十九ノ話






徳川家康についての知識は、雑学みたいなものしか持っていない。




幼名は竹千代だとか、天ぷらが好きだったとか、武田信玄との戦で脱糞したとか、徳川幕府を開いたとか……とにかく下らないことやらアバウトなことしか知らない。

どんな人物だったとか、知るはずもない。

例えどのような人物でも、豊臣を脅かす存在に間違いはない存在で。

そんな人物の手から豊臣を、三成と吉継を守るためにはどうすべきなのか、今まではそればかり考えていた。

徳川家康という人物がどんな奴であろうが関係ないと、知る必要はないと身構えていた。


――それなのに。









「――時継殿!」


半兵衛さんに渡す書類を両手に抱えて廊下を歩いていれば、背後から明るい呼び声が響いてきた。

振り向けば、少し離れた廊下からこちらに向かって走り寄ってくる笑顔の青年、徳川家康。


――その彼の背後に、廊下の隅からこちらを覗き見るような体勢で黒い靄を全身から滲ませ、歯軋りをする三成の姿が見えたが、この際気にしないことにする。


家康が追い付くまでその場で待っていれば、それが嬉しかったのか、追い付いた彼が嬉しそうに笑った。

「……やぁ、家康。いつも以上に笑顔が眩しいけど、何か良いことでもあったの?」

「あぁ!実は朝早くに三成に会ったんだが、三成が初めて話しかけてくれたんだ!」

「三成が?」

彼という人は明るいし人懐っこいし、とにかく人に好かれるタイプの人間ではあるが、三成と吉継はこれでもかと毛嫌いし、話すことはおろか、近付きすらしない。

そんな三成が家康と話したなんて、それが本当なら今日は空から槍でも降ってくるのではないだろうか。

「因みに何て話しかけられたの?」

「『時継様に馴れ馴れしくするな斬首されろ狸がっ!!』って三成は話しかけてくれたぞ!」

「んー、それ話しかけてないよね。むしろ貶されてるかな」

家康のポジティブさは目を見張るものがあるとつくづく思う。

彼が笑えば周りにいる人も笑うし、困った人がいれば彼はすかさず助けに入るし、天性の人懐っこさも相成って、家康は本当に誰からも(一部を除いて)好かれる好青年だ。

この前の雨の日に出会ってからよく私の自室に訪ねてきては、何かと話しかけてくるようになった彼。

何を思って近付いてくるのだろうと、明るい笑顔の裏を覗き見ようとする私は滑稽で矮小な人間なのに……それなのに、どうして彼はこんな私に構ってくるのか。

君はいつか、豊臣を壊してしまう存在で、私の大切なモノを奪ってしまう可能性を大きく秘めた、そんな危険な存在なのに。

どうして、君は――


「……時継殿?」


ヒョッコリと顔を覗きこまれて、視界いっぱいに映った心配そうな顔。

どう見たってそれ以外の表情に見えないのに、その顔の裏に黒いものが含まれているのではと脳裏にそんな考えが過り、咄嗟に後ろに体を引いてしまって。

しまった、と思った時には時既に遅く、彼は少し驚いたように目を見開いて、それから少し悲しそうに微笑んだ。

剥き出しになった警戒心を何事もなかったように隠すには、何もかもが遅すぎた。

ズキリと痛んだ胸に残るのは、後味の悪い、凝りのある罪悪感。

挙げ句の果てには、彼に必死に弁明しようと慌ててしまったりして……今の私は非常に滑稽に違いない。

「ご、ごめん、ちょっと驚いちゃって……」

「時継殿……ワシは――」

私の肩に手を伸ばし何かを言いかけた家康――しかし、その手が届くことはなかった。


「時継様から離れろ狸がぁっ!」


伸ばされた家康の手を叩き落とし、私と家康の間に体を滑り込ませて家康と向き合ったのは、廊下の隅から“家政婦は見た”ごっこ(?)をしていた三成だった。

「三成!?」

