八ノ話
桜の花びらが散り始める、春真っ盛りの穏やかな日のことだった。
「――花見を開催する」
謁見の間での軍議を終えた直後、私を含め三人しかいない空間で、いつも通りの強面で厳粛にそう言い放ったのは、豊臣軍が大将、秀吉様である。
「……へ?」
突然の発言に驚くあまり、両手で抱えていた布陣の大切な資料をバッサァァァアと全て盛大に落としてしまった。
しまった、と後悔するよりも早く、お仕置きと言わんばかりの闇属性の刃の雨が降り注ぐ。
「わ、ちょ、やめっマジ危な――イタァァァアアッ!!?」
咄嗟に構えた鉄扇であらかた防いだものの、取り零した斬撃にお気に入りの着物が駄目になり、かすり傷ではあるが大小様々な傷を負う羽目になった。
「あぁいけない、僕としたことが……」
そっと労るように半兵衛さんが手を伸ばしたのは、私の足元で桜の花びらの如く散っていた、攻撃した本人の婆娑羅技で木端微塵になってしまった資料の残骸達。
床が傷一つ付いていないのは、この城が唯一無二の友人の城だから、それを配慮して手加減でもしたのだろう。
……城の安全と天秤にかけられて負ける私って、いったい何なのか……
「ちゃんと防がないと駄目じゃないか、時継君」
まるで母親が小さい子供を諭すように、ため息混じりにそう言った半兵衛さんに殴りかからなかった自分の忍耐力を褒め称えたい。
「あの、血が出たんですけど」
「ちゃんと血の跡は片付けてくれたまえ」
「もうやだこの人」
半兵衛さんの前で意外とパックリいって血がダラダラ流れる傷口を見せても、本人は知らぬふりで湯飲みを口に運ぶ。
知らぬ顔の半兵衛とはまさにこの事だ。
唯一心配そうに声をかけてくれたのは秀吉様だった。
「大事ないか、時継よ」
「うぅ、秀吉様ぁ……」
自らの手拭いで傷口を塞ぐように縛ってくれた秀吉様の親切さに目の前の景色が歪んだ(馬鹿力で縛られた痛みによる涙ではない、決して)。
あぁ、やっぱり秀吉様は優しいな、などと思っていたが、チラリと盗み見た自分の腕に目玉が飛び出るのではないかと思った。
――え、ちょ、何か縛られた時痛いとは思ってたけど、これ完璧に鬱血してないかこれ?
腕が紫色なんだけど、どんだけ強く縛ったの秀吉様?
「あぁ、秀吉!君の手拭いが……!」
「ちょっとはこっちを心配してくださいよ半兵衛さんんんんん!!」
見ているこっちが辛くなるような、女性が見れば確実にストライクしかねないような切なげな表情で私の腕を掴む半兵衛さん……もちろん、その視線は私の腕に巻かれた秀吉様の手拭いであることは説明せずとも分かるだろう。
――いや、悔しそうに手拭い見つめてないで、私の腕が変色してることにちょっとは気付いてくれないのかなこの人は。
「秀吉、君の手拭いを使うまでもないよ」
言うが早いか、行動するが早いか――慣れた手つきでするすると固く縛られた手拭いを取り、代わりに包帯を丁寧に巻いていく彼に、もはやその包帯を何処から取り出したのか突っ込む気力すら湧かなかった。
「この手拭いは僕が綺麗にしておくよ」
「う、うむ」
ニコリと微笑む半兵衛さんとは対照的に、さすがの秀吉様もちょっと引いた様子で頷いた。
緩くなくきつすぎもしない包帯の巻き加減に半兵衛さんの器用さを内心で驚きつつ、そんな二人に声をかけてみた。
「あの、花見と仰っていましたが、いつ開催するのですか?」
今の時期は確かに花見に最適だろう。
庭に咲いた春の花々を見ながら職務をしていて、花見したいなぁ、なんて思ったのはつい先日。
