十八ノ話






見たことのない少年――否、青年だった。



穏やかに静かに雨が降りしきる、とある午後のことだ。

書類の紙が雨の湿気でどうにも使い物にならなくなり、文官である私にとって唯一の仕事である書類確認やら押印やらが出来ず、半兵衛さんに土下座で願い出てようやく手に入れた半年ぶりの休暇を満喫しようと取り敢えずブラブラと廊下を歩いていた時。

「――ん?」


雨の降りしきる庭で、人影を見た。


庭は木々やら季節の花やらで美しく彩られているが、雨の日にまで庭に出て美しい植物を愛でたいと思う意欲を掻き立てられるほどの景色でもない。

はて、この雨の中誰が庭に出ているのかと、小さな興味が湧いて、その場に立ち止まった。

人影が見えたのは、庭の中でもかなりの高さを誇る立派な松の木の下だった。

視界が雨で微かに見えにくいため、雨が地を叩く音しか聞こえない静寂の中、例えどんなに小さな音でも聞き逃すまいと耳を澄ましていれば。


「――」


何かが聞こえた。

“それ”が何なのか理解できるほど明確に聞いた訳ではないが、やはり人がいたのだという確信を抱くには十分だった。

幸い自分の部屋の近くのため、直ぐに自室から草履を持ってきて(仕事をサボるとき、庭に出て半兵衛さんから隠れるために自室に用意してある草履だ)、懐から手拭いを出し、頭が濡れないようにそれを頭から掛けてから草履を履いた。