「先程から見ていれば時継様に無礼にも声を掛け、あまつさえ時継様の体に触れようとするとは……!貴様はいったい何様のつもりだ!!」

噛みつくようにそう吼えた三成の剣幕に驚いたのか、家康が目を丸くして三成を見つめた。



「三成………………………………………また、お前から話しかけてくれるなんて……!」



感動しているのか、ウルウルと目にうっすら涙を浮かべる家康――って、今のそんなに感動するようなことだったのかおい。

普段からどれだけ無視されまくってるんだ彼は。

「い、家康?話しかけるというよりこれは突っ掛かってると言った方が正解――」

「時継様っ、家康に話しかけてはなりません!馬鹿が移ります!」

私を背中に匿い、愛用の長刀の柄に手を掛けながらジリジリと後ろに下がる三成。

その姿はまるで犬に対面して毛を逆立てている猫のようだ。

……というか馬鹿が移るって、どれだけ家康を毛嫌いしてるんだこの子は。

「こ、今度は名前を呼んでくれた……!」

「黙れ家康ぅ!!」

「ま、また……!」

……名前を呼んでもらえただけで涙ぐむ家康も家康だけど。

一歩間違えばイかれたストーカー紛いの発言だぞそれ。

「時継様、どうかお下がりください!時継様に近付く不逞な輩は皆この私が排除致します!」

「……三成。君、一昨日もそう言って私の新入りの部下に斬りかかったよね?そのせいで仕事が滞って大変だったんだけど」

「そ、それは……」

う、と言葉に詰まった様子で突然固まる三成。

対峙する家康もその三成の様子に呆れているのか、苦笑いを浮かべている。

「三成、それでは駄目なんだ。時継殿に近付く者が皆、疚しいことを考えているわけではないんだぞ?ワシだって時継殿と親しくなりたいから近付いているだけだ」

疚しいことは何もない、そう発言し、警戒する野良犬に餌をやる小学生のように恐る恐る近付いてくる家康。

それに対し、三成は牙を向ける代わりに長刀の柄に手を掛けることで牽制をかけた。

「っ五月蝿い黙れ!時継様にそれ以上近付くな!」

「三成!」

チャキ、とその場に響いた鍔鳴りの音。

それを聞いた瞬間頭から血の気が引いていく音を聞いた気がした。

これは三成が刀を抜く危険信号……このままでは家康が三成に斬られる。

それは駄目だと判断し、よく考えないまま三成の脇をすり抜けて二人の間に入る……書類が床にばらまかれたが気にしない、うん。

とにかく三成を落ち着かせようと前に飛び出したのだが……既に三成の刀の鯉口が切られていたらしく。

「時継様っ!!?」

白刃の刃の煌めきと三成の驚愕に満ちた顔が視界に映る。

……あぁ、これは死亡フラグだ。


「――時継殿っ!!」


避けることを諦めた私の体にドン、と襲った衝撃。

それと共に、私の体が庭の方に飛ぶ……身を呈して庇おうとした家康に、どうやら体を突き飛ばされて庇い返されてしまったらしい。

そう理解したのは、体が庭の方に背を向ける形で飛ばされ、その時に必死な表情をした家康の顔が見えたからだ。

かなり強い力で押されたらしく、私の体は庭の奥の方まで飛ばされる――家康、君の力はかなり強いね……お姉さんちょっと吃驚よ。

とにかく、三成の斬撃から避けられたのはいいが、このままでは庭の地に背中をぶつける。

咄嗟に受け身の体勢を取り、衝撃に備えて目を閉じた、その時。



バシャンッ



あ、と家康の間の抜けた声と全身を襲った衝撃は、果たしてどちらが先か。


「ガボゴホッ!?」

口と鼻から侵入する水に驚いて目を見開けば、視界に広がったのは太陽の光を反射して煌めく水の世界。

どうやら自分は水の中にいるらしいこと、そしてこのままでは溺れてしまうのではという考えが頭の中を駆け巡り、とにかく何かに捕まろうと手足をばたつかせていると、足先に何かが触れる――触れる?