まるでその自分の心を読んだかのような秀吉様の言葉に驚いてしまったのも無理はないというものではないだろうか。
「前もって準備は進めていたし……今日中にでも開けるけれど、どうする秀吉?」
「今日にする」
「分かった、じゃあ早速準備に取り掛かろう。茶葉も新しいものを仕入れたばかりだし、茶器も新しいものを出そうか」
「うむ」
ただの花見について交わされる会話のはずなのに、淡々と進む会話に無駄はなく、阿吽の呼吸で物事を決めるその様子は軍議でも見慣れた光景だ。
もうこの二人夫婦なんじゃね?と疑ってしまうくらいに息ぴったりの会話を眺めていると。
「――ということで、時継君。早速準備に取り掛かってくれたまえ」
「……はい……」
ニコリと見惚れてしまいそうな微笑で雑用も重要な仕事も押し付けられる形で命令されるのも、軍議でお馴染みの光景だった。
場所は変わって大坂城近くの緩やかな丘陵。
ここは桜の木々が所狭しと植えられていており、また大阪の城下町が見渡せる――まさに大阪という国を治める秀吉様の花見にはうってつけの場所である。
つい先程、秀吉様の皆楽しんじゃって発言(実際はもっと硬い言い方)に、武将達は花見を楽しもうと杯を交わし、それぞれの時間を過ごしている。
「時継君にしてはなかなか上出来な場所取りをしたね」
「はい、先にここを陣取っていた民衆に必死こいて頭を下げまくった甲斐がありました」
恥も投げ捨てて土下座しまくると、始めは頑なだった民衆も、
「御侍さんも、大変なんだな……」
と半ば同情で譲ってくれた。
隣で優雅に杯を傾けていた半兵衛さんが「君に武士としての誇りはないのかい」と顔をひきつらせたのは見なかったことにし、席を立つ。
「あぁ、竹中の名前は出さないでおきましたよ。代わりに黒田官兵衛を名乗っときましたんで」
ヒラヒラと手を振ってそう付け足せば、背後で「何故じゃぁぁぁああ!!?」と悲鳴が響き渡ったが、この際気にしないでおこう。
どんちゃん騒ぎとまではいかないが、それなりに賑やかな一帯をスタスタと通りすぎ、ふと視線を向けた先に見えたのは、少し離れた場所にある登りやすそうな一本の満開の桜。
これは一人で花見するには丁度いい場所を見つけたと思い、早速木の傍によって木に登れば、すっぽりと満開に咲き誇る桜の花びらに私の体は包まれた。
恐らく、遠目からでは桜の木の上に人が登っていることも分からないだろう。
そう考えると何だか隠れんぼをしているような、皆に隠れて秘密基地に忍んでいるような気分になって、ついつい楽しくなって顔が緩む。
まるで小学生じゃないかと思って顔を引き締めようとしたが、無理だった。
皆に隠れて何かをするというのもなかなか面白い。
何かもっと面白いものはないだろうかと周りを見渡せば、咲き乱れる桜の花びらの間から微かに見えた城下町。
周りの桜の花が額縁のようになっており、その光景はなかなか風流があって、思わずほぅと息をついた。
「――そこから見える景色は絶景か?」
突如掛けられた声。
驚いて下を見れば、すぐ下にこちらを軽く見上げる形で見つめる秀吉様の姿があった。
さすが秀吉様、木の上に登ってもそんなに身長差を感じさせないとは……軽く手を伸ばせば普通に私の所まで届きそうだ。
器だけでなく、体も大きいなぁ秀吉様――ってそうじゃない!
「ひ、秀吉様!?」
ヤバイ、部下が上司見下ろすとかやってはいけないことだ――つか、半兵衛さんにバレたら確実に殺される!!
慌てて飛び降りようとすれば、秀吉様が「そのままでよい」と片手で私を制し、城下町に視線を移した。
「大阪にこのような場所があったとは……」
ス、と目を細めて城下町を眺めるその姿は、とてもじゃないが声を掛けられる雰囲気ではない。
どこか懐かしいものを見るような仄かに優しげな表情を浮かべているのに、それでいて悲しげな雰囲気を纏うその姿。
いつも威風堂々とした姿しか目にしなかった秀吉様の見慣れないその姿に戸惑い、どう声をかければいいのか迷った。
そんな顔をする事情を聞けばいいのか、それとも脈略のない話をして秀吉様の気を紛らわせばいいのか。
――とにかく、何か話さなければいけない。
そんな風に感じて、咄嗟に口を開けば。
「……私も、です。今日、町民から聞くまで全く知りませんでした」
ゆっくりと瞬きをしてから城下町から視線を反らした秀吉様は、そのまま私に視線を向ける。
その時には、厳しい強面な表情に意思の強い光を目に宿した、いつもの秀吉様に戻っていた。
これで良かったのか今更になって不安になったが、もう言葉の取り消しの効かない所にいることだけは分かった。
「時継は民と話すのか」
「あ、はい。と言っても、身分は隠してなのですが……自分の発案した政策が大阪にとって本当に良いものか、もっと改善策を打ち出すことは出来ないのか、確認の意味で城下町を見回ることが多いので、自然と話すようになっていました」
――いつだって不安だった。
自分のやっていることは正しいのか、間違っているのか。
果たしてこれが最善策なのか、それともまだ良い案があるのか。
政策を打ち出した後、例えどのような結果であっても知らん顔を通すことは、どうしても出来なかった。
人の意見ばかり気にして半兵衛さんによく怒られてしまうが、自分の意見で何千人、何万人という大阪の国に住む人達の運命が決まると分かった日から、為政者として自分はどうあるべきか、自分に出来ることは責任を持って成し遂げたいと思うようになった。
自分の選択一つで人の命が消えるかもしれない……それは酷く重い枷となって私の体にまとわりついているのだ。
だからこそ、余計に自分の選択はよく吟味して選ぶようになった。
大阪の国が栄えるために、大阪の皆が安寧に生きていける国造りをするために、身近で人の話を聞いて、それを取り込んで皆が納得できる道を選ぶ。
「国が……民が、少しでも豊かになればと」
体よく言えばそうだ。
だが本音を言うならば、人殺し、と後ろ指刺されるのが怖くて、臆病者の私は皆の顔色を伺っているだけ。
内心で自嘲の笑みを浮かべた時、秀吉様の目が細められ、厳めしい表情が僅かに緩められた。
「――やはり、半兵衛の目に狂いはなかったか」
「え……?」
ここで登場するとは思わなかった人の名前に思わず目を見開く。
「我と半兵衛は戦ばかりに力を注いでいる故、あまり大阪の政に関わることが出来ぬが、時継のおかげで杞憂に終わる」
秀吉様の大きな手が伸ばされて、私の頭の上にポスリと乗せられた。
「――誠に大義よ、時継」
……一瞬でも、このまま掴まれて投げ出されそうとかビビりながら想像した私を殴り飛ばしたい。
違うんです、誉められるようなことではないんです。
私はただ周りの人の顔色を気にしているだけであって、私の選択で人殺しになるのが怖い、だけ、で……
フワリフワリと、大柄な手で撫でられて、出かかった弱音は言葉にならない声となって空気に溶け込んでいく。
――強そうな大柄な手は想像以上に温かくて、大きくて、何でも掴めそうで。
涙が出てしまうほどに優しく、その大きな手はそっと頭を撫でてくれた。
たまには労いましょう
(秀吉様。私は戦に出ることは出来ませんが……これからも政で必ず秀吉様の役に立ってみせますね)
(うむ。期待しているぞ、時継)
(はい、お任せください!)
(――半兵衛は、決して口には出さぬが……)
(?)
(時継のことを認めている。自分の後継に相応しいと。故に卑屈に構えることはない。自分に自信を持て)
(〜っ……!!?半兵衛さんには、いつも貶されてるイメージしかないんですが……)
(彼奴の照れ隠しだ)
(照れ隠しで殺されかける私って……)