傘を持ってくればいい話なのだが、流石に傘は部屋に置いてなかったため、取りにいくのも侍女に頼むのも面倒だったので諦めた。

そっと足音を忍ばせて松の木の下に近付いてみると。


「っ――!」


目を真ん丸に見開いてこちらを見つめる一人の青年が、そこにいた。

三成と同い年くらいだろうか。

長身のがっしりした体躯を黄色の変わった服で包んだ、人の良さげな青年。

……はてさて、こんな好青年、一度見たら忘れなさそうなものだが。

豊臣軍に新しく入った兵なのだろうか。

この大阪城はこれでもかと無駄に広いため、入ったばかりの兵が迷子になって、普段身分の高い者しか行けないような城の奥まで迷い混むことが稀にある。

この青年もその類いなのだろうか。

久方ぶりに見た知らない顔に興味が湧いたが、それよりも。



「――ねぇ、君。そこは濡れるよ」



松の木は緑の葉が生い茂っており、いくら葉が針のように鋭く細いとはいえ、ある程度は雨を凌げる程の立派な木だ。

にも関わらず、青年は頭からバケツの水でも被ったかのようにぐしょ濡れだった。

いったいどれくらいの時間そこに立っていたのか。

「濡れ鼠よりも酷い格好だ」

からかうように言いながら手を差し出せば、青年がポカンとした面持ちでその手を見つめる。

なかなか手をとらない青年に焦れて、自分から青年に近付き、自分より大きな掌に触れて引いた。

「ほら、おいで」

軽く引いただけなのに大袈裟に青年がよろめいて足を動かす。

青年の掌が思っていた以上に冷たくて驚いたが、まるで人形のように大人しくついてくる青年の様子の方が気掛かりだった。

草履を脱いで廊下に上がり、頭に掛けていた手拭いを懐にしまい、近くを通りかかった侍女に声を掛けて熱いお茶と何か拭くものを用意するように頼んだ。

何故か侍女は青年を見て表情を固くしたが、私が首を傾げると慌てた様子でその場から去った。

侍女の様子も気になったが、それよりも。

「近くに私の部屋がある。そこで体を暖めるといい」

「……すまない」

ポツリ、小さな言葉が耳に届いて、内心ホッとする。

青年の顔色が何処と無く、悪い気がした。

早く私の部屋で暖めてやろうと、頼り無さげにボンヤリと立つ青年の手を引いて、歩き出した。

三成がいれば格別に美味しい茶を用意できるのになぁ、とここにはいない銀髪の青年の姿を思い浮かべ、苦笑する。

きっと、彼は今頃、秀吉様の御為との想いを胸に戦場を駆けているのだろう……最近半兵衛さんの体調が芳しくないことから、よく三成が秀吉様と共に戦へ出ていってしまう。

なかなか以前よりも会える機会が少なくなってしまって寂しいが、今日のように誰か見知らぬ人の世話を見ていれば気が紛れる。

……新しい出会いも、たまには悪くない。

自分に言い聞かせるように内心でそう呟いて、青年を部屋に招き入れた。

部屋の隅から隅まで書類だらけの乱雑した自分の部屋へ知らぬ人を招くのに羞恥心は無いが、どうやら青年は溢れかえる書類の山達に度肝を抜かれたようだ。

「こ、この山はいったい……」

「書類だよ。この雨の湿気で仕事が儘ならなくてね……よっと」

書類の山を隅に固めさせることでようやく二人分の空間を作りだしたところで、タイミングよく侍女が拭くものとお茶、更に気を利かせて青年の着替えも持ってきてくれた。

「あぁ、ありがとう。仕事中だったのにすまないね」

「いえ、構いません。あの、時継様……この者は――」

侍女の視線は部屋の中で佇む青年に釘付けだ。

何処と無くその視線に警戒の色が滲んでいるように見え、然り気無く、彼女と彼の間に体を滑り込ませた。

「私の友人だが、何か用か?」

「い、いえ!失礼しました!」

慌てた様子で部屋を飛び出していった侍女。

彼女はいったいどうしたのだろうと思ったが、とにかく濡れ鼠の彼をどうにかしようと思い、体を拭くものと着替えを渡した。

「私は部屋のすぐ近くにいるから、着替え終わったら声を掛けてくれ」

「あ、あぁ……」

戸惑った様子でそれらを受け取り、それから困惑の色を強く滲ませた瞳でこちらを見る青年。

何か言いたげだったが、早く着替えるといい、と遮るように着替えを促してしまった。

後から話を聞けばいいかと楽天的に構え、部屋から出て障子を閉める。


途端に、静寂の世界が戻ってきた。


雨の降る音と雨独特の湿った空気、雨に濡れて強くなった土の香り。

現代では何とも思っていなかったそれらを楽しみつつ、何となく廊下をゆっくり歩きながら、先程青年と出会った場所まで行ってみる。

庭にもう人の影は見えない。

雨の中、静かに雨の恩恵を受ける植物達をボンヤリと見つめてふと、改めて疑問を抱いた。

「雨の庭に、珍しいものでもあったのかな……?」

何故彼は、雨に濡れて庭に立ち尽くしていたのだろう。

顔も服も、全身をぐしょ濡れにして呆然と立ち尽くしていた人影を偶然にも見つけた。

もしあの時、自分の気のせいかと通りすぎていれば、彼はあのまま濡れて過ごしていたのだろうか。

それはまるで――



「……あの、時継、殿」



遠慮がちに背後から掛けられた声。

振り返れば、着替え終わった先程の青年がそこにいた。

着替えた服は先程と同じような服で、そこで改めて青年の姿を観察した。

フード付きのノースリーブの上着に鎧、動きやすそうな袴、装備した手甲。

どれも黄色を基調としたものばかりで、豊臣のイメージカラーとは大分違っている。

――いったい彼は何者なのだろう。

「……着替え終わったみたいだね。じゃあお茶を飲んで体を暖めようか」

ふと脳裏に浮かんだ疑問を脇に置いて彼に微笑みかければ、彼も微かに微笑を返してくれた。

部屋に戻って向き合うように座り、侍女の淹れてくれた熱い茶を飲んで一息をつく。

向き合う青年も熱い茶に冷えた体を解されたのか、どこかホッとした面持ちで手元の茶を見つめている。

その顔色が先程よりも良くなったことを確認し、口を開いた。

「改めて自己紹介といこうか。私は竹中時継という」

そう切り出せば、青年の目が見開かれた。

「……あなたが、あの“神童”殿……?」


……おぅ、久し振りに聞いたなその二つ名。


もう体も精神も二十歳を過ぎた大人になったし、その恥ずかしい二つ名はとっくの昔に消えたと思っていたんだけど。

思わず苦笑いで頷き、肯定した。

「もう童ではないけどね。まだあったんだね、その呼び名」

「あなたは有名だから……その名を知らぬ者の方が少ない」

戸惑った様子でそう言いながらこちらをまじまじと見つめる青年――その目には強い困惑の色が滲んでいるように見える。

「君の名は?」

微笑んで促せば、そこでハッとしたように慌てた様子で体勢を整え、青年が口を開いた。


「ワシの名は――」
「時継様、只今戻りました!」


青年の言葉に被さるように、障子の向こう側から聞こえた三成の声。

視線で青年に謝ってから、三成に入室の許可を与えた。

帰ってきてそのまま直行でここに来たのか、戦装束のままの三成が礼儀正しく部屋に入室し――先に部屋にいた青年を見て顔をしかめた。

「貴様は――」

「っ……!お前は……」

途端に固くなる青年の顔。

――知り合いなのか。

三成に書類を隅に固めて空いてるところに座るよう促す前に、三成が真剣な表情で私を見つめた。

「時継様。何故これがここにいるのですか」

「これ……?あぁ、彼のことか。先程拾ってね」

犬猫を拾ったとでも言うかのようなその言葉に、青年が苦笑いを浮かべた。

「“神童”殿、ワシは犬猫ではないぞ」

「ごめんごめん。でも本当に拾ったから。雨に濡れて庭にいたんだよ。放っておけなくてね」

そう三成に笑いかければ、彼が渋面を作った――珍しい、ここまで彼が不快感を顔に出すのが。

「時継様、これを即刻追い出す許可を私に。これは貴方様の傍にいていいものではございません」

「こら三成。いつも言っているけど人をそんな風に扱うなって。ごめんね、こんな風に攻撃的だけど、三成は本当は素直でいい子なんだ。仲良くしてやってね、えーっと……」

名前を呼ぼうとしたが、聞く前に三成が部屋に入室したので聞いていなかったことを思い出し、青年に問い掛けの意味を込めて視線を送ると。

青年は人懐っこい、穏やかで晴れやかな笑顔を浮かべて口を開いた。





「――ワシは徳川家康だ、時継殿」





ギチリ、運命の歯車が軋む音を聞いた気がした。











廻れ歯車、巡れ運命よ











(――徳川、家康……?)
(あぁ、気楽に家康と呼んでくれ)
(貴様っ!時継様に馴れ馴れしくするな!!)
(………………君が、家康……?)
(?時継殿……?)
(時継様?御気分が優れないのですか……?)
(――いや、何でもない。そうか、君が家康なんだね)
(あぁ、ワシが家康だ!)
(……時継様、如何なさいましたか?顔色が悪いようですが……)
(平気だよ、三成……君が家康、か……そうか…………もう、君が……)
(……時継、様……?)

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