ちょっと落ち着いて立ち上がろうとすれば、容易にそれは達成された。

気管に入り込んだ水に噎せて咳き込みながら周りを見渡せば、周りを囲うのは見慣れた庭の木々。

自分がいるのはそんな木々に囲まれた、深さが腰程にしか及ばない、


「ゴホッ…………………い、け?」


庭に作られた、大きな池。

そういえばこの庭には池があったんだっけ、と思いだし、どうやら自分はそれに落ちたようだとようやく理解した。

その中央に立ち尽くし、濡れた髪の毛を摘まみ、そして体全体を見下ろす。


……見事に全身ずぶ濡れである。


「――あー、吃驚した……」

寿命が縮むかと思った、マジで。

半兵衛さんに知られたら鼻で笑われてしまうだろうが、本当に吃驚した。

床に叩きつけられる衝撃に備えて受け身を取ろうとしたのに、まさかの水中に落ちるとは……

マジで吃驚した、とそう呟いた瞬間、


バッシャァァアアン


「おぶっ!?」

突然目の前で派手な水飛沫が上がる。

顔面にかかった水を掌で拭い、何事かと下を見れば、そこには、池の中で顔面どころか頭を水中に沈めて土下座をする三成が――って。

「みぃぃつなりぃぃぃいいいい!!!?」

咄嗟にその頭をスパァァァアンと叩いてしまったのは完全に私の手違いである、パニックのあまり手が滑ったのだ、うん。

慌ててその三成の上半身を起こし、肩をガクガクと揺さぶる。

「大丈夫!?息できてる!!?あと叩いてごめんね三成!!」

私と同様に全身をずぶ濡れにさせた三成は、今にも泣きそうに顔を歪ませていた。

「時継様!どうか、私に切腹する許可を……!貴方様に刃を向けるなど、私は……私は……!!」

金緑の瞳からポロポロと零れる雫が池の水ではないことくらい、直ぐに分かった。

小さい子供のように涙を流す三成を見ていたら、途方もない脱力感に襲われて。


「……三成、私は怪我してないし、大丈夫だよ。ほらほら、立って……あぁ、ほら。三成まで全身ずぶ濡れじゃないか」


仕方ないなぁ、と溜め息を零しつつ、込み上げる笑いを押さえきれないまま、ついつい笑ってしまう。

「時継、様」

ポロポロと涙を零すその姿は、大人に成長しても昔と全く変わらない。

「男子だろう、三成。これしきのことで泣くんじゃない」

三成の頬を流れる涙を親指で拭ってやると、三成が頬をほんのりと桃色に染める。

――君は乙女か。

濡れて余計に鋭くなった三成の前髪を崩してやろうと手櫛で梳いてやった…………が、髪型が崩れない、だと……?

三成、君の髪は形状記憶合金か。

三成の前髪に微かに恐れおののきつつ(?)、濡れて額に張り付く前髪が邪魔だったので、オールバックにでもしてやろうかと思いながら片手で前髪を掻き上げた。

「〜っ!!!時継様が前髪を掻き上げ……!!!」

何故かそれを見た三成がこれでもかという程に顔を赤くして、バッシャァァアアンと池の中に倒れた。

……何故じゃ。

池の中で一人悶える三成は果たして大丈夫なのだろうか。

「二人とも無事か!?」

そこへ慌てて走り寄ってくる家康に手を挙げて無事を知らせると、たちまちホッとした様子で家康が息を吐いた。

「時継殿、三成はどうしたんだ?池の中でのたうちまわってるが……まさか、何処かぶつけたのか!?」

「うーん、ぶつけてはないと思うよ。ただ何と言うか……ちょっとテンションがハイなだけかな」

「てん……?だ、だが、いくら何でも水の中にいては息が出来ないぞ!大丈夫か三成!?」

そう言うなり自らも池の中に入り、三成を助けようと家康が手を差し伸べる。

「私に触れるな近付くな息をするな私から時継様を奪おうとする貴様なぞいつか斬滅してやるぅぅううう!」

「三成、それは誤解だ!」

ギャイギャイと池の中で騒いでいる二人を苦笑いで見つめていたら、二人の間に流れていた先程までの鋭い剣呑さが無くなっていることに気付いた。

その小さな変化に驚きつつ、動物の戯れのように水の中で暴れ始めた二人の姿を見つめる。



三成によって何度も手を払い除けられても懲りずに手を伸ばし続ける家康の姿に、何故か胸の内の凝りが小さくなっていくのを感じた。












ぶつかり合って、境界線は溶ける











(おーい、そろそろ上がらないと風邪引くよ君達ー)
(三成、ワシは時継殿と話したいだけなんだ!お前から時継殿を奪おうとはしていない!)
(黙れ黙れ黙れ!そう言いながら貴様は私を差し置いて時継様を独り占めしているだろう!!)
(話聞けよ二人と――ヘブシッ!)
((っ!?))
(あー、寒い。こりゃ風邪ひくな)
(時継様ぁぁぁああああっ!!!?)
(時継殿、ワシが部屋まで運ぼう!)
(抜け駆けするな家康ぅぅぅうううう!!!!)

(――私のために争わないでって叫ぶべき?)

prev | しおりを挟む | next



戻る




×
「#寸止め」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -