五ノ話
――突然だが、私は運動が苦手である。
運動音痴という訳ではないのだが、どうしても体を激しく動かすようなスポーツや運動に体力と持久力が着いていけず、敬遠しがちだった。
「――手に力が入り過ぎだ。脇も甘いよ」
「ぅぐっ」
白魚のように白く、女性より若干骨ばった綺麗な手に鉄扇を持っていた右手を鋭く叩かれ、鈍く重い痛みに呆気なく鉄扇を取り落とす。
太陽がすっかり昇ったお昼頃、いつもは兵士達が鍛練する場として使う道場に、半兵衛さんと私の二人きり――否、そう遠くない距離を開けて、佐吉が丸太を練習台に居合いの練習に明け暮れている。
落とした鉄扇を拾い上げなから、チラリとそちらに視線を向けた。
――限界まで引き絞られた弓の弦のように、ピンと張りつめられた緊張感が漂う静寂の空間。
纏う空気はさながら一振りの刃のようにどこまでも冷ややかに鋭利に研ぎ澄まし、刀の柄に手を掛けてひたと丸太を睨み付ける佐吉は一人前の武士と遜色はない程の、いやそれ以上の存在感を放っている。
「――っ」
短く吐かれた息の後に辺りに響いた涼やかな鍔鳴りの音。
一拍遅れて丸太が袈裟懸けに斬り崩れ、丸太が道場の床に倒れる騒音が道場内に衝撃と共に響いた。
まだ斬り足りないと言わんばかりに倒れた丸太を睨み付けた佐吉の目はどこまでも真っ直ぐで、強さを純粋に求める強い目をしていた。
――本当は、武士として私もあぁならないといけないのに。
「余所見をしている暇はない筈だけれど?」
上から降り注いだ半兵衛さんの冷ややかな声に思わず体がビクリと跳ねる。
「もう一回構えるんだ」
「はい」
例え女の子の体付きをしていない私でも男子と女子の体格差は明らかで、持てる武器も自然と狭まり、武器は刀ではなく軽いもの、それでいて扱いは同じように扱える鉄扇になった。
その鉄扇を扱えるように舞を習うことになったのだが、先生は半兵衛さん。
有無を言わせないスパルタ教育なのは言うまでもない。
ただの体力作りという名目ではないことくらい分かっていたが、ここまでくるともはやこの人は私を戦場に連れて行くつもりなのではないかと思えてくる。
そこまで思えてしまうほど半兵衛さんの指導は厳しかった。
「まただよ。構えの癖が直っていない。やり直しだ」
「はい」
鍛練が始まって既に三時間。
基礎的な体力が平均女子よりもやや低い私からすれば、ただのダンスとは違い、ひたすら決められた型を決められた手順通りに、動きも重みを持たせてゆったりと動く舞の練習はあっという間に体力を削る地獄の鍛練だ。
――つまり、もう限界なのである。
腕はもう肩以上に持ち上げることが困難、足はガクガクと震え背筋はバキバキ、立つことで精一杯なのが現状という訳であって。
「やり直し」
「……はい」
……正直、もう涙目だったりする。
しかし泣いてたまるかとこらえ、あぁ、これは明日筋肉痛だとぼんやり思ってまた鉄扇を構えた。
――それを見られているということに気づかないまま。
「――時継様」
鍛練が始まって六時間。
途中、半兵衛さんに余りにも動きが悪いと怒られ、ひたすら足の運び方から手先の細かい仕草まで、鉄扇を握れなくなるまで鍛練を繰り返され、半兵衛さんが私の舞を見られる程度になったと納得して漸く、鍛練は終わった。
道場を去る半兵衛さんの後ろ姿を見つめながら、汗で額に張り付く前髪を書き上げた所で、後ろから掛けられた声。
振り返れば、両手で丁寧に手拭いを差し出す佐吉の姿がそこにあった。
こちらを真っ直ぐに見つめる金緑の瞳に何故か胸が苦しくなってズキリと鈍く痛んだが、堪えて唇を笑みの形にした。
「ありがと、佐吉」
「いえ、お役に立てたのなら光栄にございます」
顔色を輝かせる佐吉。
いつもなら可愛いその天使のような微笑に心が癒されるはずなのに、何故かまた胸が痛んだ。
酷く、重い痛みだった。
「時継、様?」
こちらを見つめたまま、不思議そうに首を傾げた佐吉。
何となくだが、佐吉の言いたいことは分かる……本当に何となくではあるが、自分でも分かるのだ、今の自分は上手く笑えていないと。
何でもない、と応えようとして口を開いたが、言葉が出てこなかった。
まるで、言いたいことはそれじゃないと体が拒否でもしているかのような、喉の奥がひりついて、胸焼けでも起こしたかのように胸が不快感を訴えている。
口を一度閉じて、もう一度開く。
何でもない。
そう言いたかったのに。
――目の前の佐吉が、視界がボヤけた。
「あれ……?」
首を傾げると、頬に伝う熱い液体の感覚。
一瞬クリアになった視界に驚いたように目を見開く佐吉の姿が見えたが、直ぐにまたボヤけた。
そうしてまた伝う熱い液体の感覚が。
驚いて両手で頬に触れれば、濡れた感触がしてギョッと目を見開いた。
――泣いている。
自分が、泣いている。
そう認識したのは、佐吉が酷く狼狽えた様子で私の濡れた頬に手を差し伸ばしてきてからだった。
「時継、様」
