衛や秀吉が豊臣軍を去ることを許すはずがない。
「大丈夫ですよ、“種”は育ってきてますから」
「種……?」
聞き返せば、ニコリと人好きのする笑みを返される。
「えぇ、種です。最近になってようやく私の教え子達が一人立ちできるようになってきてまして。そろそろ、私みたいな奴がそんじょそこら辺に現れますよ」
そうしたら、私は御払い箱です。
惜し気もなくそう言い放ち、時継は顔を中庭に向けて、何処か遠い処を見ているような眼をして、静かに三成の髪を梳く。
そんな時継の姿がまるで陽炎のように見えて、そのうちこいつは何処か遠い処へ行ってしまうんじゃないかと何処と無く、理屈抜きにそう感じた。
「……そう簡単に御払い箱になるとは思えんがね」
「いつまでも年寄りが政治の中枢を握ってたら駄目なんですよ」
「お前さん小生より若いだろ!?」
いつものように叩き合う軽口。
何の変鉄もない会話なのに、違うと心の片隅で叫ぶ“何か”がいる。
そんなよく分からない感覚を不思議に思いつつ、口を開いた。
「……お前さんは、可笑しな奴だな」
「誉め言葉ですよ」
普通の家臣ならば、死ぬまで主人の役に立つために躍起になる。
何処まで己を生かせるか、何処まで上り詰めるか、そんな計算を日々抜かりなく練りながら、少しでも自分の名を天下に轟かせようとするのだが。
時継には、そんな気がまるでない。
己のことよりも、豊臣軍の利を考える――先を見通して、己ですら道を作るための土台へと変えてしまう。
秀吉が天下を治めるために、何処までも影に徹する。
「それで?お前さんは豊臣軍を御払い箱になったら、どうするつもりなんだ?何処へ行くつもりなんだ?」
ただの好奇心でそう聞いた。
言うなれば、間を持たせるような、暇潰しの意味もないそんな問い掛け。
その問い掛けに、時継の顔がこちらに向けられる。
向けられたその顔は、唖然としていた。
「――何処へ?」
まるで、その先を考えていなかったとでも言うかのような。
「何だ、お前さん何処に行くのも決めないうちに豊臣軍を去るつもりでいたのか?」
そう鼻で笑えば、時継がゆっくりと瞬きをする。
それから何かを考えるかのようにユルユルと中庭に顔を向けて、懐から鉄線を取り出して口許を隠す――時継が考え事をするときの癖だ。
「――家に、帰るかな」
ポツリ、聞こえた呟き。
「家ぇ?お前さんの家はここだろう?」
咄嗟にそう返せば、時継の首が横に振られる。
「いや、ここじゃないんですよ。本当の家に帰る、かな。帰れるか、分からないけど――」
黒曜石の瞳がユラリと揺れる。
懐かしいものを見るかのように、何かを定めるような遠い目が宙を見つめる。
時継の言っていることが、全く分からない。
分からないからこそ、探求心が疼く。
「本当の家って……養子に入る前の実家のことか?遠いのか?」
時継が何処の家の出身なのか、小生も誰も知らない。
噂では、半兵衛も秀吉も知らないという。
時継を半兵衛に託した半兵衛の友人の実子でもないということくらいしか、皆噂で知っている。
ただ、それだけ。
もしや、小生がその秘密を今ここで聞けるのか。
その好奇心と期待感だけで、時継の話に食らいつく。
上手くいけば、これを基にして半兵衛の上に立てるかもしれない。
その思いだけで、小生は――
「―――――、あぁ、もう思い出せないや」
何かを言いかけて、時継がそうボンヤリと言う。
何を。
言いかけたその言葉は時継の顔を見たら――言葉を聞いたら、喉の奥へ引っ込んだ。
「遠いなぁ」
今にも泣きそうな顔で、時継が笑って続けた。
本当の名前も忘れちゃった
(時継、お前さんは――)
(家に帰りたいなんて、久し振りに思ったなぁ……半兵衛さんには秘密にしておいてくださいね。怒られるんで)
(……悪かったな)
(いいんですよ、官兵衛さんのせいじゃありませんし。暫く一人になりたいんですけど、いいですか?)
(あ、あぁ……三成持っていくか?)
(いえ、このままでいいです……三成がいてくれた方が、落ち着くから)
(――時継、様)