恐る恐るといった様子で私の濡れた頬に触れ、そのままスルリと私の頭の後ろに両手を回して佐吉が私の頭を引き寄せる。
佐吉の身長は私よりも低いため自然と中腰になり、その体勢も辛くなって、結局膝をついた。
――トクン
耳元で心臓が動く音が聞こえる……あぁ、これは佐吉の鼓動だ。
「……人の鼓動を聞いていると、気持ちが落ち着くと聞いたことがあります」
頭上から聞こえた声は緊張しているのか、微かに震えていて、耳元に聞こえてくる鼓動はトクリトクリと若干速めに動いている。
佐吉の言うことは聞いたことがあるというか、実践したことがある。
まだあちらの世界にいたときの頃の話で、思春期真っ盛りの友人がボロボロに泣いたことがあった。
初めは友人を慰めるために友人の頭を引き寄せて抱き締めた。
ぐずる赤子をあやすように背中を一定のリズムでポンポンと叩いていれば、友人は不思議といつの間にか泣き止んでいた。
今の今まで、それを不思議に思っていた。
――今なら、その気持ちが分かる。
簡単な言葉で表すなら、それは安堵と安らぎ。
仕組みは分かっていないが、私が思い付いた答えは、人の体温を近くで感じているからではないかと思う。
傷付きやすい思春期の子供達は、自分の激しい感情の揺れに不安を覚え、一人で悩むことは辛いからそれを打ち消すために人の温もりを求めるのではないかと。
恐る恐る、佐吉の体に両腕を回した。
回して、佐吉の体の細さに驚いて思わざず両腕に力を込めた――それでもびくともしないということは、佐吉がどれ程体を鍛えているかが窺える。
目の前には佐吉の着る道場着があって、微かに何か香の良い香りがした。
佐吉は必要最低限の身だしなみにしか気を配らないので、恐らく女中か紀之介の差し金なのだろうと考える。
そんなどうでも良いことを考えていると、 不意に私の頭を抱き締めている佐吉の腕の力が僅かに強くなった。
「時継、様。半兵衛様は、時継様を豊臣軍の軍師である自分の後継者として選ぼうと、必要な手解きをなさっているのです」
決して、時継様のことを疎んでいる訳ではないのです。
まるで自分の言葉を確かめるように、噛み締めるようにゆっくりと話す佐吉。
彼は自分の考えや思っていることを話すことが苦手だったな、とぼんやり思い出して、思わず苦笑した。
そんな彼が私を慰めようとしているのだ、年長者の私が泣いたままでどうする。
気持ちを落ち着けようと深呼吸をし、佐吉の両腕をやんわりとほどき、立って姿勢を正す。
「うん、分かってる。大丈夫だよ、佐吉。こんなことで挫けては武士として名折れだね」
駄目だなぁ私、と目元をゴシゴシと拭いて頭を掻きながら、驚いたように目を丸くする佐吉に笑いかけると、佐吉はどこか悲しそうに、悔しそうに眉を下げた。
……どうしたのだろう?
「時継様!私はそういう意味で言ったのでは――」
「時継様ぁ!!」
佐吉の言葉を遮るように道場の外から響いてきた大声。
聞き覚えのある声だと思って頭を傾げると、道場の戸を勢いよく開けて一人の男が飛び込んできた。
通りで聞き覚えがあると思えば、それは部下だった。
「時継様!南蛮との例の貿易の件でお話が……!」
危機迫ったような顔色で話す部下に、どうやら余程ヤバい話らしいと察し、持っていた鉄扇を懐にしまう。
「分かった、すぐに行く」
「は、」
急ぎ足で道場から去る部下を見送り、佐吉に振り返る。
心配そうにこちらを見つめる金緑の瞳に微笑み、頭一つ分下にある銀の髪を撫でた。
――私は大丈夫、こんな所で挫けてはいけない。
例え辛くても、泣いてはいけない、弱みを見せてはいけない。
佐吉がそう教えてくれたから、私は弱い様を他人に見せずにいられる。
国を、豊臣を、大切な人達を守りたいから。
「ごめん、佐吉。話は後で聞くね」
「はい……あの、時継様、」
何か言いたそうに上目遣いでこちらを見上げる佐吉だったが、直ぐに俯いた。
「……いえ、何でもありません」
「?」
どうしたのだろう、と首を傾げ、佐吉に聞こうとしたが、道場の外から部下の急かす声が聞こえた。
「行ってくる」
「は、」
佐吉の下げられた頭を撫でて、気持ちを切り替えて道場を後にした。
――そんな私の背を見つめる視線に気づかないまま。
押し隠した弱音
(紀之介。私は、弱い自分を憎む)
(……やれ、佐吉よ。主が何を言いたいのか分かりかねる。もっと詳しく話してみせ)
(紀之介。私は、頼りないのだろうか)
(………………時継か)
(あの方が泣いた)
(……時継とて人の子よ。それにあれは繊細故、泣きやすいのであろ)
(私のせいで時継様は泣けなくなってしまった)
(……)
(私は、弱い)
(――ならば、強くなればよかろ)
(……?)
(時継が挫けても、それを支えることが出来るくらい、主が強くなればよいことであろ)
(――どうすればいい)
(とりあえず、武を磨け。話はそれからよ)
(そうか。では鍛練に行ってくる)
(あい、行け、イケ)